この時期に曹洞宗の構造改革を
実行しないと宗門はダメになる
宗費は浄財だという自覚が足りない
●宮城県・一寺院住職
曹洞宗は全国の寺院から宗費という浄財を得て運営されている。それを適正に使うように心掛けなければならないことは言うまでもない。それなのに、今回の多々良学園の問題にしても、宗門から二十何億というお金が支出されている。宗門当局は、宗費は浄財だという自覚が足りない。
元はといえば、檀信徒会館(グランドホテル)の大赤字をうやむやに決着させたような一部宗政家たちの体質が、また多々良学園のような問題を引き起こしたということだ。お金の切り口をしっかりしないと、宗門はだめになってしまうばかりか世間から笑われる。
なかには、もう曹洞宗を離脱して、単立になる寺さえ出てきている。とくに宗費をたくさん納めている大寺に多いようだが、それは宗費を運営する宗議会や内局に対する不信感が強いせいだとも言える。年間百万円の宗費を納めている寺は、単立になれば十年間で一千万円の金を純粋に檀家のために仕えるわけだ。そうしたことを考えて見ると、全国の宗門寺院に不信感を植えつけた宗議会・歴代内局の責任は重い。
曹洞宗の将来のビジョンが必要
●佐賀県・一寺院住職
多々良問題にしても何にしても、将来、曹洞宗はどういうふうに変わっていくべきかというビジョンがない。わたしは宗門というものはダメになっていっても道元禅は残っていくと思っていた。それも今や危うい。各地の僧堂の指導者も忙しくて、僧堂でじっくり雲水を育てることができない。
全国の寺院住職はみんな白けてしまっていて、一つのビジョンに向かって盛り上がって行くこともないし、いろんな問題があっても、自分のこととは考えていない。宗議会を解散してやり直しても同じようなことが続くだろう。宗門にはもともと政治理念がない。そんなところに政党が存在するはずがない。
みんな自分のことしか考えていなくて、民衆、大衆のことを考えていない。今や自由競争が賛美されて、子どもにさえ金融業を教えるというふうに、日本はますますアメリカ化している。貧富の差もひどくなるし、それに追従する日本も絶望的なところがあるが、曹洞宗ではそんな社会不安の根源を知ろうともしない。そうした現実の社会に生きているのが、お檀家さんたちなんだということを知るべきだ。
かつて有馬実成さんは、「ボランティアならボランティアという活動に向かって宗門が尽力していけば、そこには方向性が出てくる。宗門が活性化され変わっていく」とおっしゃっていた。まず自分は具体的にこう布教するという姿勢を持つことが大事で、宗門の活性化は結局は宗侶一人一人の自覚の問題だろう。
お金に無頓着な坊さんの体質
●鳥取県・一寺院住職
坊さんはお布施をもらっても、いくら入っているのか確認するわけではないし領収証を切るわけでもない。そんなところから坊さんはお金の扱いに疎いというか無頓着な体質がある。だから坊さんが事業をしようとするとお金に甘い考えが出てくる。しっかりした予算を立てないで進めようとする。
多々良学園の問題も、何とかなると思ってやったのが、気がついてみたらとんでもないことになっていたということだろう。そうしたお金に無頓着なお坊さんの体質は坊さん一人一人の問題であると同事に宗門全体の問題でもある。お金に対してはもっとシビアにならないといけない。
こんどのような事件で、曹洞宗は騒動宗だなんて風評が出ると布教に大きなマイナスとなる。いくらいいことを言っても聞いてくれない。一般の人々は非常に辛辣に見ていることを忘れてはいけない。
先を見越した寺院の充実を
●東京都・浄牧院住職
寺院が今後、檀家に頼った運営だけでは少子化などにより先細りだ。寺院には檀家と祈祷と観光という三つの組み合わせがある。檀家に頼らず、祈祷をしたり観光寺にするなどの布石をしておくことの必要性を念頭にして、家内安全、病気平癒といった祈祷に加えて、車と運転手の安全祈願を行うとか。人は生老病死でいつか死ぬわけだから、お寺は現世利益につながるありがたさを感じるようなことを重点に運営する。
わたしのところでは五百羅漢像の石仏を竹薮に並べている。関心が高まれば拝観する人が多くなると推測している。特に伝統仏教寺院にお墓があるということ、お墓を中心に考え、先祖を大切にする信仰をより所として強調していくことも大切。
いずれにしても今は自由経済の世の中であればこそ、社会の変遷に応じた活動のために、寺院も先行した整備が必要だろう。
社会科学系の人材の登用が必要
●東京都・清岸院住職・川岸高眞
今回の多々良学園事件の根は宗議会の構成にあると考えざるを得ない。野党と与党が議員数は同じ、四年交替で交互に首班を務めるというのでは、チェック機能が働くはずがない。このような制度がなぜいつまでも改められないのだろうか。それは、一つの仮説であるが、曹洞宗を運営する人々に社会科学的センスがないからである。このことは国会や、中央官庁と比べるとよく分かる。
多々良学園の問題を報じた週刊誌に小泉チルドレンのことがかなり詳しく載っていた。それを見て気がついたのは小泉チルドレンのうちおよそ三分の二の五十三、四人が学生時代に社会科学系の学部や学科で学んでいることである。人文科学系は多めに見ても七人しかいない。これから類推すると国会議員全体の学生時代の専攻科目も似たような比率を示すだろう。
これに加えて行政府の職員の構成もある。多少のキャリアー組の技術官僚はいるにしても、財務省を始め官庁の中枢部を占める上級試験合格者が就くのは大部分が行政職、経済職、法律職など社会科学系の知識と社会科学系センスを要求されるポストである。つまり大きな組織は社会科学系の学問、すなわち社会と人間との関わりを学んだものでなければ動かすことが出来ないのである。
それではほぼ一万四千の寺院を包括する曹洞宗は社会科学系の訓練を受けた人々によって運営されているだろうか。明らかに「否」である。仏教学部を含む人文科学系の学部で学んだ宗会議員や宗務庁職員に国会議員や中央官庁の職員と同じような社会科学的センスが期待できない以上、宗門をうまく運営することなど出来るはずはないない。将来は絶望的である。
だが、ただ一つだけ救われる道がある。それはもし本気で宗門の将来を考えるなら、ちょうど愛知万博の会長や、中部国際空港の社長に官僚出身者ではなくトヨタ自動車出身者を迎えたように、大会社の役員を経験したような人を数人、宗門外から曹洞宗の責任役員として迎えることである。そうすれば年間予算の半額に当たる二十四億円もの巨費を一つの学校につぎ込むような愚かなことは絶対といってよいほど起こらないであろう。これ以外の宗門再生の道は今のところ考えつかない。
このままでは曹洞宗は自然淘汰される
●愛知県・一寺院住職
多々良学園の問題についてはみんな怒っている。宗会議員がみんな馴れ合いになってしまって、好きなようにやっている。なかには改革してやろうと思って宗会議員に出る人もいるが、そういう人たちも、結局は一部有力な宗政家たちの派閥争いに巻き込まれてしまう。心ある人たちは宗務庁とは関係なく自分たちでやっていこうと考えている。まじめにやっている地方寺院の宗費によって宗務庁は成り立っていることを忘れるべきではない。
宗務庁の宗費の無駄遣いは目に余るものがある。しかし、宗政を牛耳っているトップ連中の首を変えても、また同じような利権の味を占めた人たちが出てくる。今や宗務庁が本山の役寮まで決めるような体制になっているのもおかしい。檀家の人たちは曹洞宗だとか臨済宗だとか気にしてはいない。相手はお坊さんだ。末派寺院はそういうところでみんな努力している。宗議会議員選挙に限らず、先般の副貫首選挙でも莫大な金が動いた。こんなことを続けていたら曹洞宗は社会的に自然淘汰されるのは目に見えている。
もっとも重要な問題は後継者問題
●大阪府・一寺院住職
われわれには多々良問題の実体がよく分からない。単に経営の失敗なのか、曹洞宗全体の歪みなのか、一部指導者の私利私欲でそうなったのか。そういうことよりも、わたしらが直面している最大の問題は個々の寺の後継者問題だ。わたしのところには毎日のように問題を抱える近隣の寺の住職、寺族、檀信徒などが相談にやってくる。その原因の第一は、寺のなかで住職は師匠、子供は弟子というけじめがなくなったことだ。寺内の生活がすっかり家庭化して、寺の跡をついでくれさえすればいいというので、子供に贅沢三昧をさせる。子供は坊さんは儲かるということばかり覚えて、世間的な常識や責任感のない人間に育っていく。その後本山の僧堂に行って一応坊さんらしい形だけは身につけても、肝心の心の教育はできない。縁があって他寺に養子に入った場合などにはさらに問題が起こる。前住職の奥さんや檀信徒と大概トラブルを起こす。金銭的な権利をめぐって裁判沙汰になっているケースもある。さらには前住職の奥さんの墓をどうするかということも常に問題になる。
わたしは正直、宗務庁のことなんか考えている暇がない。宗会議員に期待している人なんてほとんどいない。名誉欲と貪欲さしか持っていないような人が宗会議員になっている。ほんとうに宗会に出てほしいと思うような人はそんなところに出ない。曹洞宗がこんな状態だと言うことをみんなオープンにしてしまって、それで行くところまで行ってしまってもいいようにすら思える。
道元禅師に帰れ!
●神奈川県・一寺院職
曹洞宗は一から出直さないといけない。道元禅師に帰れと言いたい。宗会議員の選挙制度もめちゃくちゃだ。公職選挙法に関係ないものだから、お金は飛び交うし、もう惨めと言うか、汚い。
(平成十八年一月五日実施)
多々良学園問題、真実を 明らかにし大改革を
●宗門を憂うる寺院住職
多々良学園問題が十月六日発売の週刊文春によって白日の下にさらされた。曹洞宗の寺院を預かる者として恥ずかしい思いをしておられる宗門僧侶、寺族ほか関係者は少なくはあるまい。週刊誌の記事の中で「疑惑」を名指しで指摘された方々は、早急に週刊文春を相手取って訂正記事の掲載と宗門に対する謝罪、関係者に対する謝罪と謝罪広告の掲載を求める訴訟を提起していただきたいと思う。このまま、何の反論もせずに黙して虚しく時を過すことは自らその非を認めたことになり、宗門に対する名誉毀損をも見過ごすことになりはしないか。
全国各地の宗門寺院の中で、事件の真相解明を求める声と、このような問題を惹き起こした宗門の体質に対する怒りの声が上がっている。宗門の指導者の方々にはその声を真摯に受け止めていただきたい。
今年度開催された管区集会の中でもこの事件に関する質問が出されたそうだが、内局から明快な答弁はなかったと聞く。
ある宗議会議員が「名指しされた宝珠企画の役員や宗門の偉い方が週刊文春を名誉毀損で訴えると言っているからその結果を待たなければ・・・」という話をされたという。
「裁判すると真実が暴かれるからできないだろう」という話も伝わって来る。要は、裁判しなかったら非を認めたとことになるということだ。
宗門の存亡に係る事件
また、この問題は、単なる「関係者」だけの問題ではなく宗門の存亡に係る問題であることを是非とも宗門関係者には理解していただきたい。
私たち寺院住職は、寺院の級階に応じて宗費を納めている。壇信徒の少ない経済的に厳しい寺院であってもそれは同じである。やむを得ず兼業してその収入から宗費を収めておられる住職も少なくはあるまい。その宗費の中から二年間に渡って十八億円もの補助金が多々良学園に支出されているのだ。宗門の年間予算五十億円の三十六パーセントもの巨額資金である
このことをどう考えるのか?
ところが、移転事業は終ったものの、無理な資金計画から多々良学園は民事再生法の適用申請をして再生手続きが開始された。
元々、この移転計画事態が無謀だったことは明らかである。宗門の教育機関であったとしても両大本山とは訳が違う。七十億もの寄付など集まるはずがなないではないか。このような無謀な計画を容認し補助金を支出してきた内局と宗議会の責任は重大である。
ここで、曹洞宗宗議会について考えてみよう。現在の宗議会は永平寺系、総持寺系の議員が各選挙区から一人ずつ選挙によって選ばれている。宗務総長も両派で一期四年ずつの交代であり内局の各部長もほぼ平等に割り振られている。一見、平和的な宗政が行われて良い様に思われるがこれこそ民主主義の基本原則を無視した政治体制である。この選挙制度が導入される時にも多くの反対意見があった。永平寺系または総持寺系からしか候補者として手を挙げる事ができない不条理。なぜ、両本山系ではいけないのか。宗憲でも「両本山護持」が明記されているではないか。或は、どちらにも属しない議員もいて良い筈だ。このような議会では全国の寺院、壇信徒のことを考えた本当の政策論争はできないであろう。それは、内局が提案する案件は、馴れ合い体質の議会で論争をすることものなく全て通ってしまうからだ。
本来、議会は、内局から提案される議案を末派寺院の立場で審議し是非を判断しなければならない。また、時には、宗門の為或は末派寺院の為に議員自らから議案の提出も行うこともなくてはならないはずだ。しかしながら、このような馴れ合い体質が強固になると議会としての機能は発揮されるどころか不正の温床にさえなりかねないのだ。
今回の多々良学園移転問題が真剣に討議されたのだろうか? 現実に起きている結果は取り返しのつかない結果であることは否定できない。地方議会議員を勤める私は、首長の「親衛隊」となっている議員を数多く見てきたが、彼等は議案に対しては全て賛成する。珠に、影で反対意見を言ってはいても採決の時にはしっかりと賛成の意を表して首長にゴマをすっているのだ。その行動の影には常に「利権」の影がちらついている。議員は首長から任命されるのではない。市民によって選ばれているのであって常に市民の立場で議案を審議しなければならないのだ。この点を間違うと市民を不幸に導くということだ。
「宗門の大改革を断行しよう」
宗議会を廃止し、全国所長会に宗議会の役割を担わせたらいいと思う。宗務総長は、所長の中から選挙で選任し、同じく選挙によって副宗務総長二名を選任する。宗務総長、副宗務総長に選ばれた所長の宗務所では副所長が所長の任に当たって貰う。そして、政策・予算の立案の為に、宗務総長、副宗務総長、各管区長、各部長、課長で組織する「宗門政策検討会議」を設置し宗務所長で組織する「宗議会」に議案を提出し審議する。宗務庁の部長は職員の最上級職とする。宗議会議員の歳費、交通費など大きな歳出削減にもなるではないか。これが最善とは言わないが本気で宗門を立て直すことを考えていただきたい。
先日開催された、全国高校サッカー選手権で多々良学園高校が準決勝まで勝ち進んだ。選手諸君と関係者に対して敬意を表し絶大なる拍手を送りたい。その試合のテレビ中継の中で、何度となく「学校法人が民事再生法の適用を受けて今年で『多々良学園』の名が消えるかもしれない」ということをアナウンサーが紹介していた。その事をどう受け止めているのか内局、宗議会の皆様方にはしっかりと胸に手を当てて考えていただきたい。
仏祖の教えに叶い、宗侶として歩むべきは、宗門のあるべき姿はどうなのかということを。
宗政にもの申す
●東京 全昌院住職 安達良元
最近の宗政が、国政乃至は東京都政の丸写しと、揶揄されるようになって久しい。今なおその通りである。私も常日頃呆れていて、その説には両手を上げて賛成する。
国政の大臣よろしく、部長は何もかもチンプンカンプン、政務次官代わりの課長が議事の台本を作る。部長の答弁は課長の操り人形、すべて棚上げたまま、内局は交代するといった次第、永年事後処理に時間を費やしたグランドホテル問題はその典型的な醜態。
お互いに、従前の体たらくを誤魔化すために、総和会と有道会は二年交代するとしか思えない。この際、こういうつまらない協定は破棄したほうが良い。ナンセンスである。
そしてまた、国政同様三権分立が形ばかり、全く機能していない。審事院の人選はだれがするのだろうか? 一般寺院が後継者問題でもめたら大変、とんでもない御仁が特命でしゃしゃり出て来る。そのための機関かと疑いたくもなる。
歳費はお手盛り、会計監査院に相当する機関もない。もっともあっても国と同様、「以後気をつけましょう」というくらいの代物に過ぎないが…。双方とも弁償義務などおくびにも出さない。税金同様、足らなくなったら末派寺院から集金するのみ。
ああそれなのに、国会議員には遠く及ばないが、待遇はそこそこである。聞くところによると、ついこの前までは、ボーナスが年に三回も支給されていたそうである。骨山の住職が知ったら、宗費など馬鹿馬鹿しくなって払わないこと請け合いである。宗会議員の資産も公開したほうが良い。井戸塀や今何処。
この際、宗務庁という組織が本当に必要かどうか、真摯なる検討を必要とする時期が来ている。単なる宗費吸い上げ機関にすぎないのならば、即刻解散してしまうべきである。もし、そうでないと言うならば、必要性を明確に列挙してほしい、ないとどうなるかと…。
残念ながら、さすが宗務庁という出版物も数少ない。他宗のようなプレスもない。拘束されない、自由なところが良いという説もある。
それから、一体総和会と有道会という組織は何なのだろうか? 単なる無心の会なのか? そもそも欲しがる方もいけないのだが、何故に恩衣特許の際に、恩金の外に会派に寄付金が必要なのだろうか? それを払っても会員に推挙しない手前味噌体質、全くもって解せないのは私だけだろうか?
最後に、今年話題となった昔の中学林の件、もう過去の栄光をかなぐり捨てて、宗門と無関係にすべき時と考える。他宗の学校経営も厳しい時代である。そしてまた、ご承知の通りの少子高齢化、これからは宗門はもっと別の施設に投資すべきかと考える。たとえば、老人介護施設、保育施設等…。いや、汚職の温床の箱物はもういらない。ゼネコンとの不明瞭な関係も一掃すべきである。それよりも、宗門内外の人材確保に努力が求められる。駒沢や世田高にしても、トップが必ずしも僧職である必要はない。マンモス化した駒沢から切り離した、専門の僧侶養成機関もほしい。仏教学部のみ独立させるべきである。
会派意識の改革
●愛知 神野哲州
一仏両祖の社会に新しい感覚を
私は駒沢大学入学とともに竹友寮に入った。寮の入り口には墨蹟鮮やかに「乳水のごとくに和合してたがひに道業を一興すべき」とあった。時の寮監鈴木先生が寮生をこの言葉で鼓舞され、駒沢に来たことを感謝した。おそらく入寮の誰もがそう感じたと思う。駒大を卒業した私は永平寺を目指したが、特別な意識はなかった。そして、曹洞宗宗務庁に勤めて初めて会派を意識させられた。ただ、それでもその時は、互いに協力し合う組織、つまり總持寺あっての永平寺であり永平寺あっての總持寺であると理解していた。ところが、系統が宗制にも明記されるとこの組織の持つ欠陥が見えてきた。
@対立は僧侶の良心になじまない。
万民を受け入れる、対立などないという世界にあってその逆の組織である。多くの一般寺院、普通の宗侶が持つ疑問であり、何よりも、施策の違いがわからない。
A組織の固定が主活動となり、社会意識を希薄にする。
リーダーが交替する二重構造は、「待つ」ことが主流になり、内部対立に伴う活性化が起きても、対社会的な意識は乏しく、組織維持が主活動に思える。
B宗侶の色分けは宗門の分裂を招く。
正式に会派に属するという僧侶が何名になるか知り得ないが、会派に入らない者の宗内での活動を難しくしている。結果的に分裂に繋がる。
C本来は宗門政治に限るはずだが、会派が社会性を持ち始めた。
先日、入檀希望者が来た。質問の最後は「この寺は、どちらの系統ですか」だった。
国の政治にも派閥はある。しかし、対象は国民、選挙民で多少とも社会性は維持される。現在の宗門の政治対象は檀信徒ではなく、宗侶となっている。施策も宗侶対象で、社会的な視野は重要視されていない。勿論多くの教団がこの形で、それゆえ、現況では仏教の社会的な発展は難しいように思う。両大本山を抱える宗門では会派は生まれやすく組織的な変更も難しいが、この認識を変えることは急務と思う。
新しい感覚の導入
@宗門は肉系相続が大半となり、宗門の批判する「生まれによる差別」が宗門で現前するとはなんとも皮肉である。しかも、この改革はとても難しい。
A宗門は僧侶が運営している。が、僧侶が設計図を読めるだろうか、経済を理解しているだろうか。社会的な評価は意識するだろうか。
現況の宗侶は本末・法類、加えて経済力などさまざまな制約を受けている。毎日の法務の中で宗門を考えるということは煩わしいく、また、考えても手の届かない問題とあきらめてしまっている。私は外部知識の同格導入を提案したい。
日蓮正宗は創価学会という組織をつくり発展した。結果的に離別したことから、在家を加えた運営は難しいといわれそうだが、現在は僧侶の知識が社会をリードした時代ではない。寺院は社会的な存在でなければならないと思う。それならば、新しい知識層の叡智も受け、運営についての共同共闘も必要と思う。現況は悪い意味での唯我独尊集団となっているように思う。青年会で今回の騒動が話題になったとき、結論は「しばらくしたら誰も言わなくなる」だったという。これは悲しい。次世代にそんな感覚を持たせてしまったのは我々の責任と考えている。
曹洞宗組合の滅亡か?
●匿名投書
大企業の山一証券が倒産したとき、経営首脳陣が深々と頭をさげて「責任は我々にあります!」と号泣する姿がテレビで幾度も放映された。大粒の涙を流す社長にいささか白ける思いも湧いたが、自らの責任を認める姿に潔さを感じた人も多かったと聞く。
週刊文春で報道された曹洞宗に関わる事件は、出版社の捏造記事だったのか?
今もって不祥事を詫びる人も、責任を取って退陣する首脳陣も出てこない。(多々良学園関係者の一部辞任はあったという)
一般社会の組織であれば、まず首脳陣は進退を表明する。行政ならばトップ退陣、議会解散である。
これらのことが曹洞宗では許されるらしい。なんらの動きも見られない。なぜ許されるのか。
曹洞宗の実態は協同組合であることが、その理由と言えよう。「曹洞宗寺院」というのれん料、別名宗費を支払えば、立派な組合員で居続けられるのだ。毎年一度、のれん料さえ支払っておけば、寺院も住職も安泰そのもの。のれん料がどう使われようと関心はない。お互いに利害得失関係はないから、不祥事が聞こえてきても、それほど騒ぐこともない。「騒いでいるのは一部の宗侶にすぎず、他人の噂も七十五日。そのうち風化していく。みんな忘れられるよ!」と誰もが高みの見物というところ……。
不祥事を起こした首脳陣といわれる人たちは、したたかだ。「明日には嵐もすぎて春の風」と含み笑いをしているにちがいない。いや「年間五十億円も自動的に集金できるのれん料システムを、今度はどう使ってやろうか」と胸ふくらませる日々か。スキャンダルなんて怖くない!
それにしても、曹洞宗寺院住職は度量がデカイ。このままいくと七十億円もの負債を肩代わりさせられるかもしれないというのに、まるで他人事。おだやかな昨今である。
組合員だから仕方がないのか。また、のれん料と思って、少々多額を支払えばいいという覚悟か。ああ情けない! 曹洞宗組合の滅亡か! 曹洞宗を根底から変革させることのできる千載一遇の大チャンスを見逃してはなりません。
僧侶として自省、自戒が必要
●潟上市・自性院
先般いただいた宗門に関する週刊誌の記事についてですが、宗門の指導的立場にある人の行動とは信じがたい内容で、只々驚愕するばかりです。
人は誰もが、地位と名誉そして金銭には弱いものですが、僧の身が何故にそこまで落ちてしまうのか、それは、出家・僧侶とは名ばかりで信心・宗意安心が欠如しているからでしょう。
このような事件を目の当たりにすると、宗門の現状に憂いは生ずるものの、全体を考えるよりもまず宗侶としての自省・自戒が促されるばかりであります。各寺院がそれぞれ地域において宗教人としてオリジナルに布教活動を展開していけば、それだけで充分だと思うのですが。
一カ寺、一人ではどうしようもなく、誰もが簡単にすぐ実践できることを、一番難しいと考えている方が多いのかもしれません。
参考までに、拙寺の活動の一端を同封致しました。これからの時代に対応できる新しい寺院を発願し活動を展開しているところです。集う人に宗教宗派は関係なく、信者は徐々に増えております。
宗門再生の道
●昌竜寺住職 霊元丈法
文春の記事が出て、今までにはなかった追求が宗門に起こっている。なぜなら、道元禅師の写真が載り、両本山の貫首と宗教法人代表者の名が出ての暴露記事だ。すでに三ヵ月が経過して、当該者、宗議会からも、宗務庁からも事実説明や弁明、名誉毀損の告訴もなされないところを見ると、一〇〇パーセント事実だと認めざるを得ない。それとも、ソートービル(東京グランドホテル)問題のように、とにかく先延ばししてほとぼりの冷めるのを待つ、だんまり作戦なのかもしれない。しかし、七〇億の負債をもみ消す力はもうない。すでに多々良学園は破産し(初めての民事再生適用という)、宗門関係出資で存続をめざしているがその前途ははなはだ暗い。世間の耳目が「設計業者の虚偽」に向いてしまったので、それほどの風評はたたなかったが、今の檀信徒や社会がこのような不正やごまかしに非常に敏感になっていることを考えると、これから曹洞宗に対する批判は厳しくなるだろう。
オウム事件から戒名料問題という宗教疑惑に宗門はなにひとつ答えなかったし、反省すらしなかった。それは、ほとんどの寺院が平穏無事で、おそらく歴史上最高の贅沢と安逸をむさぼっているからだろう。しかし、死を間近に見、僧の癒しを実感した世代が死に絶える二十年後、一気に全国の寺院は存続の危機に立たされる。いや、その日は、死亡者が激減する十年後かもしれない。その時には、葬儀を中心とする業務寺と、観光や祈祷を含む信仰の寺のどちらかでしか生き残れない。そのXデーに宗門が生き残るために、最低二つの問題をクリアーしなければならないと考える。
まず、布施を含めた宗教法人経営の問題だ。「布施は貪らざる」という道元禅師、「信施を消す」という瑩山禅師、「布施を得て三業を顧みない」と叱責する良寛和尚の児孫ならば、料金と化した布施はせめて公明正大に扱わなくてはならない。会派に入ってどの決算にも上がらない上納金、問侯という名の選挙買収金や利権の賄賂金は即刻追放しなくてはならない。次に、葬儀仏教から個人信仰への流れに対応する現代教学の確立が急務である。宗費のせめて半分が?線の拡大に投資されないかぎり、現状は変わらない。さらに夫婦で布教に当たるには寺族の教師資格の充実と、後継者の資質の向上のために宗門大学の改組、および僧堂修行のカリキュラム化は避けて通れない。それには、両大本山・宗務庁・大学のきちんとしたヒエラルキー(宗教ピラミッド)の再構築が必要だ。
これらは一朝一夕にはなしがたいが、いまの宗議会に寺族と女性僧の視点を入れるだけでもずいぶんクリアーになる。さらに寺の経営に檀家の知恵を入れることで、ともに護持していく体制ができる。うちの檀家に常に言っていることは「檀家と住職は敵ではない、共に先祖を守り仏道を行く仲間であり家族だ」ということだ。
はずかしい
●山口県の一寺院
多々良問題――県下寺院で困惑しています。地元の意見を聞くこともなく、ただ、多額の寄付を設定して一年余りでダメになるなんて、曹洞宗は笑いものです。今は中村理事長の動きに期待して、その結論を見て、なんらかのことを考えようと有志で話し合っています。
今回の宗門の醜聞に対しての意見書
●日本の最西端の寺院より
仏教企画社が提言するように、教化活動は宗務所単位には賛成です。それに付け加えて、大きなことは管区くらいのキャパシティー内でやるべきだと思います。
なぜかといいますと、寺族の研修一つとっても、私たち宗侶が本山、宗務庁での研修はわかりますが、どうして寺族までを本山などに出張させなければいけないのでしょうか。代表とはいえ、中央集会という名目で送り出して研修、いや出張までやらせることがあるのでしょうか? これこそ宗務所単位でできる教化だと思います。
確かにそれも必要という寺族もおられるでしょうが、でも寺族にはいろいろな気質があるのです。出不精の人、乗り物に弱い人……。
前回、妻に順番が回ってきて、その件で家庭内の不和も生じ、日本の端から本山まで、私が同行しました。寺族を遠方まで出張させ、寺を空けてするべき活動なのでしょうか。そういうことから縮小してもらいたいです。
また、寺族という名称。これもなにか家族より上の人種のように聞こえますが、いかがなものでしょうか? 皇族と同じようにしか私には聞こえませんが……寺庭婦人とか、いや坊守さんのほうが親しみやすく思えるのは私だけではないと思います。とにかくこの際、すべての事柄から変えて欲しい!
宗議会の人事刷新を
●曹洞宗檀信徒 千葉昭一
私は以前、「葬式仏教」が話題になった時、求められて拙文を投稿した曹洞宗の寺院の一老檀家である。その時、寺の住職と檀家のことを口酸っぱく論じた上で、檀家が打ち出の小槌ではないことを強調した。
今回の「多々良学園」の問題は、曹洞宗の予算、決算を分析しているなかで気づき臨時費のあり方について提言しようと考えていたところであった。今般、「週刊文春」(10月5日号)と「寺門興隆」12月号の両誌から、ことの重大さに気づかされ、なんとかここで曹洞宗の一大改革の狼煙をあげて、これ以上腐敗しないための歯止めの提言をしたいと思って筆をとった。
その一は、宗務庁及び宗議会の人事の刷新である。宗務総長をはじめ各部長は盥回し人事であり、宗議会議員の顔ぶれも新鮮味に乏しい。この機会に総退陣して人心の一新を図るべきである。以前、ソートービルが大きく問題になったとき、宗務庁一流の手段方法で、ほとんどのご寺院が数字に暗いことをよいことにして、なんとか辻褄を合わせた事実がある。もちろん始めからそのカラクリがわかっていて問題にすることを諦めているご寺院があることも知っている。
宗務庁と宗議会が、宗議会で議決執行した「檀信徒名簿調査費」の結末が極めて曖昧になったままであるという事実がある。同調査費は、臨時費として支出されている。臨時費は、国の予算の特別会計の類である。おそらくこの費用は交付しっぱなしで、清算はないのではないか。おそらくあっても形式的なものではないか。請求したら教えてくれるものだろうか。
以前、宗務庁に対して「情報公開」のことで書簡を送ったことがある。その結果というわけではないと思うが、曹洞宗は、情報公開に関する規定を定めて公布した。しかし、それは、「曹洞宗制」と「曹洞宗報」を気をつけて探さない限り発見することは不可能だ。ただ作ったというだけで現在でも十分に機能しているとは思われない。宗務庁は、曹洞宗ネットというパソコンのホームページを活用するなどして、情報公開の充実を図る努力を常に心がけるべきである。
宗議会の会議録は、毎回、丁寧に読ませてもらっている。宗務総長とは国で言えば内閣総理大臣であるが、総長の行う演説は、誰に向かって話しているのだろうか。曹洞宗の根っこのところにいる檀信徒のことを、宗務庁や宗議会議員は、どのように考えているのだろうか。はなはだ疑問に思う。級階賦課金などの納税義務者としてしか捉えていないのだろうか。
最近「お寺の経済学」(東洋経済新聞社)という本を読んだ。お寺を経済学的視点で分析したものと解釈した。同時にご寺院の住職にぜひ一読されることをお勧めする。このままの状態で行けば、近い将来、寺院の数が半減すると言っている。
「多々良学園」問題を通じて、日頃考えていることを取りとめない言葉で書き連ねたが、まったく他意はない。