戦後七〇年に憶う(2)
 ―宗教界の動きなど―

  駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹

はじめに

 太平洋戦争後七〇年もの間平和が続いたということは、今の日本人の多くにとっては当たり前のことかもしれないが、それ以前のこの国の歩みを知る者にとっては大変な出来事なのである。
 前号にも記したように、私の幼少年期つまり一九三〇年生まれの私が一歳のとき(一九三一)に満州事変、七歳のとき(一九三七)に日中戦争、そして一一歳の年に太平洋戦争が始まったのだから、私の幼少時代はまさに「戦争時代」であった。一五歳(一九四五)の年の八月一五日に戦争終了、というよりは「敗戦」である。
 私が小学校に入った年の七月七日に盧溝橋事件=日中戦争勃発であるが、小学一年生の心に「戦争」がどう響いたか、まったく記憶にない。
 しかし小学二〜三年生以降の出来事は比較的よく憶えている。クラスを挙げて出征兵士を見送るため駅までよく出かけたからである。
 各家庭の父や息子にある日突然「召集令状」なるものが来た。ぺらぺらの赤い紙であったから「赤紙」と呼ばれていたように思う。
 赤紙が届いた家は名誉な家とされていたが、息子とくに一人息子を国家に捧げることになった母の心情はいかばかりであったか、幼い私には分からなかった。本当は悲しかったに違いない。
 令状が届けられてから本人が出発するまでの時間は短かかったようで、当の若者は神・仏参りや挨拶廻りで多忙を極めたようであった。
 戦後七〇年を回顧する新聞・テレビを目にすると、結婚して間もない人が召集されて戦地に行き戦死、遺された妻が決して父の顔を見ることのない赤ちゃんを産んだという話が少なくない。
 出征兵士を送る小学生たちは、先生の指導で日の丸の旗を作った。三〜四〇センチの篠竹に日の丸を印刷した和紙を貼り付けたものだ。
 兵士が発つ駅までは軍歌を歌いながら歩いた。
 「天に代わりて不義を討つ忠勇無双のわが兵は 歓呼の声に送られて今ぞ出で発つ父母の国 形は生きて還らじと誓う心の勇ましさ」などその一つである。
 当時の小学校は尋常高等小学校と呼ばれ、尋常小学校が六年、高等小学校が二年であった。高等小学校の生徒は何となく大人ぶっていて、先輩面をしており、後輩たちを苛めたりかわいがったりした。
 くだんの軍歌は小学校の先生から教わったというよりも、先輩たちから仕込まれたのではないかと思う。私は今でも歌える。
 駅では召集された兵士が挨拶し、集まった大勢の人たちの「万歳、万歳」の声に送られて駅を発った。その前後に大声で歌ったのが次の歌である。
 「わが大君に召されたる 命光栄えある朝ぼらけ 讃えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く いざゆけ兵日本男子」。社会の「空気」=「雰囲気」は確実に「戦争」に変わっていった。」

一、戦時と宗教者

 一九四一年(昭和一六年)一二月八日に太平洋戦争が開戦した。このとき小学五年生であった私はラジオで放送された開戦の文言を耳にした。「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦斗状態に入れり」という、あまりにも有名な大本営発表である。今でも耳に残っている。
 ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した海軍航空隊が大戦果を挙げたというのである。そのとき小学校の校長先生や受け持ちの先生が何を語ったのか、どういう訳かまったく記憶にない。
 ただ一二月の一〇日か一二、三日頃だと思うが、お寺で法要があり、当時説教が旨いことで知られたS師が「戦争が始まって今までモヤモヤしていたものが取り去られて、すっきりした」と滔滔と述べているのを、後ろの方で聴いて憶えている。
 このことは仏教界が総じて大戦に賛成であったことをよく示していると言えよう。
 宗教新聞として知られる「中外日報」が「戦後七〇年 宗教界の動き」と題する特集記事を掲載しているので、興味深い箇所を引用しながら私見を述べてみよう。
 「中外」紙は、「日本の宗教界の大半が戦争遂行に協力した」とした上で、そのなかにあって反戦・平和を唱え弾圧された宗教者がいたことを特筆している。
 その人は岐阜県の大谷派僧侶、竹中彰元師(一八六七〜一九四五)である。
 師は開戦後「戦争は罪悪だ」と訴え、裁判で有罪となった。師は哲学館(現東洋大)や真宗大学(現大谷大学)などに学び、若くして布教師として全国的に活躍した。日露戦争では旅順のロシア軍降伏を祝う漢詩を作ったりしたが、日中戦争が始まった一九三七年、兵士を見送る際に「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから止めたがよい」と訴えた。その後も日中戦争は中国への侵略と考えると述べ強く反対したので、三七年一〇月に陸軍刑法違反で逮捕された。
 これにたいし門徒たちは「嘆願書」を出したが、禁固四月執行猶予三年の有罪判決を受け、宗派から布教師の資格を剥奪された(二〇〇七年に処分撤回)という」(「中外日報」二〇一五・七・三一)。
 竹中師は勇気ある硬骨漢であったと思う。
 一般に時の大勢に順応し賛同して生きることは楽である。大勢に異を唱え、どこが問題かを指摘し、みずから正しいと考えることを主張しかつ歩むことには相当の覚悟がいるであろう。
 自分一人だけのことではなく、家族や縁者をも引き摺り込むことになろうからである。
ことにこの国ではルース・ベネディクトの『菊と刀』(一九四六)が指摘するように「恥」の文化が長い間支配的であり、人びとの行動を少なからず規制してきた。何事にも物怖じしないように見える今日の若者たちも「ああ恥ずかしい!」の語を連発するではないか。
 日本社会はなお個人的信念を貫き通して生きるのに楽なところではないように見える。人びとは現に空気=雰囲気をかなり気にしながら生きているのではないか。
 だから竹中師は立派な人に見えるのであろう。

二、終戦の詔勅と天皇

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日に太平洋戦争は終結した。
 その日は暑い晴れた日であり、中学三年生の私は気仙沼市(当時は町)に移設されていた日本造船の工場でベニヤ板製の舟艇造りの作業をしていた。朝礼の折に先生から、正午に重大放送があるから事務所の前に集合するように告げられた。
 正午にラジオの前に集まると天皇陛下の玉音放送があるようだというので、皆緊張気味であった。
 耳にしたのは昭和天皇の「大東亜戦争終結に関する詔書」の朗読であった。はじめて聞く陛下の生のお声であった。
 「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ。朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ……」に始まった。
 今月でもよく引用されるポツダム宣言受諾の詔書である。陛下のお声はやや甲高く抑揚に富むものであったが、ラジオの雑音が多く、よく聴きとれなかった。
 ただ、今もよく引用される「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ、以テ万世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス……爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ体セヨ」の部分はよく記憶に残っている。後に何度も耳にしたせいだろうか。
 なにしろ天皇は別格の存在であり「現人神」、生きている神であったから、その生の声を聞くなど考えられないことであった。
 小学校の校長先生が天皇について話す際には必ず「畏れ多くも(恐れ多くも)」と始まる。すると生徒は一斉に身を引き締めて不動の姿勢をとった。少しでも遅いと先生にひどく叱られたものである。
 今日では両陛下がお年寄りの施設などを訪ね、迎えた人びとと言葉を交わすときには、みずから床に膝をつかれることがあるが、昔はとても考えられないことである。陛下の車が前を通るときには最敬礼であったからだ。
 ところが見るなと言われると見たくなるのが人間であり、いわんや子供においておやである。御料車が前を通る瞬間にひょっと顔を上げて見たりすると、後で大目玉を食うこと必定であった。
 敗戦後、昭和天皇が人間宣言をされたのだから、今や天皇は現人神ではなく、同じ人間であると理屈の上ではなろう。
 他面天皇は国民統合の「象徴」であられる。「国民統合の象徴」とは何か。この問題はまだ完全に解けていないのではあるまいか。
 口うるさい評論家たちもこの問題を突き詰めることにはためらいがあるようである。
 両陛下御自身の意識は別として、国民一般の意識の中には天皇という存在自体に通常ではないもの、強いて記せば「聖性(なるもの)」が潜在するのではなかろうか。
 戦後七〇年、この意識は概してそう変化しているとも思えない。
 このことは宗教界全般についても言えるのではないか。
 宗教界もまた大勢としては天皇制と共に歩んできた観がある。端的に言えば大勢順応である。「中外日報」の記事を借りよう。同紙は「戦時態勢に突き進んだ昭和初期以降、天皇の神聖化や日本の優越性を唱える国体観念も先鋭化した。この動きは仏教教団の教義解釈にも影響を与え、国体観念によって理論づけられた「皇道仏教」や「戦時教学」が形成された」と述べる。
 どういう動きをしたのだろうか。
 本願寺派は親鸞聖人の著書などに不敬と見なされる字句があるとこれを削除し、加えて聖人の神祇不拝の教えに反して、宗門寺院に神宮大麻を奉安するよう指示を出した。
 これを支えたのが「真俗二諦」の教説である。浄土真宗では「俗諦」を国法・王法と理解してきた歴史があり、「王法遵守」の優先が説かれた。
 王法遵守について赤松徹眞氏(龍谷大学長)は「現実の国や社会に無批判に即応・対応することで、国策としての戦争が起これば、それに取り組むことが真宗門徒として正しい生き方ということになった」と指摘している(「中外日報」)。
 これを見ると戦時中の日本仏教は、大勢として時の流れに逆らうことなく便乗し、更に積極的に戦争に加担したことが分かる。


三、わが過去を省みて

 戦時中や敗戦時に大学や研究所、とくに仏教・宗教関係の職場に職を得ていた人たちは、どのように身を処したのであろうか。
 前述の事柄とも重複する点もあるが、反省をこめて記したい。
 私がお世話になった駒澤大学が二〇〇二年(平成一四)に出版した『駒澤大学百二十年』には懐かしい数々の写真が掲載されているが、その中に「昭和一六年(一九四一)ころ 教職員の集合写真」というのがある。一〇名の教員が横に並んで坐しているが、ど真中に一際目立つのが当時の文部大臣荒木貞夫陸軍大将である。両側に並んでいる教授先生方の中には後に学長・總長になった方も写っているが、思いなしか冴えない。権力者に屈しているようにも見える。
 荒木氏(一八七七〜一九六六)は「第一次近衛内閣の文相として軍国主義化を推進。敗戦後A級戦犯として終身禁錮刑」(『広辞苑』)となった人である。
 太平洋戦争開戦の年に撮られたこの写真は、いみじくも当時の「空気」をよく表しているように思う。
 「五戒の第一は不殺生戒であり、五戒を破る可能性のある軍隊には行きません」などと言える状況ではなかったのであろう。
 結局、聖職者も一般人も時の勢いには抗し得なかったのである。それどころか戦争を鼓吹することにさえなったのである。
 私は大学の有名教授が戦時中は好戦的な文章を書き、戦後は仏教ほど平和を説く宗教はないと述べ、キリスト教を批判していた姿に唖然としたことがある。
 とは言え、しからばお前はどうかと問われたら、私はかく対処すると断言する程の自信はない。
 戦後七〇年、世の中は何となく「きな臭さ」を増してきた。国会の議論を見ていると、武力行使と武器使用は違うとか、後方支援は武力行使とは異なるとか論じ合っている。
 何か戦争のとば口にあるような感さえする。作家の半藤一利氏は戦中戦後社会についてのよき語り手であるが、現代の社会は「閉鎖的同調社会」になりつつあるのではないかと警告している。それは「集団からの圧力を感じとり、無意識的に自分の価値観を変化させ、集団の意見と同調していく。その方が楽に生きられるから」だという(「毎日新聞」二〇一五・六・八)
 若い世代とくに仏教者に望みたい。戦前、戦中の先輩たちの徹を決して踏むなかれと。