丸山劫外師インタビュー
『修証』のこと、住職として思うこと

――聞き手・藤木隆宣

丸山劫外
(まるやま・こうがい)

昭和21年12月8日 群馬県水上に生まれる。
昭和42年 早稲田大学教育学部入学 シナリオライター才賀明の内弟子となる。
映画研究会、馬術部 楽馬会に入る。
昭和47年同大学卒業。同年、韓国に旅し、ソウルから海印寺、釜山 戒厳令下の韓国、海印寺で、かつてここで僧侶であったと、突然、そのような思いに至る。
昭和48年 「仮面ライダー」96話 丸山文櫻のペンネームで脚本。
同年四国参りで出家を勧められる(徳島、高知の2か国を行脚の後、奈良県三松寺で修行)、永平寺御授戒につく(佐藤泰舜禅師)昭和49年 無量寺(青山俊董老師)、安泰寺(内山興正老師)にて修行。
昭和49年〜54年、次兄の会社、設備設計の信和設計(株)代表取締役として、家族の借金を返すために奮闘。
昭和54年〜56年 寄せ芸人二代目柳家紫朝師匠と結婚。離婚後、三カ月インド、香港、タイ・バンコック、オーストリア・ウイーン、グラーツ等一人で歴訪、ギリシャに一カ月滞在後、出家を決める。
昭和57年6月 東松山市浄空院浅田大泉老師のもとで出家。9月 愛知専門尼僧堂安居。10月 長野増泉寺浅田泰徳老師のもとで立職。
昭和59年7月 愛知専門尼僧堂送行
平成9年 駒澤大学仏教学部入学。平成11年駒澤大学大学院修士課程入学。
平成16年 駒澤大学大学院博士後期課程満期退学。
本師余語翠巖老師の遺稿集を編輯・出版、平成16年〜22年曹洞宗総合研究センター宗学研究部門研究員。
平成24年 所沢市吉祥院住職就任。檀家さんの教化や寺院経営などを勉強中

生を明らめ死を明らめるとは

【藤木】 このたび、『曹洞禅グラフ』に連載していただいた『修証義』解説が単行本として刊行されることになりました。これは連載中から好評でございまして、こういう解説は初めて読んだとか、途中で読んだ読者からはバックナンバーがほしいとか、その辺は、読者の生き方の中で感ずるものがあったと思うんですね。そこで今日はまず『修証義』のお話あたりから始めてはと思います。

【丸山】 好評をいただいたということ、また本になるということは大変ありがたいことですけれど、私はまだまだ未熟で、実はこの『修証義』の第一節、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」、「生死即ち涅槃と心得て」という、ここが一番私にとって難しいです。それはずっと思っていて、ここさえ分かれば、何とか僧侶になれたと言えるのではないかとさえ思っています。やっぱり生死を、生き死にを明らかにする、命を分かるということが一大事因縁だと思っています。
 これが分かれば悟れるといいますか、悟りはないと言う人がいますけれど、道元禅師樣は、悟りはあるとおっしゃっておられます。中国の禅僧の語録や史伝を読んでいますと、必ずと言ってよいほど「省」有りということが出てきます。省(さと)りありですね。臨済宗のほうでは印可証明という事を言うようですが、曹洞宗では深く学んだ方ほど悟りはないよとおっしゃいますが、未熟な修行者が「悟り病」に陥ることを心配なさっておっしゃっているのではないかと思います。道元禅師ご自身は悟ったとはおっしゃっていませんが、「悟りあり」とお書きになっていらっしゃいます。
それは「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という、この言葉で非常に強く思います。このことが分かれば、本当にこの生死をあきらめることこそ、まさに一大事因縁、悟り(私は覚りの字のほうを使いたいのです)を開くきっかけではないかと思います。
 もし、生きっきりだったらどうか、死にっきりだったらどうかと考えてみたら、人生は少しも輝きがないと言ったらいいでしょうか。命はありがたくも何ともないと言ったらいいでしょうか。また生と死と対立するようにとらえるのではなく、生と死と一つということではないでしょうか。生きることを有難いというなら、死ぬことも有難いのだということをこの頃は思っています。
輝くという言葉はちょっと抵抗があるというか、難しいところですね。輝くというのを間違うと、例えば芸能人になってキラキラすることを連想してしまう。

【藤木】 あるいはお金がたくさん入って、楽に人生が送れるとか。一般の方々にとっては多分そうでしょうね。

【丸山】 輝くということはそうではなくて、しみじみと内なる何か、それが現れてくる。ただ外面がきらびやかであるということとは当然違いますね。阿弥陀様の光背、仏様の光背というのは内側から発している、隠しようがなく出ているのであって、表面だけがキラキラ輝いているのではない。それが誤解されやすいのは、あるいはテレビがお茶の間に入り過ぎたことによる罪かもしれません。もちろん功罪ありで、功もありますよ、テレビのおかげでいろんなことを知るという功もありますが、若い人たちがコツコツと生きる生き方を振り向きもしないで、安直に走っているように思えてなりません。
 本当の芸人さんはコツコツと修業していますね。例えば、私も落語界の方々と縁がありますけれど、その方々がどんなにコツコツと努力なさっているか。一朝一夕にはいかない世界です、まさに「芸を磨く」「芸は磨かれる」そして輝くということですよね。

【藤木】 テレビに映るのは上手でも下手でも、その一番いいところをぱっと出しますので、努力の過程は見せてくれませんね。

【丸山】 そうです、見えないところでどれだけ努力しているかということ、本当に思います。何かなし遂げている人は、見えないところでどれだけ深くやっているか、そこが分かるようになってくると、自分の人生がだんだん面白くなる。そこからがスタートじゃないかなと思いますね。

大内青巒居士のこと

【藤木】 その「修証義」ですが、明治時代から随分批判をされてきたとのこと。

【丸山】 そうですね、やっぱり坐禅のことが書かれていないことが一番の問題視されるところだと思います。でも、私はこの『修証義』解説を書き終わりまして改めて考えたことは、坐禅のことが書いてなくて、これで良いのではないだろうかということです。よくご存知のように、難解な道元禅師の『正法眼蔵』のエッセンスを、僧侶でない方々でも少しでも理解できるようにと、大内青巒〈おおうちせいらん〉居士によってまとめられたものが『修証義』です。だからもともと、在家の方々を対象にした経典なのですね。それをさらに、当時の永平寺貫首・滝谷琢宗〈たきやたくしゅう〉禅師と總持寺貫主の畔上楳仙〈あぜがみばいせん〉禅師とによってさらに検討され、明治二十三年に『曹洞教会修証義』として公布されたわけです。
 ところが、滝谷禅師が亡くなられた明治三十一年にはすでに批判が公けになされています。『修証義』なるものはその根底より破壊すべき、などと書いた論文もある。でも私は、お二人の禅師様が修正されたときに坐禅のことをお入れにならなかったのは、そこに何かお考えがあったと思っているんです。

【藤木】 そうですね、そういう気はいたします。

【丸山】 私も最初は、坐禅のことが書いてない、これは曹洞宗のお経としては、おかしいのではないか。道元禅師は坐禅こそが大事だと、正法の根本は坐禅にありと言われた。修証一等というのは、坐禅を修行しているところに悟りが現われているといいますか、坐禅の姿そのものが悟りだというぐらいの教えなのに、坐禅のことが入っていないのはおかしいと思いました。けれども、『修証義』解説を最後まで書かせていただいて、曹洞宗の教典として大事にしたいと強く思いました。また、坐禅が大事だということを強調すべきという場合、そのような趣旨の経典を作成しては、どうかと、こう思うようになっています。
 やはり救ってもらいたいのは、僧侶よりも在家の方々です。僧侶は自分で一生懸命修行できます。いくらでも仏教を学ぶチャンスはあります。それが、在家の方々にとって、よすがというものは、『修証義』が一番でしょう。ですから、在家の方の信仰を深めていただくために、これからも説いていくべきだし、道を究めた老師様たちに説いて頂きたいと思います。解説者として本当に私では十分ではないので、、もっとよく分かっている方々に、『修証義』を、批判するよりも大事にして頂きたいと、『修証義』の解説が終わった今になって思います。
 大内青巒という人は一度出家していますね、お考えがあって還俗なさり、のち東洋大の学長にもなりましたが、仏教の大衆化と社会福祉につとめ、言論界で活躍なさいました。宗教法人の中の一僧侶という枠を外して自由に仏教と取り組みたかったのだと思いますが、宗教的天才という言い方を許してもらえるならば、そうだと思います。本当の宗教家であり、人々を救いたいという熱い誓願があったと思います。
また、「禅戒一如」とか難しいことを言いますが、『修証義』は戒は説いています。ですから『修証義』は「禅戒一如」だからよいのだということを言ったりします。「禅戒一如」という考えは江戸宗学から出てきた理論ですが。



腐らずに生きれば道は開く

【藤木】 『修証義』から離れますが、住職になられてからのお話をうかがいたいと思います。ここ武野山吉祥院は宝暦八年(一七五八)開山の由緒あるお寺とのこと、まずここに入られたいきさつあたりから。

【丸山】 たまたま、この寺で住職を募集していまして。

【藤木】 住職の募集ですか。

【丸山】 そうです、ここの前住職は東京のお寺に住んでいまして、ここは兼務寺でした。それで同じ組寺の教区の人に、誰か吉祥院の住職になる人はいないでしょうかと声をかけていたのだそうです。その教区の尼僧さんが、駒澤大学の石井修道先生のゼミで一緒だったものだから、「丸山さん、所沢の寺で住職を探しているけど、なる気ないですか」と一声声をかけてくださったのです。所沢といえば兄が住んでいます。正直言いまして、母親思いの兄のためにも、母は私が引き取っているのですが、母の最期には間に合わせてあげたいという思いもありまして、心を動かしたのがはじめです。どのようなお寺か全くわかりませんでしたが、私ではいかがでしょうかと名乗り出たわけです。
 ちょうど私が『曹洞宗報』の巻頭言などを書かせて頂いたり、「中外日報」に連載記事を書かせて頂いたりしていた時でしたが、このお寺の先々代である山根壽隆老師は、ご覧になっておられたようで信頼してくださいました。すでに若くはないのですが、そのことも「丸山さん、吉祥院の開山様もかなり歳をとってから、吉祥院を開いているのだから、問題はありません」ときっぱりとおっしゃって励ましてくださいました。また勿論先代のご住職も認めてくださって、この縁ができたということですね。とにかく、私は引退して楽々生きようと思っていたところに、ここの縁をいただいて、やっぱり僧侶としてもう少し頑張ってみようと思ったわけです。
 実は、この寺に、私が住職候補として名乗り出る前に、候補になった方がお一人いたということ、それを後から知りました。たまたまこの組寺のいろんな仕事でその方と会うことになって、こんなに爽やかな青年僧がどうしてここを断られたのかと、すごく疑問でした。私よりも適任ではないかと思ったほどの方です。しかし、この方は、丸山さんになってよかった、自分には縁がなかったと思っていますなどと言ってくださって、その感じが清々しいのです。その方はその後間もなく、別なお寺のご住職になりました。千軒近くも檀家さんのある大寺の住職です。ですから、その人はここを断られたことによって、別の道が開けたわけです。別の道が開くために、こちらは閉じたのかもしれません。その方は、いつも爽やかでしたし、今ももちろん爽やかです。自分の思うとおりにならないと、腐ってしまって、ごねたりする人が時にいますが、潔く自分の状況を受け入れた時、別の道が必ず開けるという事を私は常々思っていますが、この方はまさにその通りであることを見せてくださいました。

【藤木】 なるほど。そこが大事なところですね。

【丸山】 別に大寺の住職になったからどうということではないですが、そういうふうに、その人に合った道が開けてくるのではないでしょうか。どんなことがあっても、誰にでも、自分に開いた道が自分に合った道ではないでしょうか。縁ですね。その縁から逃げようとするよりも、開いた縁はいかに困難でも受けて立って行く、ということも大事だと思っています。
いつも言いますが、例えば恋愛でも、同じことです。私も恋愛もしたり失恋もしましたが、失恋したことは、その人には向いてなかったということです。かえって、その人と結婚しなくてよかったといえるかもしれません。
 就職についても同じことが言えると思います。希望した会社に合格しなくても、それは自分に向いていなかったと思えばよいのではないでしょうか。ただ、試験を受けるまでは努力しなくてはと思います。あとは天任せ、「人事を尽して天命を待つ」、素晴らしい言葉だと思います。天命が開かなかったら、これは他が向いていると、ここは閉ざしたと、こう思って、次に向かって努力すればよいのではないでしょうか。長い目で見たときに、閉ざされた道と開いた道がよく見えるようになります。
私は今、お寺にとっても重大な問題を経験しています。ある若者が、一度得た権利にしがみつき執着していて、信頼を築くことのほうに尽力しない姿を見させてもらいました。閉じた扉を無理やり開けようとするよりも、潔く踵を返して振り返ったら、他の道が必ずその潔さに感応して開けるというのに、執着は、残念ながら、他の道に通じる扉さえ閉ざしてしまうことでしょう。
権利の主張よりも、信頼を築くことに努力し、潔く生きる、清々しく生きるということは、若い人たちに、ぜひとも伝えていかなければならないメッセージだと思っています。

葬儀にそれほど費用がかかるのか

【丸山】 私、住職になりまして、大変勉強になりました。まず自分一人では何もできないし、自分一人でやっては駄目だということです。常にみんなと話し合う。この寺に入ってからわずか三年ですが、総代会が何回あったか、五十回以上ありますね。もう話し合い話し合い、ずっと記録も取ってあります。私がやりたいことも、皆さんのバックアップがあって初めてできます。檀家さんも反発をしないで受け入れてくださる。さきほど言ったように、この寺は兼務寺で無住に近かったものですから、その分、総代さんたちがしっかり守ってくれていたわけです。
 今は皆さん、総代さんの二代目になっています。初代の総代さんたちは、いわゆる昔風で、頑固一徹という感じでこの寺を守ってくださったようです。それを受け継いだのが二代目の人たちで、このお寺は総代さんも世襲制みたいな感じですが、親から言われて、やっぱり自分たちがこの寺を守るという、そういう気概があるんです。残念ながら、私がここに入って二年目に総代長さんがお亡くなりになられました。この方は本当に自分がこの寺の総代長として全責任を持って守ってきたという感じの方でしたね。頼りにしていた総代長さんでした。
 総代長さんのお葬式をあげるのは、辛いことでしたが、吉祥院でご葬儀をできるようになったのは、総代長さんのお蔭です。ご自分のご葬儀をここでやるようにという総代長さんの遺言がありましたので、その後は、ほかの檀家さんたちも、ここでご葬儀をしていいですよということが言えるようになりました。
私、葬式仏教と言われていることに、反対というか、反発といいますか、何かちょっとおかしいのではないかという考えを持っています。葬儀屋さんに払うお金とお寺へのお布施を一緒にしてしまって、葬儀には莫大な費用が掛かるというイメージを皆さんが持っているということですね。
 僧侶がそんなに法外なお布施をはたして要求するのでしょうか。自分もここの住職となりましてから、そんなひどい金額を要求することは絶対ありません。この間も生活保護の方に頼まれて、もうそれはいいですよと、交通費だけ頂けば結構ですと申し上げた。そんなですからね、法外なことは言いません。それでもちゃんと檀家の方々は、お寺が維持できるようにと、それなりにお布施をくださいます。
では、葬儀屋さんはどうなのだろうかということを考えました。この所沢の葬儀屋さんは皆さん、良心的です。

【藤木】 そうですか。でも、一般的には葬儀屋さんとお寺さんが一体となってやりますから、どうもその辺、お寺さんにたくさん入っていると思われているでしょうね。

【丸山】 実は最近の話ですが、新しく墓所を求めたご家族の奥さまがお亡くなりになりました。お寺をつかってもよいですよ、と言ったのですが、互助会に入っていますから、ということで、互助会が持っている東京の会館でご葬儀をなさったの。ですから、私は東京までお葬式に行きました。何だかお棺もすごく立派で、ああ随分すごいなあと思いました。ご主人はもう退職なさっていますし、参列の方も近親の方々だけでしたが、葬儀会館で働いている人の方がやたらに多かったくらいでした。それで、恐縮ながら、どのぐらいかかりましたかと聞いたんです。そういうことは普通聞かないものでしょう、初めてでした。実は私の母も数えの百歳ですから、もういつ何時葬儀屋さんの世話にならなきゃいけない時が来ると思って、思い切ってお聞きしました。なんと四百万円近くでした。私にはびっくりする金額です。
 その人もびっくりしたと言います。もし、僧侶も葬儀屋さんに依頼すると、私が頂いたお布施の倍と言われたそうです。
ただ、檀家さんたちにもわかっていただきたいことは、お寺を維持管理するには、相応の経費がかかりますし、僧侶も霞を食べては生きていけませんから、相応のお布施は頂戴いたします。
それと是非知ってほしいことは、キリスト教社会では「十分の一税」といって、お給料の一割は教会に納めている教会員もいますし、十分の一ほどでなくても、教会税は認められていて、毎月かなりの献金を教会にしているのです。ですからご葬儀のときに限って多額に納めなくても十分に教会は資金があるのです。また、葬儀場を使わないで、ほとんど教会を会場にしますから、葬儀屋さんに多額の支払いも生じないのです。
このようことも知ってほしいと思うのです。これはアメリカ人の友人から教えてもらって、私もはじめて知ったことです。葬式仏教という失礼な言い方をぜひやめていただきたい、と思いますし、そんなことを声高に言っている学者の人やいわゆる知識人という人たちもいますが、きちんとこのようなことを認識してもらいたいと思っています。

住職は寺の所有者ではない

【丸山】 とにかく、お寺は檀家さんと住職が守り合っていく大切な場であるということです。このことを本当にしみじみと思っています。それで檀家さんたちにも、お布施を頂戴する時には、大切に使わせていただきますと言っていただいていますし、勿論ご本尊様に差し上げてから使わせていただいています。本当に大切に使っていますが、だけど出るほうも目に見えてたくさん出ていくんですね、驚くほど。だから、お寺の建物はもうある程度できているし、お金は掛からないだろうと、もしかしたら檀家さんたちは思っているかもしれませんが、ところが、あちこちの修理やら植木の手入れやら、台風で瓦がとんでしまい、客殿の瓦を葺き替えたり、とにかくお金はたくさん出ていきます。
 そんなことをいちいち言ってもしょうがないことですけれども、そこは住職を信頼してもらって、お布施はそれなりに納めていただいて、みんなで守り合っていこうということです。その住職が信頼を受けるということがすごく大事ですね。この三年の間に、皆さんと培った信頼によって、実はここも三年目にして参道を拡幅することができました。ここは国道沿いであるけれども、入り口が狭くて分からなくて通り過ぎて行ってしまう。私も住職になりたての時には、つい通り過ぎてしまったことがありました。できれば塀も作りたいと思っていました。
 それが、たまたま寺の前の土地が売りに出るような事態になったので、これはこの機会を逃したら門前を広げるチャンスがなくなると思い、その土地の所有者は檀家さんでしたが、思い切ってお願いに行きました。その方にとっては、国道沿いの土地を国道沿いではない寺の土地と交換するというのは全く得な話ではありません。でも快く応じてくださって、そのおかげで願いのように目立つような白い塀をかけることができましたし、門柱も新しくすることができました。もとの門柱はひょろ長くて、頭上に帽子のような石が載っていて、地震のたびに倒れるのではないかと危険を感じていたんです。お寺の百年の計のためだと思えば、勇気もでます。
 とにかく住職は、決してお寺の所有者ではないということ、これを間違ったら檀家さんの信頼を受けないだろうと思います。しかし、それは自分が入ってみて、初めてこの一歩一歩が分かることであって、何でも具体的にならないと分からないことは多いですね。そして、人を立てるということの実際の学びにもなり、頭を下げるという実際の学びにもなります。自分個人のために生きているときは、やたらに頭は下げない、へつらわない、などと思って生きていられました。勿論へつらう必要はありませんが、お寺のためならば、頭も下げます。
それから、話は変わりますが、ご法事のあるたびに、その家の子供さんの名前から全部控えておいて、ここのうちにはこういう子がいるな、名前はこうだなと覚えています。

【藤木】 なるほど。過去帳でなく現在帳ですか。

【丸山】 はい。住職と檀家さんが本当に近づくために、そういうことは大事じゃないかと思うのです。法事を勤める場合もその家族はどのような家族構成かとか、もしかしたらなにか問題を今かかえているかもしれません。それぞれがどういう立場であるかということをわかるように努めています。ただし、根掘り葉掘り聞くような失礼はいたしません。感じ取るのです。そういうことはすごく大事だと思います。ただ型どおりの法事をするのではない。型どおりのお葬式じゃなくて、一人一人のお葬式、その人その人その家その家の法事と言いますか、僧侶として目の前の人を大事にすることを心がけています。それは私、住職になる前から心掛けてきたことで、実は亡くなられた長井龍道老師から教えていただいたことなんです。
 私はあの世のことを信じていますので、経験を通して「ある」と考えています。ですから、法事は大切だと思っています。だから私は、檀家さんの一人一人が歩んだ人生を思うわけです。この私と檀家さんが接する、表面的だけにではなくて、いつもその檀家さんがどんな人生を歩んできたかということを偲びながら接しているんです。
僧侶のお役は、真ん中にいて、仏界と現界の人々との間を取り持つ役と考えています。私が直接、あの世に行った人たちに語り掛けはできないと思っていますが、仏菩薩を通して、初めて伝えていただけるのではないかと思っています。

仏菩薩の世界と霊世界

【藤木】 それは檀家の方にとっては、大変ありがたいご住職だと思いますね。次の世に行く時に導師として、導き手として安心できる、信頼を得られるでしょう。

【丸山】 いえ、導き手とはいえませんが、ただ私があの世に行った時に、方丈さんにはあの時、話しかけてもらって救われたと、お一人にでも言ってもらえれば有難いと思っています。お経をあげる時も、私はあの世にお届けしますという気持ちであげます。
仏菩薩の向こう側にあの世の人たちがいるというよりは、こっち側にいるといったらよいでしょうか。

【藤木】 なるほど。ここからこっちですね。

【丸山】 ええ、あの世です。仏菩薩は仏界ですね。あの世という表現も難しい、霊界というか。過去世、現在世、未来世ではなくて、現在世におけるあの世といったらよいでしょうか。次元は違いますが。

【藤木】 表現すると難しいですね。またいろいろと異論が出てくる。

【丸山】 いろんなお考えがあって、とくに曹洞宗は霊を認めておりませんので。

【藤木】 認めてないですね。そういう霊界というか、そういうものを認めないと何のためにお経を読むのか、何のための仏行事か、実を言うと分からなくなってきます。

【丸山】 この世の人のための気持ちを休めるためと思っていたりもするのではないでしょうか。そうしますと、やらなくてもいいなどということを言う人さえでてきてしまいます。

【藤木】 そうなんです。だから、その辺が曹洞宗の教学的にも教化的にも弱いところと思っています。

【丸山】 他の宗派ではもっと強く、このことを平気で言うでしょう。これはもう少し理論的に話せるといいんですが、長井(龍道)老師はそれがおできになった。理論的なバックアップがないと、霊的な話はとても難しいですね。私は経験したから、表現はおかしいですが、やむを得ずそういうことはある、と肯定せざるをえないわけです。新宗教は多く霊能者という存在があって、その働きと信仰と結びつけている傾向がありますね。信者さんたちにとって、信仰に入りやすくもあり、教祖のほうでも導きやすいということもいえるでしょう。ただ私個人としては、坐禅をし、コツコツと地道に学んでいくことの方を選ばせてもらいましたので、霊能者にならないですんだといえますが。
 なんでもそうですが、自分の経験したことや、自分の考えを他人にわかっていただきたい場合、どういう角度から話せば少しは受け入れていただけるのか、これは霊的な問題だけでなく、すべてそうですよね。例えば自分よりも若くて経験不足の人を説得するような時、押し付けるように教えるのではなく、分かっていない人には噛み砕くように教えることも大事ですし、相手のプライドを傷つけるようなやり方、これはやってはいけないと思います。でも、すごくいい人であっても気がつかないところで相手に恨みをもたれることもあるでしょうし、こうすればいいと一概に言えないので、なかなか難しいところです。

僧侶になるまでの奇縁

【丸山】 奈良に大倭紫陽花邑というところがあります。そこに矢追日聖〈やおいにっしょう〉法主様という大霊能者がいらっしゃって、聖徳太子と年中霊界で会っているという方でしたが、多くの人を救った方でした。当時の奈良市長さんは鍵田忠三郎と言う方でしたが、法主様のことは認めていまして、市立病院をそこに建てたり、たくさんの福祉施設も市から委託されています。因みに私は若いころには鍵田さんの道場にも坐禅に通ったことがあります。
日本にはいろんなところに神社がありますが、神社には荒ぶる霊がたくさんまつられているので、荒ぶる霊の魂鎮めに日本全国を歩いていらっしゃいました。荒ぶる霊を抑えないと、その土地で争いが絶えないとおっしゃっていました。残念ながら平成八年にお亡くなりになりました。私の本師、余語翠巌老師も同じ年に遷化されました。
 ですから今、世界でこんなに争いがありますが、その各地の荒ぶる霊を抑えきっていないということかと思ったりします。抑えきるだけの霊能のある人たち、宗教者がいないということかなと思うんです。霊能者でなくてもいいけれども、そういうことを見通せる宗教者がいたら、例えばイスラムでも、荒ぶる霊を抑え、浄め、高め、救うことができれば、その土地は治められのではないかしらと思ったりします。霊能力の強い方は、多くの人を救っているのではないか、そんなふうに思うんです。日本が何とか保っているのは、その土地、その土地を治めてくださる神社があり、氏子さんたちが守っているからではないかしら、などと私は思います。こんなことをあまり普通考えないかもしれませんが、法主様のことを学んだものとしては考えるわけです。
 法主様をお訪ねした時、「あんたは先祖さんの願いで坊さんになったんやで」と言われたことがありました。

【藤木】 僧侶になろうと思ったのはその時ですか。

【丸山】 いえ、もっと前に、こんなこともありました。二十五歳頃、十五日間の旅行で韓国へ行きました。朴正煕大統領の戒厳令下のソウルです、サイレンが鳴ると、みんな建物の中へ入らなくてはなりませんでした、そういう時代でした。ソウルから、大邱(テグ)という町へ行き、大邱からバスで奥に入った海印寺というお寺にお参りに行きました。その時はまだ有髪ですし、お寺にあまり興味はありませんでしたが、ただホテルの人のすすめるままに行ってみました。伽藍の上の方に倉庫のようなところがありまして、僧侶が二人見張りをしている感じでした。私を見ますと、日本から来たのかと聞かれ、そうだと答えましたら、中に招きよせてくれまして、中に陳列してある版木を持たせてくれたんです。それは海印寺の高麗八万大蔵経の版木でした。今になってみれば、海印寺版八万大蔵経がどんな素晴らしいものか分かりますが、その時点では全く知りませんでした。
さらに、海印寺の境内を歩いているときですが、大きな石塔が二基ありまして、その下を通りましたら、石塔についている鈴が一斉に突然なったのです。私はその時、かつてここにいたことがあると突然思いました。デジャヴュというのでしょうか、私はかつてここの僧侶だった、そういう感覚を得たんです。その不思議な感覚は今でも忘れられません。四〇年以上前のことですが。
 その後、私がシナリオライターの修業をしていた頃ですが、『旅の重さ』という映画がありまして、その映画に触発されてお四国参りに出たのです。そこでお坊さんに出会いましたが、その人は私に、坊さんにならないかと勧めてくれました。その時は海印寺のことは忘れていたんでしょうね、別に坊さんになろうという気はその時はありませんでした。また話は飛ぶんですけれども。

【藤木】 はい。構いません。

【丸山】 僧侶になってから、新潟県の小千谷にある本家へお参りに行きました。その時に、お四国で坊さんにならないかとすすめてくれた人と同じ名前のお墓があった。卵塔ではなくて、自然石にその名前は刻まれていました。

【藤木】 その方は曹洞宗の方でしたか。

【丸山】 そうです、うちの本家も曹洞宗です。私は私の強い意志で出家したと思っていましたが、見えざる世界の願いもあって導かれたのだろう、と今では素直に思っています。

高齢社会を生きていくために

【藤木】 今は高齢社会ということで、私どももその中に入ってしまいましたが、お年寄りが老後をどう生きるか、その辺のことをお檀家にどんなふうにお話をされていますか。

【丸山】 老後の生き方ですね。私の本師の余語翠巌老師は口癖のように「余生なんておかしい、よく余生とかいうけれど、余った人生なんてあるのか」とおっしゃっていましたが、今、私も七〇を目前にして、そう思うようになりました。若いときには、特別気にしていませんでしたが、自分が年齢を重ねますと、余った人生なんてないな、ということがよく分かります。ですから最期の最期まで生き抜きましょう、などと言っています。いつ死んでもいいように、誠を尽くしていきましょうと、当然のことですけれどそんなことも話しています。お坊さんだけは「死」を話題にしても許される存在だと思いますので、いかに生きるか、いかに死んでいくかというようなことを話します。こんな当たり前のことです。

【藤木】 いや、大事なことだと思いますね。

【丸山】 さっき申しましたように、私の母も今、数えで百歳です。七十から私が引き取ったという形ですが、以前はよく食事を作ってくれましたし、本師亡き後、駒澤の大学院に入りましたが、その時は、中国からの留学生の友人の分まで、毎日お弁当を作ってくれられるほどでしたが、今は、ほとんど何もできなくなりました。自分で入れ歯を洗うこともできなくなりました。でもやっぱり、できれば子供と一緒に過ごせるほうがいいでしょう、最後まで話ができてね。ただ私、いつも言うんですよ。どうして私のように忙しい人間が引き取っていなくてはいけないのか、私しか人手のないところよりも姉や兄の家族のところのほうがよいのじゃないかと。でも、私のところの方がいいと言いますので、これが私に開かれた縁なんでしょう。この縁からは逃げられません。
 縁はもう閉じた、どうしても開かないという場合があります。そういう閉ざされたところでは切り替える必要があるけれども、どんなに大変で理不尽でも、開いたところからは逃げられない。というのは、その人がそれは乗り越えるべきというか、そこで勉強するものがいっぱいあるからです。私も母の老いた姿を見て勉強することはもちろん、自分が身にしみて分かることがいっぱいある。それはなかなか大変ですよ、まして老老介護ですから大変です。それからもう一つ、ここ所沢の土地ではみんな親を大事にするし世間体を気にする、この世間体ということが大事なのではないかとこの頃思うようになりました。実は。

【藤木】 私もそう思います。逆のことをおっしゃる方もいますけど、世間体でもって保たれる秩序もありますね。

【丸山】 はい。みんな世間体を気にして生きていくのは嫌だといいます。仲間はずれにならないように、村八分にならないように世間体を気にする。そういうことは嫌だというけれども、実はそのおかげで、どれだけ自分の暴走する生き方を止めてもらっているか。それは窮屈かもしれませんよ、時にね。けれども、それによって守られていることがいっぱいある。決してマイナスばかりではない。そういうことにふと気がついた時に、ああ、おかげさまと言えると思うんですね
 多くの理不尽と思っていたことに、有り難かったと言えるまで生きてもらいたいと思います。有り難かったと言える前に、理不尽な中で死んでしまってはもったいないじゃないですか。自分で道を閉ざさないで、その理不尽な道がその人に開いたならば、何とかそれを乗り越えて行く。それは乗り越えられる、だから開いたんだよと、こう思ってもらいたい。それを振り返った時に、ああ、有り難かったと。そう思えたならば、その後死んでもいいじゃないですか。自然の死ですよ。

【藤木】 これは大事なメッセージじゃないでしょうか。その辺が、みんなどうも閉ざしてしまうか、逃げてしまうか、どっちかになるような気がします。

仏教のプロとしての気概をもつ

【藤木】 お師匠さんはどなたでいらっしゃいますか。

【丸山】 東松山の淨空院の浅田大泉老師が得度の師匠です。浅田老師に厳しく仕込まれました。あんまり厳しくて逃げ出しました。というのは、草取りが大変だったの。私は腰を痛めてしまって、もう動けなくなったぐらい。ですから恐縮ながら、そんなに褒めた弟子ではないんです。そこを逃げ出しまして、尼僧さんの紹介で浦和に行ったわけです。でも、浅田大泉老師のご子息、今は淨空院のご住職をなさっている浅田泰徳老師にはずっと面倒をみていただいています。得度の師匠のところは逃げ出したにもかかわらず、法幢師である泰徳老師が面倒をみてくださって、ここに入るに当たっても力になってくださいました。だから縁というものは、ただ切っちゃ駄目だと思います。
 何でも切ればいいというものではなくて、方向転換はしても、今まで生きた人生をなしにするというわけではない。人の縁は大事にする。それはずっと生きてきてると思います。人脈といいますか、人の付き合いは大事にしていく。自分だけで生きているのではないという、当然のことですけれども、お世話になった人には感謝する。今の泰徳老師もそうですけれど、私は逃げ出したにもかかわらず面倒をみてくださった。老師は人間ができているといいますか、本当にありがたいなと思っています。嗣法の師匠は、總持寺の副貫首にもなりました余語翠巌老師です。老師のもとで一〇年間、導いて頂きました。

【藤木】 そろそろ時間になりますが、最後に付け加えていただくことがありましたら。

【丸山】 『修証義』について一つ申したいことがあります。この解説を書いていく中で、少しでも自ら命を断つ人にストップをかけたいと、そういう思いをいっぱい入れてあるんです。これを読んでくれて、思いとどまってくれれば有難いなと、そんなに具体的ではないかもしれませんが、この中にはずっとその思いをこめて書きました。
 それから、お金があるばかりが幸せなのでは絶対にない。これは本当にそう思いますね。
お金というものは必要な時には必要なように、めぐりめぐってくるものです。私はこれも経験として思います。私は家族のために、借金を背負って何年間か苦労したことがありますが、その理不尽なことから逃げない、これと戦う。というのは、それが私に開いた道だからです。借金を返し終わったところから、また新たな道が開けたわけです。実は不思議とそれからお金に困ったことがありません。
 お話がいろいろに飛んで恐縮に思いますが、とにかくお寺というのは、檀家さんと住職が力を合わせて維持管理していく宝だと思っています。お寺は宝である、そう思います。私は先代の子供でもなく、新参者としてこの寺に入りました。また、この地域にも、よそ者として入っている。それで皆さんに受け入れられていくのに、住職は自分が偉そうにしていてはいけない、あるいは偉いと勘違いする住職の方も中にはいらっしゃると思いますが、それは本当に気をつけなければいけないことです。住職は、仏法において檀家さんを導いていく、そのプロだと思います。
 例えば私は、農業は全然できませんので、農家の方のところへ行って、ちょっと聞きかじったことを分かったように言うことは間違いでしょう。だけど、私は仏教については一生懸命参究していますから、一応その点についてはプロとしての役を果たす。農家のおじさんは農業のプロです、そのお話には耳を傾ける。お菓子作りをしている人は、お菓子作りのプロです。そうして、みんながそれぞれの仕事を敬い合っていく。プロはそれぞれの仕事において人を喜ばせなくてはと思います。そういう点において、僧侶は決して一段上ではない、同じレベルだけれども、宗教者としてのプロである。こういう気概が大事だと思っています。今回は人類の滅亡について話せませんでしたが、私はいつもそれを見据えて、かつ任された一隅を守りきって死んでいきたいと願っているのです。