のなか・あきひろ
1953年兵庫県生まれ。
早稲田大学大学院教授。
アジアプレス・インターナショナル代表。
まさき・あきら
1953年神奈川県生まれ。
宗教学者。
国際日本文化研究センター助教授を経て、慶應義塾大学、立正大学講師
宗教は戦争を正当化する
【野中】 今、日本で行われている議論の中で欠けていると思うのは、イスラムはイスラムとして独自に存在しているのではなくて、少なくとも外の世界との対立、そういう対立抗争関係の中で、イスラムの人たちの外に対する意識というのが形成されているという視点です。つまり、われわれの側があって相手もあるということですね。何かいきなり宇宙から悪いやつが来て、テロリストがいきなり発生して、それに対する、善と悪の戦いだというような、そういう図式化された構造ではないんです。
ちょっと言葉を変えると、イスラム国のテロに対して、われわれは正義の戦いに参加するというような、そんな単純なことではない。それは理解しやすいからそういうことになるので、その正義の戦いに与することが国際協調であり、世界の平和と安定に寄与することであると、日本人もそう言ってしまうわけです。しかし、そういうわれわれの態度そのものがイスラムの反発を生み出している、この意識を持たない限り、なかなかイスラム理解はできないと思っているんですね。
【正木】 今のお話に少し被ることになりますが、宗教においては、常に自分が善で敵は悪なんです。例えば政治的、経済的、民族的な抗争があったときに、宗教をかつぐことによって自分たちを全面的に正当化する、これは宗教の持っているある種の悪い面とは言いませんけれども、病源みたいなところで、結局、自己正当化の論理が働いてしまう。例えば、十字軍のときのウルバヌス二世の演説ですが、いやしむべき種族をわれらの大地から絶滅せよ、と。汝らの暮らす土地は狭く、貧しく、ゆえに戦いは生じる。参戦して死ねば罪の赦免が得られる、というわけです。
【野中】 それは宗教というものが持っている、抜きがたい、普遍的なものですか。
【正木】 特に、組織化された巨大宗教は常にそういう形で自己正当化を図ります。これは恐らくイスラムでも同じでしょう。そういった意味では、宗教と宗教の戦いになってしまう。これは実は非常に厄介で、単なる政治的な戦争で済まないし、恐らく歴史上、人類が行ってきた戦争の多くは、こういう形で自己正当化されてきたんですね。宗教がかかわってくると、本当ににっちもさっちもいかなくなってしまう。
【野中】 そうすると、宗教というのは身も心も、すべてを預けるわけですね。論理的に考えてどうこうという話じゃなくて、信じるか、信じないかの世界、特に一神教のイスラムではアッラーを唯一の神として、そのほかの神は一切認めない。ところが翻って日本人となると、自分たちの身も心も預けるような、そういう宗教的な生活はほとんどの人が持っていないわけです。仏教にしてもお葬式だけだし、お経一つ読めないし、そういう宗教的なことを学ぶ場もない。だから、そういうところで恐らく宗教というものに対するわれわれ日本人の感受性、考え方というものは、日本の外の宗教的な世界からは大きく懸け離れてしまったんでしょうね。
イスラム世界は遅れているのか
【正木】 日本人の感覚の中でも、例えば室町時代ぐらいまで、一向一揆とか法華一揆とか、とにかく宗教に対する熱望というものがあったわけですよ。あの時代の人たちの多くにとっては、今生きている世界よりも死後の世界をどうするかのほうがメインテーマでしたから、だからああいう現実に戦いが起こったわけで、それが戦国期あるいは徳川期を通じて、結局そういう強い宗教性を失っていった。というか、日本人は乗り越えたと言うかもしれませんけど。
【野中】 そう、乗り越えた。
【正木】 乗り越えて現代に至ったわけです。そういう日本人の歴史に照らすと、イスラム教の世界のように、あそこまで宗教に入れ込むというのは時代錯誤というか、やっぱり遅れているという、当然そういう論理が出てきますね。例えば、鎌倉時代や室町時代だったらそうかもしれないけれど、少なくとも近世以降の日本人にとって、あそこまで宗教に入れ込むというのは考えがたい。
一方、ヨーロッパでも大体、十六世紀の前半期で宗教戦争は終わります。例えばドイツなんか人口が三分の一になったという話もあるし、めちゃめちゃな状態になって、いかんせん懲りたわけですよ。もう宗教をネタにして戦争するのをやめましょうということになった。以来、四百年経ったわけで、そういうヨーロッパの歴史からしても、宗教を持ってきて戦争をするなんて遅れているねという、そういう意識は抜きがたくあるんだろうと思う。つまり逆に言えば、近代化というのは脱宗教的な色彩が非常に強いわけです。
【野中】 そういう側面を持っていたということですね。
【正木】 宗教は外面的な問題ではなくて心の問題、それは内面化と言いますね。そっちの方向に行くべきであって、現実世界を変えるとか変えないとかというのは、宗教の役割じゃない、それは政治や経済の役割だと、ある意味、分かれたと思うんです。ところが、一神教でも特に固いタイプのイスラムの場合は政教一致ですから、相変わらず完全にくっついていて分けられないわけです。だからヨーロッパ人からすれば、いまだにあんなことをやっているのか、うちは三百年か四百年前に終わったと、そういう意味で遅れているという意識が抜きがたくあるのではないかと思う。
【野中】 それは、何か歴史というものが一つの線上にあって、進んでいる国と遅れている国、進んでいる地域と遅れている地域がある、日本人の世界観もそういう見方がありますね。だから先進国と開発途上国とかいって、われわれのほうは歴史の段階において進んでいるという意識をずっと植え付けられてきた。そういう中で削ってきた、あるいは捨ててきたものの中に、今おっしゃったような宗教的な価値観があって、そういうものにとらわれるのは近代人じゃないということになったんですね。
宗教は死の不安に応える
【正木】 特にマルキシズムは発展段階論だったわけですから、あの論理から言ってしまうと、アジア的停滞という言葉がありますけど、まさにイスラム的なものはその世界にくくられてしまう。イスラム的なものは遅れているという、そういう流れができてしまったと思うんです。それは右も左も関係ない共通認識として、近代化というものにある程度成功した、いわゆる先進国と言われているところの人々に共有されているのではないですか。その共有された心から見ると、イスラム世界はまだ中世かという話になってしまう。
われわれの歴史的な段階というか、経験からしても、そういう歴史は私たちの過去にもあったわけです。それを克服することで日本も近代化を遂げ、今先進国になりましたという考え方からすれば、やっぱりイスラムは遅れた社会と、そういうレッテルを貼るのが当然のこととして広まっている状況だと思うんですね。
【野中】 そういう意味で言いますと、僕は全然宗教的な人間ではないんですが、いろんなところを取材していく中で、日本人に最も欠けているものの一つは宗教だと思っているんです。それは、宗教自体は貧困だとか、戦争だとか、現実の問題を解決することはなかなかできませんよ。けれども、人々の心を慰めることはできる。僕もチベットには何回か行ったことがあって、ダラムサラにも行きました。そこで何人かの、チベット人の男性と結婚した日本人の女性に会って、彼女たちの話をいろいろ聞いたことがあります。
そこで、僕もなるほどと思ったことですが、日本の老人はかわいそうだと彼女たちは言うんです。チベットの老人たちは仕事が終わると、あるいは退職をすると、みんな信仰の生活に入っていく。摩尼会とか、老人会とかで宗教を学んでいくそうです。そこの一つの教えというのは、死を恐れる必要はないということ。死んでも、肉体はこういうジャケットを着ているようなもので、魂は輪廻転生でまた次に行くんだから、死は終わりではないという。死を迎える心の準備を宗教が提供しているということですね。だから、チベットの老人たちは非常に穏やかな顔をしていると言います。
僕はドキュメンタリーも撮っているので、人間の表情を見るとか、そういう意味ではある程度訓練されていると思うんです。そうすると、チベットの老人たちにはカメラを向けてみたいと思う。それはいろんな意味で、非常にしゃきしゃきとした表情がある。ところが日本に帰ってきて、電車の中で日本人の表情を見ると、残念ながらカメラを向けてみたいっていう、そう思うような豊かな表情をしている人はほとんどいないんですね。
僕はいつも思うんですけど、人間の最大の不安の一つは死ということです。死はどんな金持ちでも逃れられない運命であって、人間は死に向かって歩いているわけです。そうしたときに、本当に根源的な死の不安を何が柔らげてくれるか、それはもう宗教しかないと思う。ただ、残念ながら、そういうものが日本の社会の中には不在、というのは言い過ぎなんですけど、なかなかわれわれの心を預けられるような場所がない。そういう生き方とか心の平安というところから見ると、チベットの人たちのほうが自分の人生を生きていると言えるんじゃないか。だから、おっしゃるような日本人的な発展史観みたいなものは一体どうなんだろうと感じることがありますよ。
輪廻転生で永遠に生き続ける世界
【正木】 チベットについては、私、二〇一〇年にカイラスの巡礼に行ってきました。そのとき五体投地して回っている人がいて、いろんな話を聞いたんですけど、何であんなきついことをやるのか。もう一度人間に生まれ変わりたいからなんですね。そのため功徳を積んでいるので、これは非常に日本人は誤解していると思うんですが、誰も悟るなんていうことは考えていない。かつて佐々木宏幹先生もミャンマーの研究ということでおっしゃっておられましたけれども、私たちは輪廻転生の世界で行を積んで、最終的には成仏することを目指すと、よく言いますけど、向うでは普通の人たちは誰もそんなことを考えてなくて、もう一度人間になりたい。
【野中】 そう、殺される羊とかなんかじゃなくてね。
【正木】 そのときに、もうちょっと美男美女になりたいとか、もうちょっと金持ちに生まれ変わりたいとか、すごいリアルです。それと、もう一つ非常に興味深かったのは、チベット人に、どこに生まれ変わりたいかと聞くと、みんなチベットでした。つまり、自分たちが今暮らしている環境の中にもう一度生まれ変わりたいと言うわけです。どこか文明が発達したところとか、別のところへ生まれ変わりたいという発想はほとんどなかった。輪廻転生の世界に生きているということは、要するに敗者復活戦があるわけです。今の人生はうまくいかなかったけれど、来世、頑張ろうかみたいな話があるわけですよ。
【野中】 それはいいね。
【正木】 ええ。そういう意味では、逆にちゃらんぽらんな人生になることもありますけれど。ですから、インド型の宗教は死ねないんです。死んだと思っても何回も生まれ変わっちゃう、解脱をしない限り。
【野中】 めったには解脱はできませんしね、当たり前だけど。
【正木】 一番いいのは今の境遇、人間に生まれ変わることですけど、人間に生まれ変わらなくて、気が付いてみたらゴキブリホイホイの中でばたばたしていたと、そういうことになりかねない。だから、輪廻転生しても人間に生まれ変わりたいというのが最大の望みなんです。ただ、死ねないインド型の宗教というのは、永遠に生きていかなきゃいけないわけで、それを苦と感じるか。お釈迦様は苦だと感じたんです。
【野中】 そうね、だから解脱っていうことを言うわけですね。
【正木】 そうなんです。でも一般の人たちは苦と感じてないんです、本当は。また人間に生まれ変わって、ちょっと楽しい人生だと思ってる。そういった意味では案外お気楽です。ただし、そのためにはある程度の功徳は積まなきゃいけないから、巡礼をするとか、パゴダに金箔張るとかやるわけですけれども、そのことによって安心立命が得られるという意味では、あの人たちは幸せですね。
グローバル化社会とイスラム原理主義
【野中】 正木先生はチベット仏教の専門家ですから、釈迦に説法のようなことになりますが、僕もチベットに行ったときずっと荒野を車で走っていると、向こうに赤い点みたいなものが四つ見える。近づいて見ると四人のお坊さんで、ふっと見るとそのうち三人がこうやって携帯を操作している。何もない荒野ですよ、ずっと向こうに僧院があったようですが、今までだったら隣の僧院に行ったり、村に行くのに馬で何時間かかるというところを携帯で済ませちゃう。それからアジア全域、どこでもそうですけれども、お金があったら最初に何を買うか、テレビなんですね。衛星のアンテナを付けて直接、外部世界が入ってくるわけです。
そういうグローバル化社会の中にどんどん飲み込まれていって、チベットのような所得水準が低いところでもマーケットになるわけです。携帯をどんどん売る。そういう中で、内部から社会の変質が起きてしまう。それから、外部の刺激がどんどん入ってくる、日本のトレンディドラマなんかも入ってくる。大体テレビドラマというのは大都市でおしゃれな生活をしているのが多いですから、上海のような大きな都市での、そういうライフスタイルが入ってきます。また一方では、労働力として都市に吸引をしていくわけですね。
つまりグローバル化の側面というのは、地球のどの地域の人たちであっても、消費者として成立するようにマーケットとして見ていく。それから労働力として吸収していく。この二つの大きな流れにどんどん組み込まれていく中で、人々の生活とライフスタイルと考え方がどんどん変わっていっている。チベットですら衛星テレビが入ってくる、ニューギニアのジャングルの中でも、まだペニスケースをしているような人たちの中にも、衛星テレビが入ってくるんですね。すべてを包み込んでしまうような、そういう大きな流れにどんどん組み込まれていく中で、人々の生活とライフスタイルと考え方がどんどん変わっていくという、そういうグローバル化から逃れられるような地域はない。
【正木】 恐らくはイスラムの問題でも、イスラムのそれなりに安定した社会の中に、今おっしゃったような形のメディアがどんどん入ってくることで、かなりイスラム的なものが揺さぶられている状況ですよね。それは一部の比較的固い考え方を持っているイスラム教徒からすると堕落というか、腐敗というか、そういう目でとらえられる。現にあの地域の政権でも欧米と組むことで莫大な利益を上げて、まさに腐敗の極みみたいなところがあるわけです。そういうものを見たときに、これはイスラムの原理から、イスラムの本来の趣旨から外れていると思う人がいくらでも出てきますね。
【野中】 そうです。今まさに言われたように、そういうものに対する抵抗感みたいなものでしょうが、非常に原理主義的なものが出てきます。イスラム原理主義と、あるいはジハード主義とわれわれは言っていますが、イスラムの根本に戻ろうよという、多分にそういう反動が出てくる。それが例えばアフガニスタンのタリバーン運動であり、ひょっとしたら今のイスラム国もそうかもしれません。
イスラム教の多様な流れ
【正木】 それは、グローバリゼーションと今回のイスラムのいわゆる原理主義というのは非常に強く結び付いていて、インターネットの普及がなければ起こらなかったようなことが起こり始めているわけです。そういった意味では、かつて起こったことと似ているようで似てない部分が多々あるのかもしれません。そうなると過去の教訓というか、体験があまり役に立たない可能性があって、これが難しいところでしょうね。
【野中】 そうなんです。人間は自分の過去の体験から教訓を導き出そうとする、それはそれで正しいんですけど、だけど今展開される世界は、われわれが過去に経験したことのないような新しい世界かもしれない。そういうふうに発想を転換することがなかなかできない。
【正木】 相変わらず十字軍やっちゃうわけです。
【野中】 そうです。アラブ世界でもサウジアラビアみたいに、伝統的なイスラムの形を持った国、でもこれは少なくとも王家がすべてを握って、親米国家であり、面白いことに全部石油とか利権に結び付いているんです。イスラムのそういう形もあれば、タリバーンのような、これは全く違う流れの中で出てきているのかなという、そういういろんな流れが交錯しているから、外から見ると一体どうなっているのかという話になってくると思うんです。
【正木】 それを外部からああだこうだ言って、武力介入してそれで済む問題じゃないわけですね。
【野中】 余計混乱させてしまう。状況を泥沼化させているわけです。
【正木】 それと、これも言い古されてますけど、今おっしゃったように民主主義と言っていながら、サウジアラビアのような国となぜアメリカが仲よくするのか。ダブル・スタンダードどころの話じゃないです、誰が見てもおかしいですものね。
【野中】 だけど、あまりそれは言われないんですよ。
【正木】 今回のいわゆるアラブの春と俗に言われているものでも、取りあえず体制を保っているのは、結局王政のところだけ。民主化を図ったところはことごとく失敗という、これも一体どうしてなのか、また考えなきゃいけない問題です。
【野中】 それにしてもアメリカというのは、イランや北朝鮮が核兵器を持つとなると、これは国際的にとにかく阻止しなきゃいけない。でも友好国であるイスラエルが持っていることに関しては、ほとんど言及がない。そうしたダブル・スタンダードに対するイスラムの側からの批判、非難があるわけで、そういう視点もわれわれ持たないといけないと思うんですね。欧米側から見て、われわれ側の正義、われわれ側の文明、われわれにとって友好的なイスラムは仲間ですと、しかし抵抗するような奴は全部敵としてレッテル張って、殲滅の対象だという。そういう世界観の中にわれわれは今、知らず知らずのうちに巻き込まれているんじゃないか、そういうふうな意識は必要なんだろうと思います。
コーランがジハードを主張する理由
【正木】 本当に昔だったら遠い世界の話だったものが、今はそうじゃなくなって、どこで何が起こるか分からない。その中でじゃあ日本人はどうするかという大きな問題が出てくるわけですけれども、ちょっと話題を変えるようですが、なぜ暴力的なものがイスラム圏で横行しまうのか。コーランの中に、ジハードを主張するような言い方があるし、例えば悔悟の書で有名ですけれども、多神教徒は見つけ次第、殺してしまえという文言があるわけです。多くの場合、そういう書いた後で、彼らが悔悟して礼拝の努めを守り、定めの喜捨をするならば、彼らのために道を開けとか、条件が必ず付いています。
でもこれを原理主義の連中は、後段をカットするんです。穏健派の場合は後段のほうをある意味で拡大解釈をして、争わないようにしてきた、そういう歴史があるわけです。ただ、今のいわゆる原理主義と言われる連中は、この前段のところだけ振り回すわけで、確かにそういう文言があることは事実なので、結局これが使われてしまう。恐らく、多くの日本人にとって一番イスラムに対して理解しがたいことは、原点の原点であるコーランに、なぜこのような文言があるのかという問題だと思うんですね。
そこをどううまく説明していくか、すごく難しい問題ではあるし、歴史的に最初のころは、多くの研究者が言っているように、終末論的な、明日にでもこの世の終わりが来るということで、非常に宗教性が強いわけです。そのときは、必ずしもいわゆる異教徒に対して敵対的でないと言われています。ところがムハンマドがメッカを追われて、メディナに行って政権を握ったころになると、非常に政治的な発言が多くなってきて、前言を取り消す。今言っているほうが正しいということで、そこではかなり暴力的な言動が多いという指摘があるんです。
これは井筒先生がお書きになったことですけれども、政権を奪取したときにムハンマドが最初に行ったことは、自分と似たタイプの宗教指導者を皆殺しにしたという、そういう歴史的事実があるんです。当時そういう指導者はたくさんいたらしい。一種の百家争鳴的な時代だったらしいので、自分よりも優れたと認めた人物を暗殺してしまう。そういう非常に強い政治性が出てくる時期、とにかく権力を握った以上はそれを維持していくという、権力の独自の動きがありますから、その中でかなり強く暴力性が出てきてしまった。という解釈が、歴史的にはされているので、そのあたりをきちんと説明していかなければいけないんですね。
私が一番まずいなと思うのは、こういう文言があるということを今言わないことです。言わないから、読んでいると、あれ、こんなこと言っているじゃないかという話になる。それはどういう歴史的な事情の中で、こういう文言が書かれたのかということを、きちんと説明しなきゃいけない。主流派の穏健なイスラム教徒たちは、これをこういうふうな形で解釈をして、無用な争いを起こさないようにしてきた。そういうことを説明しないと、まさにここだけが独り歩きしてしまいます。
なぜ自爆テロが許されるのか
【正木】 自爆テロの問題でも、アラビア語の専門家に言わせると、あれは自分自身を殺してはならないという解釈と、自分たちの仲間、自分たち相互を殺してはならないという解釈があるらしい。アラビア語としては両方に解釈できるそうです。ただ一般には自分自身を殺してはならないというふうに取って、自殺禁止なんですけれども、ちょっと無理した解釈をすれば、相互を殺してはならないという解釈ができて、自殺を認めることは可能だという。そういう説もあるらしいんです。宗教は常にそうですけれども、特定の文言を極端に解釈するという、逆に言えば文脈から切り離して極端に解釈することによって、新たな教えというか、考え方が生まれてくる。
【野中】 論破とか出てくるわけですね。
【正木】 例えば、これは事例として適当かどうか分かりませんが、日本の浄土宗や浄土真宗では、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できると言ってますでしょう。あれは無量寿経が典拠なんですけれど、実はどこにもそんなことは書いてないんです。それは中国の善導というお坊さんがかなり強引な解釈をして、それを法然上人がもっと強引に解釈をして、さらに親鸞さんが、という話で、ですから文献的には無理なんです。
【野中】 無理なわけですね、本来的には。
【正木】 素直に読めば、いろんな功徳を積み、南無阿弥陀仏を唱え、膨大な時間をかけて修行をしていけば、いつか極楽に行けると書いてあるだけです。南無阿弥陀仏、一発で極楽に行けるとはどこにも書いてない。そこに宗教が持っているところの面白さというか、危なさもあるわけで、われわれの科学的な思考とか、論理的な思考とは全然違ってしまうわけです。
【野中】 今の自爆テロという言葉が定着して、イスラムのため、アッラーのために死ぬことで自分は天国に行けるという、文言的にはそういうことが伝わってくるわけです。この死に対する考え方、このあたりはどういうふうに考えたらいいんですか。
【正木】 つまりそういう行為によって、最高の状態が与えられるという教えだと思うんですね。宗教においては本来、死の問題がメインテーマだったはずです、というと話が縁遠くなるようなんですけど、近代化以降、特に戦後の日本仏教というのは死の問題をほとんど無視した。例えば、仏教は生きるための知恵ですという方向に行っちゃうわけです。死後の問題にはほとんど答えない。極楽浄土に魂が行くんですか、行かないんですか、極楽浄土はどこにあるんですか、などと聞かれても、お坊さんは答えられないでしょう。
ところが一神教、特にイスラム教のような場合は、霊魂の実在を疑っていません。神の実在、もちろん疑わない。神によって約束された天国も疑ってないわけです。それがそろえば、当然、神に対して最高の行為をすれば、その反対給付というか、ご褒美として一番いいところに行ける。ということはコーランの中にもうたくさん書いてあるわけです。ですから、そこはちょっとあるところを短絡させれば、すぐに出てくる考えと言えます。
焼身自殺に対する焼身供養
【野中】 じゃあ一神教でなくて、正木先生の専門であるチベット仏教ですね。チベットでもここ数年で百人以上、チベット人僧侶が焼身自殺をしたといいます。これは中国のチベット支配に対する抵抗だということですが、一般的な考え方で言うと、宗教は自殺を禁止しているのではないか。しかし、現実的にはチベットでもそういう形で起きている、このチベット仏教における抗議の焼身自殺というのは、どういうふうにとらえたらいいんでしょうか。
【正木】 少し話が迂遠なんですけれども、実は最近よく指摘されることですが、ブッダは自殺を容認しているんですね。原始経典の中で、バッカリという人とゴーディカという人が自殺をしておりまして、一人は悟りを開いた状態で病苦で、一人は悟りを開くけれど、すぐまた元の黙阿弥になるということを繰り返した揚げ句、七回目に首を切ったという。そういう記述がありまして、それが近年話題になって、仏教界では自殺を極悪非道の行為であると言わなくなってきています。また自殺をした人の遺族、家族の救済ということもあって、極悪非道の行為とするのは問題だということもある。
もう一つ、これはチベットにおける先鞭がかつてのベトナム戦争時のティック・クアン・ドックというお坊さんで、あのとき本多勝一さんが焼身自殺と言ったんですけど、それに対して山折先生が焼身供養だと言った。
【野中】 焼身供養とは、なかなかちょっと。
【正木】 これは法華経に典拠がありまして、自分の身を灯明として仏に供養したという、そういう考え方が出てくるわけです。つまり自分の身を滅することによって仏に対して最高の敬意をささげる。供養であって、自殺ではないという解釈です。ですから仏教的な立場に立てば、自ら焼身することによって仏に供養し、その供養の功徳によってチベットの苦難を救うという論理が成り立つ。そこで、いわゆる自爆テロと同じような形の自殺というか、自死とはとらえないでほしいという考え方もあります。現にチベットで起こっていることは抗議のための自殺に近いと思いますが、あえて理屈をつければ供養ですよね。
実際、例えば日本でも、明治年間に実利行者という方が那智の滝から投身しています。修験者ですけど、天下万民を救うと称して、結跏趺坐したまま、那智の滝の上からドーンと落ちるということをやっています。それからいわゆる即身仏、ミイラになる、あれも緩慢な自殺と言えば自殺でありまして、自らの身をささげることによって多くの衆生を救うという、供養と言えば供養なんです。
宗教の中には自殺、自死にたぐいするようなものは結構あって、これは浄土宗や浄土真宗は否定しておりますけれども、例えば中国浄土教の祖師たちの中には、早く浄土に行きたいと投身自殺をした人がいる、それは文献的にきちんとしたものが残っています。キリスト教でも、かつては自殺、自死に関しては、初期キリスト教はそんなに厳しくなかったんじゃないかという説がある。やっぱり教団組織ができてくると、そういうものががちがちに固まっていくので、古代宗教は案外寛容だったんじゃないかというんですね。
イスラム国に惹かれる若者たち
【野中】 もう一つお伺いしたかったことですが、イスラム国へたくさんの欧米からの若者が入り、また日本の若者の中にもひかれて行こうという人たちがいるらしいということですね。それはメディアなどを見ると、先進国の中で発展から取り残された人たち、あるいはマイノリティとして、生きる上での不満とか不平とか、そういうものがあって行くんだという、そういう割と図式化された話が出ています。先生はオウム真理教のこととか、そういう若者たちのことをずっと見てこられたと思うんですけれども、イスラム国にひかれるような欧米の若者たちの心情、あるいはその背景をどういうふうにお考えですか。
【正木】 これは非常に複雑であると思うんです。ヨーロッパの、ベルギーとかフランスで起こった事件では犯罪歴があるという、そういった意味では、彼らの自己正当化という部分もあったかもしれません。また、どうせならば、最後やったろかみたいなのがあったかもしれません。ただ、それで全部が解決できると思えないのは、オウム真理教あたりでも非常にまじめに禁欲的に生きたいという人もいるんですね。つまり今のような、あらゆる欲望がお金を払うなり何なりすれば遂げられる社会、そういう社会に生きていることが嫌な人っているんですよ。
これは研究者の中に、なぜ古代ローマにおいてキリスト教が広まっていったかということに対する説明で、もちろん定説があるわけじゃないんですが、ある説では、古いローマではセックスでも何でもめちゃめちゃで、あらゆる行為が許されていた。そういう状況に対する反発が結構強かったんじゃないかという。人間の中にはある混乱というか、腐敗というか、何でもやっていいというような状況が生まれると、それに対する反発を持つ人が少なからず生まれるだろうというんです。もっと清らかな生活をしたい。聖教徒じゃありませんけど、禁欲的な生活をしたいと。
特にオウムの場合は、行をすることである特殊な体験をすると、それにはまっちゃったわけです。多分イスラムなんかの場合でも、自分の行為がアッラーという神から是認をされるという。今のようにイスラム教徒が苦難の道を歩んでいるときに、それを救う行為によって、仮に自分が死んだとしても、それは神から褒められる行為なんだという、そういうことを吹き込まれる、またそういう確信を持てば、やっぱりああいうことをやる可能性があると思うんです。そういうような禁欲性とか、一種の自己犠牲的なイメージとか、こういったことを持つ人は、一般の人が考えているより多いのかもしれません。
【野中】 社会の多数者にはならないけれども、そういう人たちは必ずどこかに存在するということですね。
【正木】 ある一定数いると思うんです。よく言われたことですが、オウム真理教に関して、二十年前だったら反安保やっていただろうという。そういう意味での受け皿が今の日本にはないわけです。
オウム真理教とイスラム国
【正木】 先生は具体的にオウムに参加した人たちをご存知でいらっしゃるわけですけれども、やはりこういう社会の中で何か欲望にまみれて生きるということ、それに対し、こんな生き方でいいのかと思う人たちが、そういう欲望をとにかく乗り越えていきたいとまじめに考える。だけど現実的には、それは性欲も含めていっぱいいろんなものがあるわけで、何か特定の本を読んだからといって克服できるものじゃない。だけど苦しいと、そういったときに、例えば尊師といわれる人から、「おまえはこういうふうにすれば解脱できる」と。そういう出会いがあると、これこそ自分が求めたものなんだと思ってしまう。
そしてそこへいったん入ってしまうと、これは地下鉄サリン事件を起こしたような人たちも、多分そうだと思うんですけれども、「こんなことやっていいの?」と言ったときに、周りの信者たちから、「そういうふうに思うのは、おまえの信仰がまだ足りないからだ」みたいなことをいわれ、とにかく尊師の言うことを信じられないのは、まだ君の修行が足りないっていう話をされてしまって、どんどん深みにはまっていく。
一般社会から見ると、ああいうものにひかれた人たちはどうしようもない、ああいう形でたくさんの人を殺すというのは極悪人です。許せない人たちだ。だけど、彼らの側に立ってみると、自分は本当にそういう欲望を乗り越えたい、あるいは解脱したいということを求めてきた、本当にあるべき生き方をしたいと追求してきただけなのに、結果がああなってしまったというような、多分そういう思いがあるんじゃないでしょうか。
【野中】 ある意味では、既存の価値観を乗り越えること自体が修行だという。ですから今でも後悔していない、人を救うためにやったんだと、そういう論理が成り立つことは事実です。もう一つ、オウムにもイスラム国にも共通する部分というのは、ある一種の閉鎖的な集団ということ。それは連合赤軍でもそうですけれども、閉じられた空間の中では全く別な論理が働く。
【正木】 その集団の中では絶対的な正義とみなされることを裏切るというのは、そのこと自体、自分の生命の危険にも通じますからね。そういうものがいろいろ重なってくると、何か理不尽な命令が出たとしても、それは拒否できない。拒否する心が臆病なんだと言われてしまう。
【野中】 だから僕なんかそうですけど、まあいいじゃんと、どこかでいいかげんなところといいますか。いろんな欲望もあるし、時々はそういう欲望に負けてしまうようなこともあるし、それは反省はするんだけど、まあしょうがないよねという、何かそういう部分が必要なのかなと思うんです。
【正木】 そうなんですね。逆に、彼らはそれが許せないんだと思います。
【野中】 それが許せない。そういう自分が許せない。
イスラムに民主主義は定着するか
【正木】 これは先ほどの話に少し戻すようなんですけれども、よく欧米で言われるのは、イスラム世界が近代化に乗り遅れた原因というのは、イスラム教自体の構造の中にあるという指摘がずっとあるわけです。これは私の雑な話ですが、キリスト教も仏教も例外はいくらでもありますけど、長い歴史の中で血族集団を解体してきたんです。いわゆる部族とか氏族とか宗族をね。いくらでも例外ありますよ。でも結局、イスラム教という宗教は部族集団を温存してきました。
【野中】 そういうことですね。
【正木】 結局それが単位で、それを無視しては何事も成り立たないわけです。部族の集団が残っていること自体、近代化にとってマイナス要因ですね。
【野中】 そうです、明らかにね。アフガニスタンとかイラクといって、おっしゃるようにやっぱり部族社会なんですよ。アフガニスタンでも今の政権を握っているパシュトゥーン族、みんなそれぞれ部族です。長老がいろんなことを決めるわけで、それで何百年も来ているんです。そこにいきなり民主主義でみんなで投票というのは。
【正木】 それは絶対に無理です。
【野中】 ものすごい抵抗とものすごい圧力がある。それを強引にやろうとするから、いろんな形で反発が起きるわけです。
【正木】 そういった意味では野中さんのお考えのように、幕藩体制でその部族を一つの藩と考えて、その代表者の長老を集める長老会議みたいな形をつくって政治を行ったほうが絶対うまくいくはずです。そういうことをやろうとしないから失敗する。
【野中】 そうです。だから戦争を仕掛けた欧米の側からすると、結果を出さなきゃいけないんですね。フセイン政権を倒した、あるいはタリバーンを倒したから、次は総選挙をやって、みんなで民主的に選んだ人が大統領になったという、そういう結果を見せたいわけです。それで強引にそれをやろうとする。だけど、実際にはうまくいかないので、いろんなところでほころびが出てきます。それを抑えようと、最初は軍事力でもってアフガニスタンでも国際支援部隊とか、NATOを中心にやるわけですね。
ところが、抑えても抑えても、次から次へほころびが広がって、結局音を上げちゃう。これ以上アフガニスタンにいたら自分の国内世論がもたなくなってくる。そこでどうするかというと、われわれは撤退するから、今度はアフガニスタンの君たちがやるんだよと、イラクはイラク人の君たちに任せたよと。それで軍事顧問団を送って、武器とお金を送って、要するに自分たちで解決できないものだから、今度は相手に押し付けるわけです。ところが欧米の意を受けた政権というのは基盤も弱いものですから、結局またグワーッと反対勢力が出てきて、国内が泥沼化、混乱化する、そういう状況なんですよね。
それをいわゆる長い目で見たときに、欧米流の民主主義たる、やむを得ないプロセスだというふうに見ていくか、つまり多少の試行錯誤があってもそういう経験を経ないといけないと見るか。それとも、そういうやり方そのものが抱えている致命的な失敗なのかという、その辺の判断もなかなか難しい。これは五十年、百年という長いスパンで世界の歴史を見ていって、そういう中で今われわれはどこに立っているのか、われわれはどこに向かっているのか、そういうところの議論から始めていかないといけないと思いますね。
(2月19日東京グランドホテルに於て)
