日本仏教の南米開教百十周年 ペルーで開催

慶讃法要のほか記念の梵鐘を寄贈

報告:太田宏人
(ライター/元ペルー新報日本語編集長/宗門僧侶)


心の通った記念法要

 南米のペルー共和国で、現地時間8月24日と25日の両日、曹洞宗の南アメリカ国際布教110周年の記念法要が開催された。
 南北米大陸、ハワイ、ヨーロッパおよび日本の同宗僧侶約50名が随喜。国際色豊かな顔ぶれは、南米における黙照禅新時代を印象付けた。
 24日には、リマ県リマ市で曹洞宗南アメリカ国際布教総監部(ブラジル)の采川道昭総監の奔走で完成にこぎつけた日本製の梵鐘「日本秘露(ペルー)友好親善之鐘」の除幕贈呈式(導師:小島泰道教化部長=宗務総長代理)ならびに除幕撞き初め式、「南アメリカ国際布教110周年慶讃法要」(同)、「南アメリカ国際布教物故者諷経」(同:小林昌道永平寺副監院)、「開拓移民並びに日系人物故者慰霊法要」(同:乙川瑛元總持寺監院)が厳修された。会場は同市へスス・マリア区の日秘文化会館だった。
 翌25日には同県カニエテ郡カサ・ブランカの日本人墓地、同郡サン・ヴィセンテ・デ・カニエテ町の公営墓地内日本人慰霊塔での「詣塔諷経」(導師:總持寺知客兼布教教化部国際室長)、同町の慈恩寺では、「慈恩寺開山歴住諷経」(同:采川氏)、「盂蘭盆施食会」(同:大城慈仙南アメリカ国際布教師/ペルー瑞鳳寺住職)が営まれた。
 本堂には「お盆」に合わせ、ペルー日系人協会がチャーターしたバスで集まった参加者を中心に、2百人以上の人々が、それぞれの先人への思いを込めて、日系社会の先人たちへ香を献じた。日系人協会では毎年、お盆とお彼岸には慈恩寺参拝者のためにバスを出している。
 このほか、前後の日程で記念接心やリマ県北部のいくつかの日本人墓地での巡回法要も行われた。
 10年前、宗門による南米開教100周年記念行事が行われた。しかし、宗門とペルーの縁は実質的に30年以上も切れていた。
 宗務庁および南アメリカ総監部に混乱もあり、事業規模は大きかったものの、開教100周年は現地の日系人社会では好評ではなかった。
 当時は、ペルーには宗門の「足場」はない状態で、困難な状況ではあった。他宗僧侶団による慈恩寺乗っ取りも起きていた。
 その後、宗門と日系社会の関係性が政治的に急接近したわけではない。2002年9月には日系人協会より曹洞宗へ「一仏両祖像の撤去」が通告されている(後に関係者らの尽瘁で示談にこぎつけた)。
 2005年から南アメリカ国際布教総監として赴任した采川氏の誠実な関わりや同年からリマ市常駐となった大城氏の存在によって、関係修繕が地道に進められた。また、今回は、リマ市駐在の大城氏とその門弟たちという「足場」もあり、全体的に心の通った記念行事となった。

上野泰庵氏らの命がけの開教

 南米開教の動機は、ハワイや北米と同様、日本人移民への布教活動であった。南米への日本仏教の伝播は、1903(明治36)年にペルーへ向けての第2回集団移民とともに、曹洞宗の上野泰庵(兵庫県出身)ならびに浄土宗の2名(樹下濳龍および松本赫然=後に藤井=)が各教団からの辞令で渡航したことを嚆矢とする。
 日本人は耕地と呼ばれる大規模プランテーションで就労したが、不慣れな大陸性気候と重労働、不衛生な環境、移民自身の無知(獣肉は食べない、生水を飲む等)によって初年度は約5名に1名人が死亡するという惨状を呈した。第2回移民の頃、状況は改善していたものの、風土病の脅威は残り、移民社会は殺伐としていたという。浄土宗の2名は「移民は聞く耳を持たない」と数年のうちに布教を断念して帰国するが、上野師は移民監督として移民と苦楽を共にし、1907年に、大多数の移民の喜捨を集め、カニエテ郡に南米大陸初となる仏教寺院「泰平山慈恩寺」を開いた。
 「僧上野泰庵氏(略)ノ熱心ト本耕地移民ノ寄附千數百圓トニヨリテ建立セラレタル一寺院アリ(略)壯麗ナルモノニアラザルモ兎モ角南米ニ於テ建立セラレタルモノノ嚆矢ニシテ且現今ニテハ南米唯一ノ佛寺トシ毎日曜日ニ説ヘアル外移民ノ葬式、死亡者ノ法要等ヲ行フ」(野田良治「秘露國本邦移民勞働地視察報告書」、明治41年)。
 寺に隣接して南米初の日本人小学校も作られ、上野師が教師となった。
 上野師は1917年に第二世の齋藤仙峰師(山形県出身)に後事を託して帰国。しかし、齋藤師を含め戦前に2名の布教師および1名の配偶者が現地で病死。命がけの布教だった。なお、第三世の押尾道雄氏は宮崎奕保禅師の兄弟子で、宮崎禅師に衣の着方を教えたという(宮崎禅師談)。
 第2次世界大戦でペルーは連合国に所属し、対日宣戦を布告。ペルー在住の日本人の資産没収、日本人学校・新聞社の閉鎖、公民権の停止、約2千名の有力者を米国へ強制連行した。排日大暴動も勃発した。戦後も、日本人及び日系人への差別は続いた。この困難な時代に曹洞宗は僧侶を送らなかった。在留日本人社会とその子孫たちが失ったものは大きかったが、それでも彼らは慈恩寺を護り通した。
 日系人の苦難の歴史と慈恩寺は不可分である。慈恩寺が「移民の整地」と呼ばれてきた背景にある日系人の思いを理解せずに、この寺を語ることはできまい。