戦後七〇年に憶う
 ―大戦時代へのプロローグ―

  駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹

はじめに

 今年は太平洋戦争後七〇年の「記念すべき年」である。私もそう思うし、一般の人びともそう憶っているのではなかろうか。
 新聞や雑誌、テレビなどメディアも、さまざまな視点や角度から「戦後七〇年」を取り上げている。それらを目にし耳にしていると、太平洋戦争なるものが日本人全体にとってきわめて重大な出来事であり、私個人にとってもかなり深刻なスティグマであることが自覚されるのである。
 七〇年という年月は人の一生にとって決して短い時ではない。「一〇年ひと昔」というが、七〇年は「ひと昔」を七度も重ねたことであり、まさに「古稀」〈古来稀〉なのである。
 のっけから私事にわたって恐縮だが、私の父は三六歳で、母は二六歳で他界している。
 しかも死因は両親ともに肺結核であった。
 昭和ひと桁の頃、肺結核で死去する人は少なくなかった。男女ともに一〇代から二〇代の結核患者が多かった気がする。
 その頃肺結核という用語を用いる人はほとんどおらず、「肺病」という言葉が使われていた。
 結核患者のいる家は「肺病たかりの家」と言われ、周囲からいろいろと差別されていた。
 「人間五〇年」とか「人生五〇年」という表現は誇張ではなかった。
 その意味で古稀七〇年は文字どおり慶祝されるべき年月であったのだろう。
 今年が太平洋戦争後七〇年として注目されるのは、日本人の寿命が延びたというだけではなく、よくぞ七〇年もの間「戦争」をせずに平和と繁栄のなかで過ごし得たものだという、ある種の驚きの感慨を人びとが抱くからではあるまいか。
 かく言う私も平和な社会に生かされて、肺病に罹ることもなく傘寿を超えて五年にもなる。
 とは言え、私も先はそう長くないと思っているので、昭和ひと桁生まれが物心ついた頃から今日に至るまで経験した事柄の一端を披露して、これから日本を背負う若い仏教者たちの参考に供したいと思う。


一、独りっ子の世界

 私が自分と他人との関係を意識しだした頃、周りにいた人たちは数多かった。寺院住職であった父は私が二歳のときに遷化し、母は三歳のときに逝去した。
 私は父の寺から母方の祖父母の寺に引き取られた。その寺は大伽藍を擁する地方の名刹であったから、檀務を手伝う若い僧が三人、女中さんと呼ばれていたお手伝いが二人いて、いつも賑やかであった。
 小僧さんたちも女中さんたちも、私が両親を亡くした「独りっ子」であることを弁えていたので、私のことを特別の目で見、格別の扱いをしてくれた。
 祖母は身体の弱かった私を心配でたまらなかったようで、女中さんたちと一緒に遊んでいるときにも何だ彼だと文句をつけていた。
 外出をするときは、友だちが半袖姿なのに私は長袖の服を着せられ、風邪をひかないようにと真綿を首に巻かれた。
 うっとうしいことこの上ないが、我慢したのはひとえにおばあちゃんを喜ばせるためであった。玩具店には小僧さんと一緒によく行った。
 玩具は私が選ぶのではなく、小僧さんの気に入った物が選ばれた。かなり高価な物でも私が欲しがったことにすれば、おばあちゃんが文句を言わないことを小僧さんたちはよく知っていた。
 私も子供心に小僧さんたちの狡賢さを知っていたが何も言わなかった。子供にも子狡さは十分あるのだが、子供ゆえに許されるのである。
 昭和六年(一九三一)に満州事変が始まると、玩具も軍事色というか戦事色を帯びた物が売れるようになり、私も機関銃を買ってもらった。黒っぽいプラスチック製のような銃で、引き金を引くとダダダダッと音がして銃口から火花が散った。
 私は誰彼かまわず撃ったが、撃たれた小僧さんたちはその場に倒れて死んだふりをした。私は英雄気取りで引き金を引き続けた。
 後になって思ったことだが、小僧さんたちがかなり本気で子供の私に付き合ってくれたのは、私が孤児で寂しい存在であることを十分に意識した上での慰安行動であったのであろう。
 小学校に入っても私は先生たちから特別視された。一つには一般の人が特別なところと感じている「寺」の子であったこと、他は私が両親も兄弟もない独りっ子であることを気の毒に思っていたことであろう。加えて周りの子と較べて私の成績が良かったからであろう。成績が良かったのは、私が頭が良かったからではなく、「家庭教師」が多かったからである。
 小僧さんたちも姉や(女中)さんたちも私にとっては心優しい家庭教師であった。
 五十音も九九も書き方(書道)も、かれら家庭教師が仕込んでくれた。私が五十音や九九を自慢気に唱えると小僧さんや姉やが大いに誉めてくれ、これを見ておばあちゃんが目を細めてくれるので、彼らはますます家庭教師的になったと思う。
 その間に時代は徐々に「きな臭さ」を強めていった。

二、戦争時代へ

 さきにも述べたように、昭和六年私が二歳のときに満州事変が勃発し、一二年(一九三七)に支那事変(日中戦争)が起こり、同一六年(一九四一)に太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入した。いま省みるとまさに戦争オンパレードの時代であった。
 今になって過ぎ去ったあの頃をふり返って見ると、どうも大人たちに特別な動きがあったとは思われなかった。目につく動きがなかったということは、彼らに戦争や平和について格別の思想や信条が見てとれなかったということである。
 小僧さんたちは平和を説く仏教のスペシャリストなのだから、殺人をも敢えてせざるを得ない戦争には絶対反対を唱えるのが常道であろうのに、そういう態度は示さなかったように思う。あるいは示そうとしても示せなかったのかもしれない。
 なぜか。今日流行の言葉を用いれば「空気」である。「空気」は「物体が存在しない、相当に広がりのある部分」を意味すると共に「その場の気分。雰囲気」を指す。
 われわれはよく「その場の空気がそうだったのだから、仕方なかった」のように表現する。大勢がそうなのだから従わざるを得なかったという類の物言いである。
 話を戻すと、満州事変→支那事変→太平洋戦争と続く「戦争シリーズ」は、異常な空気=大勢が然らしめたのだから、どうしようもなかったのだということになろうか。
 もちろんごく少数の知識人たちは、警察に検挙されながらも信念を貫き通した事実はあった。
 しかし大津波に呑み込まれたように、大勢は戦争という大波に抗しきれなかった。
 戦争を原理的に認めない仏教者も例外ではなかった。要約的に言えば、指導的な仏教者も小僧さんたちも戦争という巨大津波に抗し切れないどころか、「致し方ないこと」と受け入れ、ついにはみずからもこの大波に積極的に乗っかってしまったということではなかったろうか。
 こうした昭和時代の戦争シリーズは、周知のように広島・長崎の原爆悲劇を機に暗い幕を閉じた。あれから七〇年、日本社会は戦後復興の時代から戦争なしに見事な経済発展を遂げ、世界も驚く程の繁栄を実現し、平和な「古稀」を迎えるにいたったのである。

三、「空気」と日本人

 私は司馬遼太郎氏の小説やエッセイが好きでよく読む。その面白いところは小説の内容がいつのまにか深い学識に裏付けられた鋭い「日本人論」に化していることである。
 ひとつ例を出そう。
 「日本人がずいぶん昔から身につけている思考癖は真実はつねに二つ以上ある≠ニいうものであった。これは知識人であればあるほどはなはだしい。
 たとえば幕府という存在も正しくかつ価値があるが、朝廷という存在も正しくかつ価値がある≠ニいう考え方である。神も尊いが仏も尊い。孔子孟子も劣らず尊い。花は紅、柳はみどりであり、すべてその姿はまちまちだがその存在なりに価値がある、というものであった。
 一神教を信じている西洋人ならばこれをふしぎとするであろう。かれらにすれば神は絶対に一つであり、自然、真理も一つでなければならない。が日本人は未開のころから、山にも谷にも川にも無数の神をもっていた。
 どの神もそれぞれ真実であったが、そこへ仏教が渡来して尊崇すべき対象がいよいよふえた。さらに儒教がそれにくわわり、両手にあまるほど無数の真実をかかえこみ、べつにそれを不思議としなかった」(『峠』、二〇〇三)。
 司馬氏は日本人の思考癖として、「真実はつねに二つ以上ある」と認識しようとする傾向を挙げているが、これを俗な表現で示すなら「あれもいいが、これもいい」、「これも捨てられないが、あれも手放せない」などとなろうか。
 宗教的には仏教伝来のいきさつが明らかにしているように、「仏」は当初蕃神(となりぐにのかみ)とか客神(まろうどがみ)とか呼ばれており、仏という名の神に他ならなかった。神々という日本仏教の根っ子の上に諸仏諸菩薩諸天善神等を乗っけたといえようか。
 今日では神道と仏教とは学問的に弁別され、神道は民族宗教、仏教は世界宗教と呼ばれている。
 とはいえ、日本人の多くは理屈の上では両者を区別しても宗教心情的には依然として「かみ・ほとけ」の枠組みを破却し得ないでいるように思う。
 一九四五年(昭和二〇)の敗戦の際、私は大人たちが「神も仏もあるものか」と色めき立っている姿を目にしている。あれほど神仏に日本の勝利をお願いしたのに効き目がなかったのは何事ぞと、神仏に文句を付けていたのである。一神教社会ではとても見られない現象であると言えよう。
 さて戦後七〇年、このような日本人の「空気」は変化・変質しただろうか。
 この問題に迂闊に答えることは危険であり、慎重の上にも慎重を期すべきである。
 その上でややはったりっぽい私見を述べると、大勢はさほど変わっていないのではなかろうか。
 変わらない、あるいは変わり得ない状況の根っ子に何があるのだろうか。
 誤解を怖れずに言えばそれは「空気」しかも「社会的空気」であると言えよう。
 この七〇年は病貧争からの脱却と高度成長経済の達成が社会的または文化的な空気であったように思う。
 時の政権が何か政策を打ち出し、御用学者と言われる人たちがこれをメディアで繰り返すと、期せずして社会的空気が流れ出して人びとをいつの間にか「その気」にさせてしまうのである。一旦その気になると日本人は一様に頑張り粉骨砕身して止まない。
 戦時であれ平時であれ、国民的規模で走りだすとその情勢・状況を支配している「空気=その場の気分=雰囲気」が変わらない限り、走りは止まらない。一斉に動化し、一斉に静化する。
 戦時中「欲しがりません、勝つまでは」を謳い文句にしていた私たちが、敗戦を機に「平和国家日本」、「経済大国日本」を唱えても、その変身ぶりを攻撃する人はほとんどいなかった。空気が変わったからである。
 二〇一四年一二月一四日に行われた衆議院選挙について、精神科医の斎藤環氏は興味深い話をしている。
 氏はさきの選挙で自民党が勝利したのは、日本社会がもつ「柔構造」のゆえであるとする。それは表面的には変わっても深層は一切変わらない柔軟さを意味し構造的に二重になっているのだという。
 たとえば、外来語をカタカナ化して採り入れるが、日本語の構造はびくともしないし、4Kテレビが登場しても番組の中味は変わらない。二大政党制を導入しても選挙はどぶ板のまま。候補者がたすきで街頭演説、紅白だるま、万歳三唱といった様式を否定すれば、彼(彼女)は確実に落ちる。巧妙に新しい物を取り込むと同時に前近代を壊さないという二重構造、これが日本社会の特徴である(「何となく肯定 変わらない日本」、「朝日新聞」平成二七年(二〇一五)一月一〇日)。
 右に紹介した二重構造=柔構造は、現実の日本仏教の説明にも役立つのではなかろうか。世界に冠たる教理仏教と、なかなか脱け出せない葬式仏教という二重構造である。
 この二重性は日本仏教の特質であり、一方を保持して他方を切り捨てれば済むといったものではあるまい。
 とにかく、あと七〇年は、平和が続きますようにと、ただひたすら願い祈るのみである。