戦後七〇年に憶う(3)
―「空気」と仏教について―
駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹
はじめに
すこししつこいような気もするが、もうしばらく前号でも触れた「空気」というものについてこだわってみたい。
よく知られた諺の一つに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というのがある。苦しかったことも、過ぎ去れば全く忘れてしまうとか、苦しいときは人を頼み、苦しさが去ればその恩を忘れてしまうことを意味する。
平成二三年(二〇一一)三月一一日に生じた東日本大震災も五年も経つと、あの日本中を震撼させた大災害を大きく取り上げたメディアも、別の問題に視線を移してしまったかに見える。
それは日本全体の社会的「空気」が変化したことを物語るものであろう。現地の人びとは別として、多くの日本人にとって五年前の出来事はすでに喉元を過ぎてしまったのであろう。
近頃では新聞もテレビも大きく報じるのは、専ら安全保障関連法案である。東北の大災害のときに援助しようと各地から駆けつけた学生ボランティアたちは、今や国会前で「安保反対・戦争反対」と大声で叫んでいる。空気は自然から政治へと方向性を移した感がある。
それでは「空気」とは一体何かという問題に迫る前に、人びと、特に知識人は「空気」という語をどのようなときに使用するかについて一例を挙げてみよう。
慶応義塾大学で英語・英文学を講じておられた池田潔教授(一九〇三‐一九九〇)に『自由と規律―イギリスの学校生活』(岩波新書・初版一九四九)なる名著(と私は思っている)がある。
本書は平成二五年(二〇一
三)現在で一〇四刷発行となっている。堅い本にしては凄い刷数である。
池田教授は本書の「序」において自己紹介を行っているが、それによると教授は中学を終わらずにイギリスに渡り、パブリック・スクール(日本の中学・高校に相当)のリース・スクールに三年、ケンブリッジ大学に五年、そしてドイツのハイデルベルク大学に三年在籍した方である。
在籍の時期は第一次世界大戦の後始末が終わらないうちから満州事変の直前までとされる。パブリック・スクールはイギリスの支配階級の子弟の教育機関であると目されており、生徒の年齢は一二、三歳から一八、九歳、在校期間は四年ないし六年となっている。
さて、池田教授がそのパブリック・スクールの生徒であったときに次のようなことが起こった。
ピアノが得意だが数学が苦手な生徒にたいして、数学の教師がピアノの練習時間を割いて数学の勉強に当てるように忠告したことがあった。生徒は一三、四歳であったが、教師にこう言ったという。
「数学の勉強が足りないと仰るのなら数学の教師としてごもっともなことであり、謹んでお受けする。しかしピアノが正当な課目であり、自分が数学の時間にピアノを弾いた訳ではないのだから、自分のピアノの練習はピアノ教師と自分との関係の問題であり、数学の教師である貴先生の関知するところではない。自分には筋の通らぬ指図を受ける必要はなく、無用の干渉は迷惑だからお控え願いたい」と。
これにたいして教師は直ちに謝って話は一件落着となったが、池田教授は相手を怖れず信ずるところを述べて憚らない少年の態度と、面子に拘って非に固執しない教師の男らしさとに驚いたという。
そして、少年が教師にたいしてこのような態度がとれたのは、教師が自分の誤りに気がつけば釈然とそれを認めるであろうことをあらかじめ知っていたからであり、抗議しても自分が不利を蒙らないことを判っていたからであろうと、池田教授は述べる。
さらに教授は、少年がそのような言動に出たのは、彼がそのような「空気」の中で育ったからであり、自分が特別な行動をとったとは考えていなかったに違いない。
続いて「それとは異った「空気」の中に育った東洋の留学生の頭にだけ、それが出来事として印象され、四半世紀を経てもなお忘れられないというに過ぎない」と結ぶ。
先生にたいして生徒が堂々と文句をつけ、先生がおのれの非を認めて謝るという事態は、わが国の現在の中・高校において、はたして見られるだろうか。
この問題はイギリスと日本の「空気」について考える上で極めて重要であるだろう。ここでの「空気」をさしずめ「文化」と言い換えることも可能ではあるまいか。
ここでの文化とは、その社会がもつ「思考と行動の様式」としておこう。文化人類学の考え方に近いフレームワークである。
一、「空気」とは何か
空気とは何かについて『広辞苑』を捲ってみると、「@地球を包んでいる無色透明の気体。Aその場の気分。雰囲気」とあり、例として「険悪な空気」を挙げている。
空気がなければ生物は生きてゆけない。呼吸ができないからである。この空気は@に属する。これにたいして「険悪な空気」は人間にとってない方がいい。「良好な空気」とは反対の位置を占めるだろう「険悪な空気」はAの意味の空気を毀すはたらきをするだろうからだ。
『朝日新聞』の「天声人語」が「空気」について興味深い記事を載せている(平成二七年九月二六日)。
新国立競技場の建設計画は周知のとおり甲論乙駁を重ねたのちに白紙撤回されたが、その議論にあっては、すべての重要な決定が、「やむをえない」という「空気」を醸成することによって行われていたのだという。
この「空気」は「何となく何物かに押されつつ、ずるずると」という状況を意味する。
「何物かに押されて、ずるずると」という文章は、政治学者の丸山真男氏が敗戦直後に執筆した本に出ている。
丸山氏は太平洋戦争に突入した際の日本の指導者について論じているのだが、ナチス・ドイツの指導者は開戦への決断をはっきり意識していたのにたいして、日本では我こそが戦争を起こしたという意識を持つ指導者がいなかった。
だから日本では主体的な責任意識が成立するのが難しいのではないかと断ずる丸山氏は、こうした政治のあり方を「無責任の体系」と呼ぶ(『丸山真男全集』第三巻、岩波書店一九九二)。
「やむをえない」という「空気」は実際太平洋戦争中の指揮官の判断をも左右していた。
アメリカ軍の激烈な攻撃力によって押し詰められた日本軍が最後に採った手段は「特攻」であった。特攻とは「特別攻撃」のことであり、特攻隊の隊員はみずから操縦する戦闘機に魚雷または爆弾を積んで相手の艦に体当たりし、自爆を遂げることである。
特攻については栗原俊雄著『特攻―戦争と日本人―』(中公新書、二〇一五)に詳しい。
ここでは「空気」についてだけ触れよう。
一九四四年(昭和一九)九月、ときの連合艦隊司令長官 豊田副武海軍大将はフィリピンで戦っていた大西瀧治郎海軍中将と会った。このとき日本海軍航空隊では、ベテラン飛行士はほとんど戦死し、訓練不十分の若者だけしか残っていない状況下にあった。
大西氏は豊田氏に言った。「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山いる。こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」と。大西は続けた。「しかしこれは上級の者から強制命令でやれということはどうしても言えぬ。そういう「空気」になって来なくては実行できない」(八九頁)。
ここでも若者を死に追いやるためには「やむおえない」という「空気」の醸成が不可欠であったのである。
評論家の山本七平氏はかつてかく述べていた。「「空気」という言葉は一つの絶対的権威≠フ如くに至るところに顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。「非難はあるが、当時の会議の空気では……」、「議場のあのときの空気からいって……」、「あの頃の社会全般の空気も知らずに批判されても……」、「その場の空気も知らずに偉そうなことをいうな」等々々」(『「空気」の研究』文春文庫、一九八三)。
日本人がよく用いる「空気」について、山本氏の記した事例に頷く人は決して少なくはあるまい。
二、仏教者(宗教者)にとっての「空気」
山本七平氏が『「空気」の研究』を刊行してから約三〇年が過ぎた。氏が「空気」という言葉に籠めた「驚くべき力」は今日の日本でどのような役割を果たしているのであろうか。
さきに私は「空気」を「文化=その社会がもつ思考と行動の様式」と言い換えることも可能であろうとした。さらにくだいて「社会的な雰囲気」とすることもできよう。
以下では戦後七〇年の間に仏教者と仏教教団が示した主な行動について概観しよう。
資料は宗教紙『中外日報』が特集した「戦後の宗教界」(全四頁)である。
昭和二〇年(一九四五)八月一五日のポツダム宣言受諾は、負けることを薄うす感じていた日本人にとっても驚天動地の大事件であった。
八月一五日、まさに敗戦当日に文部省は各宗派管長にたいし、「聖旨」に従い教師・信徒に指導するよう訓令を出している。「聖旨」とは昭和天皇の「大東亜戦争終結に関する詔書」に示された内容を意味しよう。
同二八日には本願寺派勝如法主が門末にたいして「承詔必謹」の下、国体を護持し奉り、新しき日本の建設に報恩感謝の懇念を」との「消息」を発布している。
「承詔必謹」という語は多分戦中語であり今日では辞書にも出ていないが、「天皇の仰せに従って必ず実践する」ということであろうか。
昭和二一年(一九四六)一月三一日には、本願寺派が戦争に関係した法規を全面廃止している。そして翌二二年五月五日には築地本願寺において全日本宗教平和会議を開催し、宗教平和宣言を決定した。
戦時中の本願寺派は親鸞聖人の著書などに不敬と見なされる字句があるとこれを削除し、加えて聖人の神祇不拝の教えに反して、宗門寺院に神官大麻を奉安するよう指示を出している。時代の「空気」を読むのが実に速くかつ適確であるのに驚く。
宗門内にはきっと「時流」を読むのに鋭敏な人物がいたに違いない。
もっともこれはなにも本願寺派に特有の事象ではなく、どの宗門も時代の情勢には抗えず「ずるずる」と戦争に加勢していったように思う。
昭和二五年六月二五日に朝鮮戦争が始まり、この頃から日本の経済・景気が急上昇したとされている。朝鮮戦争景気と言われた。
この年以降目立つのは、各教団で、もしくは合同主催で「戦没者の追悼と平和を祈願する集会」が増加したことである。
一月一六日には神・仏・基合同主催の「在外死没者合同慰霊祭」が日比谷公会堂で営まれた。
「戦陣に散り戦禍に斃れた人びと」という表現はこの頃より広く使用され、今日に至っているように思う。
戦後一五年目の昭和三〇年(一九五五)には、厚生省主催で南太平洋における戦没者遺骨追悼式が日本青年館で行われ、続いて日本宗教連盟等の共催で合同慰霊祭があった。
本願寺派と並んで戦争反対・平和希求の運動に熱心だったのは日蓮宗である。
同宗は昭和三四年(一九五九)八月に戦没者追悼法要を千鳥ケ淵戦没者墓苑で営み、三六年八月には米ソ両国に核実験停止要望書を出している。
全日本仏教会(以下全日仏)の活動も目立つ。全日仏は昭和三八年(一九六三)八月に、南ベトナムの仏教徒弾圧にたいし大統領に抗議書を出し、四〇年(一九六五)三月には、ベトナム戦争犠牲者追悼法要を営んだ。
昭和四〇年代には靖国神社法案に反対する運動が本願寺派、大谷派、全日仏に目立つ。
この傾向は平成時代に入っても変わらない。
曹洞宗は『中外』の「戦後の宗教界」にあまり顔を出さない。他宗・他派のように「空気」に敏感でなかった故であろうか。唯一目立つのは、平成四年(一九九二)の『曹洞宗海外伝道史』に民族差別表現があるとしてこれを回収・破棄し、戦争協力にたいする責任を認めた「懺謝文」を出したことである。
平成六〜七年(一九九四〜五)には、太平洋戦争五〇年になるため、浄土宗、本願寺派、大谷派、真言宗、日蓮宗などが全戦争犠牲者追悼平和法要、戦争への懺悔、不戦決議などを行っている。
平成一〇年(一九九八)五月には本願寺派がインド、パキスタンの首相宛に核実験への抗議文を送った。同一三年(二〇〇一)一月一日に浄土宗は「二一世紀劈頭宣言を発し、国家間の対立などを解消し「共生」を目指せと強調。平成一五年三月に米英軍のイラク攻撃に際しては大谷派が攻撃前に、そして後には各派も反対表明をした。
平成二七年(二〇一五)六月には、大谷派宗議会が戦後七〇年を機に改めて非戦を誓う「非戦決議」を採択。
六月九日、衆議院本会議で「安保法案」が強行採決されると、大谷派、妙心寺派などが抗議声明を出した。また各教団が長崎、広島などで戦争犠牲者の慰霊・追悼法要を営んだ。
以上、紙幅の都合もあって端折りにはしょった「仏教者と「空気」」論をものしてきたが、不十分であることを認めざるを得ない。
ごく大雑把な言い方をすると、仏教者・宗門(宗派)の動きは、新しい「空気」を「創り出す」というよりは「時の」空気に乗っかり適応するという性格を示しているようである。
時流に敏感に反応するのと、鈍感に対応するのとの差はあれ、概して諸教団の対応の仕方は時代の空気にたいして能動的であるより「受動的」であるかに見える。
今この国は右傾化の歩みを強め、何やらきな臭い空気を醸しだしている観がある。『朝日新聞』によると「文化の日」を「明治の日」に改めようとする祝日法改正運動が一部で熱を帯びてきているそうだ(一〇月二二日夕刊)。戦前の国家神道的な社会を目論んでいるのだろうか。一一月三日の菊薫る日は「文化の日」と呼ぶ方こそが相応しいではないか。
世間の「空気」が争乱よりも和平を願い続けるようにと、今日こそ仏教者は声を大にして語り、説き、かつ行動すべきときではないか。右寄りの空気が「何物かに押されて、ずるずると」強まり、人びとが「やむを得ない」と感じだすことのないように、お互い十分に留意すべき時ではないか。
釈尊の言葉、「すべてのものは暴力に脅え 死を恐れる わが身にひきあてて 殺してはならない 殺させてはならない すべてのものは暴力に脅えている すべての生き物にとって 生命は愛しい わが身にひきあてて 殺してはならない 殺させてはならない」(『ダンマパダ』一二九、一三〇)。