「昭和」の思い出
駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹
一、はじめに
九月九日(平成二十六年)に宮内庁は、昭和天皇の生涯にわたる出来事を記録した『昭和天皇実録』の内容を公表した。
実録は計六十一冊で、約一万二千ページという大部のもので、宮内庁書陵部の職員計百十二人が二十四年五ヶ月をかけて書き上げたという。
「昭和」が幕を閉じてから早くも二十六年、十年ひと昔とすればふた昔半の歳月が過ぎ去った訳である。
昭和天皇が逝去されたのは昭和六十四年(一九八九)一月七日で御歳八十七歳。在位期間は六十二年で歴代最長、天皇として最も長命であった。
当時私は五十九歳であったが、昭和ひと桁生まれの人たちが総じてそうであろうように、昭和天皇の動向は常に大きな関心事であった。
小学校に入学したときに先生から教わった第一のことは、校門を入った右側奥にあった奉安殿に敬礼することであった。
そこには御真影(天皇・皇后の写真)が安置されており、入学式や卒業式には校長が礼服姿で両手に白手袋を填め、御真影を恭しく奉持して式場に運び、生徒たちは一斉に最敬礼したものである。
今の若い世代はどうしてそんな大袈裟なことをと思うであろうが、当時の天皇は人間ではなく神であり、「現人神(あらひとがみ)」であるとされていた。
この天皇=神という捉え方は、昭和天皇自身により否定された。一九四六年(昭和二十一年)一月一日に発布された詔書において、みずから「天皇を以て現人神とし、かつ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず……」と述べて神格を否定されたのである。
この詔書に国民の多くは青天の霹靂のごときショックを受けたのであったが、「現人神」に替わっての「人間天皇」はさほど問題もなく人びとに受け入れられて今日に至っていることは、周知のとおりである。
昭和天皇逝去の前後に御容体の状況についてNHKテレビで詳しく報じたのが、当時皇室取材を担当していたニュースキャスターの橋本大二郎氏であった。
毎日NHKニュースの冒頭で陛下の病状について述べる橋本氏は、その端正な容貌と静かで厳かな語りくちが多くの人びとの耳目を引きつけたものだ。
橋本氏は今も民放に毎日のように出演しているが、髪は白くなり心なしか往時の溌剌さがない。当然である。二十六年の歳月はあらゆる物事を変化させて止まない。
二、激動の時代を生きて
私も八十歳半ばになると後期高齢者の中でも数少ない生き残り組に属しているように感じる。日野原重明先生のように百二歳になっても新聞紙上に毎週健筆を揮われている人は、きわめて稀であると言えよう。
稀な生き残り組に入る私にたいして、よくその齢になって原稿を書くなあと言う友人もいるが、そう言う人に対しては「運がよかったのだよ」と答えることにしている。
実際に死にそこなったことがある。昭和二十年(一九四五)の六月頃、田圃の畦道を歩いていたとき、超低空で飛来したアメリカの戦闘機(グラマン)に狙い撃ちされたのである。
機体の黒い米機がキーンと音を立てて急降下したと思ったら突然ダダダダダダと機銃の音がしてすぐ近くの稲が揺れたのだ。私は咄嗟に畦道に伏した。米機は大きく旋回して再び近づいて来たので、恐る恐る頭を上げて見ると、はっきり操縦士の顔が見えた。あの赤ら顔は忘れられない。
場所は気仙沼市(当時は町)郊外の村で、近くに私以外、人影はなかった。
私が小学一年生のとき日中戦争が始まり、五年生のとき太平洋戦争に突入した。ちなみに満州事変が起こったのは満一歳のときである。私の幼少年期はまさに「戦争時代」であった。
現在、戦争時代の語り手として知られる作家の半藤一利氏と私とは同い年のはずである。
氏は戦争が次々と続いた彼の時代を「激動の時代」と語ったことがある。私が生きたのはまさしく激動の時代であったのである。
『昭和天皇実録』について、三谷太一郎氏(東大名誉教授)は「一人の少年が、いかに天皇となるべく教育されていったのか…一九〇一(明治三十四年の生誕から二一(大正十)年の摂政就任に至る叙述が興味深い。天皇が形づくられていく過程を見ることで「天皇とは何か」の理解が可能になるのではないか」〈「朝日新聞」二〇一四・九・九(火)〉と述べている。
天皇という存在は普通の人であって普通の人ではない。その証拠に総理大臣といえども天皇の前に出ると最敬礼をするではないか。
天皇は生まれたときには普通の人の赤ちゃんと同じであるが、生まれた瞬間から「天皇」に成るように教育され、形づくられていくのである。
いかに人間宣言をされても、天皇は普通の人ではない、と国民の多くが思いかつ感じるのはなぜか。この問題に答える、というよりも取り組むのは、それ自体至難の業である。
いろいろな危機や困難を担われたにせよ、皇統百二十五代というのは世界にも稀有な、冠たる事実であろう。
ここでは天皇を論じようとしているのではない。「昭和」時代が激動の時代であることを示そうとしているのだが、激動の時代・社会を論じようとすれば、どうしても天皇を避けては通れないということである。
具体的な事柄に戻ろう。
私が小学一年生のときに日中戦争が勃発したのだが、まず目についたのが「兵隊さん」の姿である。
村の若者たちが次々と召集され、出発前にお墓参りしお寺に挨拶に来た。カーキ色の軍服を着た兵隊さんは恰好よかった。
駅を発つ際には学校挙げて見送りに行き、軍歌を歌い万歳を唱えて送った。
今でも覚えている軍歌がある。
「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で発つ父母の国 形は生きて還らじと 誓う心の勇ましさ」というものである。記憶違いがあったらお詫びしたい。
先に、一人の少年が教育によって天皇という存在になる過程に関心をもつ三谷氏の文を引用したが、私も間違いなく教育によって軍国少年になっていったのである。
私は仏教寺院に生まれ育ったのだが、主に母方の祖父母に育てられた。今顧みても祖父は戦争を肯定し、日中戦争には必ず勝つと信じていたようである。
寺の境内に八幡神を祀るお堂を建て、檀家を集めては戦勝祈願の儀礼を営んでいた。
祖父の書き残した文を見ると、仏教教理の理解はかなりのものであったことが知られる。仏教は「平和の宗教」であることを理解していなかったはずはない。
その祖父が当時戦争に積極的であったことに不満を感じる私は、人生の大部分を平和な社会の中で過ごしてきたせいであろうか。
このように戦争時代を振り返る私は、一九四五年(昭和二十)八月十五日を境目にこの国が大きくかつ急激に変化したことも体験した。それまでは先生も村長さんも「欲しがりません勝つまでは」、「一億一心」、「八紘一宇」を口喧しく叫んでいたのが、敗戦の日を機に言動がコロりと変わってしまったのに、何かある種の違和感を覚えたことを今も記憶している。
中学校の先生たちも急に平和の大切さを説き出したのである。
先生方も宗教家たちも「激動」したのである。一九四六年(昭和二十一)に新憲法が発布されると、彼らは直ちに「平和国家」と「民主主義」の素晴らしさを説き、語り出した。
こうした「右ならえ」の意義は戦前も戦中・戦後もあまり変わっていないように思うが如何。
「食糧難」などというと、若者たちから「何それ!」と言われそうだが、昭和時代に若者であった人間にとって食糧は決して忘れられないものである。昭和ひと桁生まれの人たちはおしなべて「腹へった!」時代を生きたはずである。
農村にも米・麦はなかった。お国に徴発されたせいもあったろうが、大豆、小豆はよい方で米糠を混ぜたり、野草を入れたりした御飯を食べた。おかずもなく、田圃に出ていなごを捕り、そのつくだ煮はご馳走であった。
あの戦後の時代について、一九三五年(昭和十)生まれの作家・評論家の堺屋太一氏はこう述べている。
「敗戦直後の農村の暮らしは明治の昔に戻ったようだった。私の家は多少の農地の自作をはじめていたので米には窮しなかったが、おかずはなかった。秋には近所の子供たちといなごを捕まえて串焼きにしたし、春には田の畦でつくしを採っておひたしにした。
衣服はつぎはぎだらけの兄のお古、洗剤不足と住宅難のせいか、ノミやシラミも多かった。敗戦直後の冬だったか、その次の年だったか、進駐軍の命令で各種の学校や電車の駅で、頭からDDTの散布が行われたこともある。当時はこの殺虫剤の持つ毒性など気にする者もいなかった。
私たち一九三〇年代に生まれた者はみなそんな生活環境で少年時代を過ごした」(「堺屋太一が見た戦後ニッポン七〇年」、『週刊朝日』、二〇一四年九月十九日号)。
堺屋氏が体験したことは、そのまま私の体験に通底していて本当に懐かしい。
三、「昭和」は遠くなりにけり
冒頭で述べたように、昭和天皇が逝去されたとき私は満五十九歳であった。還暦といえば現在ではまだ現役にある人が多いが、私が小さかった頃は還暦の人はおじいちゃんであり、おばあちゃんであった。
六十五歳を超えた人は多くは腰が曲がり、杖をついていた。
そういう人たちはすべて満州事変、日中戦争、太平洋戦争の体験者であった。言わば昭和時代・戦争時代の生き証人たちである。
彼らは死を覚悟して戦場に赴き、実際に弾雨の中で生き延びて帰ってきた。
しかし不思議なことに彼らが戦争に行ったことや辛酸を嘗めたことを批難し恨みがましい言葉を発することはなかった。国難であったから致し方なかったとの認識をもつ人が大部分であった。
もちろん戦争の非を論難し天皇の責任を口やペンにする人はいたが、極めて少数であったように思う。
どうしてか。深く反芻する必要があろう。
ことに最近の社会情勢を見ていると、何やらきな臭い空気を強く感じる。現にこの国の政治を牛耳っている人たちの言動を見聞きするとその感を深くする。
彼らの多くは戦後生まれであり、高度経済成長期に育った人たちで、戦争の悲惨さを知らない世代である。
戦前、戦中世代の者は彼ら生きのいい人たちに「戦争時代」の実情を声を大にして語る義務があると思う。
とくに宗教者の言動が重要である。戦中の宗教者の多くは真に残念ながら戦争に加担し、これを鼓吹した。意に反して敗戦になると既述のように一転して平和主義者になった。替わり身の速さは仰天するばかりであった。
戦争を知らない世代の宗教者は、しきりに「社会情勢に対応する教化」とか、「時代に適合する伝道」を唱える。その信念は良いとして、そのことが社会状況や時代の動向という大浪に「流されること」にならないよう常に鋭い目を注ぐ必要があろう。
先輩たちが踏んだ轍を絶対に踏まないよう絶えず留意すべきである。
二〇一五(平成二十七)年を迎えるにあたり、戦争を繰り返した「昭和は遠くなりにけり」と心から言えるように願うことしきりである。
新しい年が誰にとっても佳き年であるよう祈念してやまない。