「昭和」の思い出(続)

  駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹

一、懐かしきことども

 人は幸先が短くなると過ぎ去った年月のことが気になるものらしい。対して若い人たちは過去のことなどどうでもよく、特別な性格の持ち主を除くと、主な関心は現在・現実であるようだ。
 わかり切ったことを今更言うなと叱られそうだが、そう言う人たちも星霜移れば年輩者の過去を懐かしむ気持ちが分かるに違いない。
 若者と年寄りの関係は、健康と衰弱、希望と落胆、成熟と未熟、明るさと暗さなどと言い換えることができよう。
 私が物心ついた昭和一桁の頃、日本社会は全体として不景気であり、とくに農山漁村の人びとは生活の不安を抱えこんだ日々を送っていた。国家的には、満州事変と支那事変(日中戦争)が勃発したのはこうした日本社会の鬱屈した状況を打開するためであったと考える研究者もいる。
 「昭和」の歴史はさまざまな人によりいろいろな視点から論じられてきた。いや論じ尽くされた観さえある。
 さりながら歴史の見方や感じ方はそれぞれの人のそれまでの生き方によって異なるものであろう。
 私には私なりの歴史観(感)があるはずだということである。以下ではその視点から述べてみたい。
 寺に生まれ育った私は小学生の頃より「お寺の子」として特別な目で見られていたように思う。それは寺院自体が普通の家庭とは違う空間であることを意味しよう。
 僧侶自体、頭を丸めた出世間的存在なのだから、その人が住む家庭ならぬ寺庭は一般家庭の人たちから特別視されるのは、当然であろう。
 そして寺には他人も住んでいることが少なくない。住職の弟子(小僧)たち、女中と呼ばれていたお手伝いの女性たちなどである。
 幼少時に両親を亡くし母方の祖父母に育てられた独りっ子の私は、とりわけ小僧さんたちやお手伝いさんたちに可愛がられた感がある。
 さきに触れたように昭和一桁の頃は全国的に不景気であり、地方の町や村の家々では「人減らし」に苦心していた。
 「〜の家では次男坊が北海道に出稼ぎに行ったらしい」とか「〜の娘は〜旅館の女中になったらしい」などの噂は子供の私の耳にも入り、当人を知っていた際には一抹の寂しさを覚えたものである。
 寺には常時小僧さんが二、三人、女中さんが二、三人住んでいた。今思うと口減らしのために寺に雇ってもらった人たちであるらしかった。そのなかにT子さんという二十代のお姉さんがいて、私を可愛がってくれた。
 T子さんは和歌山県の紡績会社で女工として働いて帰って来たのち、寺の女中さんになったらしい。彼女は睫の長い綺麗な人であった。
 そのT子さんがよく口ずさんでいた歌を私はいまだに憶えている。
 八十年近くたった今でも夕焼け雲を眺めるとなぜかその歌が浮かんでくる。
 一つとせ 人の嫌がる和歌山へ しのんで来たのは家のため。
 二つとせ 二親離れて来たからにゃ 二年経たなきぁ帰られぬ。
 三つとせ 皆さん私のふりを見て 可愛い女工さんと見ておくれ。
 歌詞が違っているかもしれないが、私が記憶しているのは右のようなものである。
 こういう物悲しく淋しい歌を口ずさみながら当時の貧しい女性たちは生きていたのであろう。
 T子さんは私を連れて夏には蛍とり、秋には蜻蛉とりによく行った。
 ある夏の夜のこと、庭でT子さんと涼んでいたとき、満天の星空をかなり大きな光の珠がふわふわ飛んでいくのが見えた。「あれは人魂だよ」とT子さんは言った。
 魂(たましい)の話は小僧さんや女中さんがよく話していたから名称は知っていたが、実物を目にしたことはなかった。
 あの光の珠の正体は何かは分からなかったが、私の心に強く焼きついている。
 もう小僧さんたちも女中さんたちもこの世にいないが、あの人たちと経験したことは、懐かしき思い出として消えることはない。

二、 「昭和」の人たち

「昭和」の人たちなどというと、途端に怪訝な顔をする人もいると思うが、何しろ昭和時代は言うなれば「戦争時代」であったという意味で日本史上でも特異な時代であったと言えよう。
 「明治」は四十四年、「大正」は十四年であったのにたいして、「昭和」は六十三年も続いた。「昭和っ子」と言っても最初の頃に生まれた人と、中頃に生を享けた人、終わり頃に誕生した人とでは性格も生活感覚もかなり異なるのは当然であろう。昭和の初めに生まれた私も終わり頃に生まれた人との間に、ある種の差異や齟齬を感じることは決して少なくない。
 若い教え子たちに終戦後の食糧不足の話をしても、シラミやノミの話をしても暖衣飽食時代に育った若者はまるで他人事のような顔をして聞く。
 しかし戦争と戦後の社会と文化の推移・変動については、その経験者は事実をしっかりと若者たちに伝えておくべきだと私は思う。
 とくに寺院住職とそのお弟子さんたちには昭和時代の種々相をぬかりなく伝達しておくべきであろう。
 戦中・戦後の「苦」を十分に把握していなければ、いかに声を大にして「苦集滅道」を説いても、所詮は説得力を欠く高級なお談義に終わるだろうからである。
 この年になると私のような昭和初期男は特にその感を深くしている。以下では今を生きている私の目に映った昭和の人たちの生き方について思い考えていることを概観し、御参考に供したい。
 私の育った寺はかなりの田畑を有していた。田圃は小作人と呼ばれていた農家に耕作を依頼し、秋に米が穫れると籾米を米俵に入れて納めてもらっていた。
 忘れられない光景がある。小作人たちが寺に納める籾俵を持参すると、檀家総代立ちあいの下に俵を計量した。大方は合格したが、たまに少し足りないことがあると、総代が小作人を睨みつけ、大声で「こら、足りないぞ」と怒鳴りつけた。
 小作人は低頭して「申し訳ありません」と詫びた。住職の祖父は押し黙って見ているだけであった。
 小作人の子供や孫たちは、平常私の遊び友だちであったし、小作人たちも私を可愛がってくれていたので、私は何とも言えない気持ちになったものだ。小さな心で祖父と総代さんを憎んでいたかもしれない。
 もっとも、小作米の納入が終わると皆座敷に上がって大宴会となり、住職も総代も小作人も酒を酌み交わし、歌ったり踊ったりの大騒ぎとなるのだった。
 さっきまでの緊張はどこへやら、その場は和気藹々の空間に変貌した。あれがかつての農村共同体なるものの実態であったのかもしれない。檀家総代になる人は地主が多く立派な家に住んでいた。
 総代は住職からも檀信徒からも「総代さん」と呼ばれ、一目置かれていた。総代さんは財力があったせいであろうか、小作人たちに比べ教育の高い人が多かったように思う。
 いろいろな知識を持ち、理屈をこねる人が少なくなかった。
 総代の一人で大声で喋るので知られたU爺さんは、よく寺に来てお茶を飲みながら祖父と議論をしていた。
 今でも憶えているのは「根本はそうなんだ」と大声で話す祖父の声である。「根本」、「根本」という語は、随分重要な語なのだろうとうすうす感じたものである。
 祖父は話好きの人であったから、U爺さんはじめ議論好きの人と三時間でも四時間でも大声で言い合うのが常であり、祖母や小僧さん、女中さんたちは辟易した顔で終わるのを待った。
 檀信徒のなかには、どこで仕入れたのか物知りの人がいた。そういう人は「〜校長」と渾名され一目置かれた。
 寺の山門の傍らに銀杏の大木があったが、その直ぐ下に住むYさんは大変な物知りで、日中戦争のこと、日本の景気のこと、中央政界、地方政治から村の家々の暮らしぶりまで何でも知っていたので、人びとから「銀杏校長」と渾名されていた。
 小作人の一人であったが何人かで田畑を耕しているときにもYさんのお喋りが止むことはなかった。Yさんの家を訪ねると、暇なときにはいつも新聞を隅から隅まで読んでいた。物知りの元は多分新聞にあったのだろう。
 昭和の人たちにとって最大の関心事は「軍」または軍に関わることであったのではなかろうか。大人たちの話題は専ら陸・海・空に関するものであった気がするからである。
 物知りのYさんも軍人のことについては他の人たちに引けを取らなかった。
 陸軍では大尉を「タイイ」と呼ぶが海軍では「ダイイ」と呼ぶことを教わったのもYさんからである。
 私が記憶する限り、寺で村葬が行われたのは昭和十四年(一九三九)春に勃発したノモンハン事件で、戦死した村出身のK上等兵のものであった。ソ連軍の戦車に爆弾を抱えて飛び込んだのである。軍神と讃えられ金鵄勲章が授与された。
 葬儀は村を挙げて行われ、驚くほど多勢の人が参列した。寺に納められた大振りの遺影は今も本堂に揚げられているはずだ。
 戦死者は靖国神社に祀られたが、そのことがまた大変名誉なこととされた。
 私が小学校に入ったのが昭和十二年(一九三七)で、この年に日中戦争が始まった。
 その前年に二・二六事件が生じていたから、この国がきな臭さを増強させていた時に、私たちは物心づいたことになる。
 その後、昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦の日まで、大人も子供も「勝利の日まで!」と叫び続けたのである。
 新聞もテレビも「鬼畜米英」には「必勝」であると説き、宗教(仏教)界も「右へ倣え!」であった。

三、昭和人間の特質について

昭和元年に生まれた人は、平成二十六年(二〇一四)には八十九歳になっているはずである。高齢化社会とはいえ、九十歳またはそれ以上生きる人は少ない。
 お坊さんとお医者さんは長命であると言われるが、『宗報』の死亡記事によると大体において八十〜八十五歳で遷化される御住職が多い。
 とすると日中戦争や太平洋戦争で実際に戦場で戦った人は現在では極少ということになる。何しろ九十歳の人でも終戦時には二十一歳であったはずであるから。
 私が大学に入った頃(昭和二十六年)には軍隊帰りであるという人たちも先輩にいたが、一様に真面目でよく勉強していたように思う。
 戦争で失われた青春を悔いていたかというと、どうもそのようには見えなかった。
 相手を殺すかもしれない役割を義務づけられて生きてき、大学では「殺すなかれ」を戒の筆頭とする仏教を深めようとする人たちの心情は、相当に屈折していたであろうことは想像に難くない。
 昭和人間の多くは戦争と平和の両者を生きざるを得なかった人たちである。
 だからそれまで命をかけた国家、その中心であった天皇制を否定・転覆させようとする運動が起きても何の不思議もなかったろう。
 しかしその種の運動は起きなかった。
 国のために総力で戦った人びとは、荒廃した祖国の復興を目指して奮闘した。
 宗教(仏教)者は「戦勝祈願」から一転し「復興祈願」にひたすらとなった。
 少し誇張して言えば「世界観の転換」であるが、それが見事にできた訳である。
 「鬼畜米英」が「日米関係は国益の機軸」とされるようになってからすでに久しい。
 こうした日本人の全般的な傾向を表現すると、「大勢に逆わない」であり、少し積極的には「大勢に順応する」となろう。
 「大勢」は@大きな威勢。大きな権勢。A流動していく物事の、おおよその形勢。特に世のなりゆきを意味する(『広辞苑』)。
 私が用いた「大勢」は「世のなりゆき」であることは言うまでもない。
 「なりゆき=成り行き」は「次第にうつりゆく」ことであり、意味的には「自然」と重なる。
 自然は「しぜん」とも「じねん」とも読む。『広辞苑』では「おのずからそうなっていること(さま)」を意味し、両者に差異は殆どない。この語は宗教(仏教)的な意味から文学・思想・自然科学的な意味まで含むきわめて包括的な語である。
 数多くの戦争を体験し、その後平和社会を保ち続けた昭和人間の思想・観念の特質は決して一様ではない。すこぶる多様で複雑である。
 その多様・複雑な思想・観念をまとめ上げるのに大いに役立ち貢献したものは何か。
 少なくともその主要なものは「(大)自然」に基づく感覚と思想・観念であるのではなかろうか。
 この(大)自然に根づく感覚・思想・観念は、平成時代になってから著しく変化しているかに見えるが、他方それ程変質していないようにも思える。さてあなたはどう捉えておられますか?