お盆の思い出

  駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹

「お盆」とは

 言うまでもなく日本人にとって「お盆」は「お正月」と並んでとくべつな国民的行事である。
 なぜ「とくべつ」かというと、この二つの行事の間は地方だけではなく大都市においても仕事が休みとなり、人びとは故郷に帰るのが慣行であり、そのため交通が渋滞をきたし、大きなニュースになるからである。
 周知のとおり、今日ではお盆は仏教(お寺)の行事であり、他方お正月は神道(神社)の行事であるとされ、お盆には死者・ご先祖を迎えて供養するのにたいして、お正月には歳神(歳徳神)の来訪を祝うものとされる。
 ところが古くはお盆もお正月もひとしく一家・一族の「ご先祖」をまつる機会であった。
 今日でも沖縄県では、島により多少の差異があるものの、お盆はあの世の人をこの世の人が招き、お正月は逆にあの世の人がこの世の人を招くときであるとして、特別な食物や供物をご先祖に捧げるところが少なくない。
 地方では今日でもふだんと違うご馳走がでると、「お正月とお盆が一緒にきたようだ」と口にするのは、両者の浅からざる関係を物語っていると言えよう。
 「お盆」の「盆」は物を載せる器を意味し、他人に物やお金をあげるときにはお盆に載せて差しだすのが礼儀であった。しかし、仏教でいう「お盆」はほぼ次のような意味をもつ営みである。
 「盆」は古代インドの文章語であるサンスクリット語のウランバナ(ullambana)の音写語である「盂蘭盆(うらぼん)」に基づく語(ことば)であるとされる。「ウランバナ」は「倒懸」(さかさ吊りの苦しみ)と漢訳された。
 「盂蘭盆」の語は『盂蘭盆経』に初出するとされるが、この経典をめぐって研究者たちの見解は一つではないようだ。最近では「盂蘭盆」の原語はイラン語系の死者を意味するウルヴァン(urvan)であり、霊魂の祭祀を指すとともに収穫祭を意味したが、イラン系のソグド人が中国に進出したことにともなって中国に伝えられ、稲作農業地域の収穫祭となったと考えられているようである。
 とにかく、この『盂蘭盆経』によると、釈尊の十大弟子の一人である目連尊者が、亡くなった自分の母が餓鬼道に墜ちて苦しんでいるのを目にし、釈尊に相談したら、釈尊は夏安居(げあんご)の最終日である陰暦七月十五日(自恣)に、修行者(仏僧)たちに食物などの布施をすれば、その功徳により母は救われるだろうと言われ、目連はそのとおりにしたら母は無事救いだされたという。
 この説話は「目連救母説話」として知られるが、肝心な点は陰暦の七月十五日に修行者(仏僧)に供養すれば、その功徳により死後に苦しんでいる人たちを救いだすことができるというところにある。



中国人と日本人、お盆に託した意義

 あらためて『盂蘭盆経』に説く陰暦七月十五日(自恣)について深めてみよう。
 アメリカの中国宗教史学者スティヴン・タイザー(StephenF. Teiser)は次のように述べている。要点のみ記す。
 一般に夏安居といえば、インド仏教の僧伽(仏僧たち)が春から夏にかけて約三カ月に及ぶ雨期のあいだ、外出が不便になり、また外出すると草木の若芽を踏みつけたり、虫類を殺傷する怖れがあるので、外出を避けて一カ所に定住し修行に専念することであると説明される。
 この制度は中国や日本の仏教でも踏襲され、夏安居、夏行、夏籠、坐夏などと呼ばれた。タイザーによると、夏安居は僧院と農家のサイクルが結びついていることを意味するという。
 夏期は植物と仏僧のそれぞれが、その可能性を発揮し力を蓄えるときである。そして秋の始まり、つまり陰暦の七月十五日の頃に、これら(仏僧と植物)の力が解放され、社会によって取り入れられるのである。
 お盆の時期において、農業の豊穣性と僧院の活力性(宗教性)とが結合するのだ。他方、中国の農民家族の生活にあっては、古来、死(先祖)霊を祀りその守護の下に農業の豊穣と多産を目指すのが常であった。ちょうど七月の半ば頃は農作物の成熟期にあたり、死(先祖)霊への感謝祭を行う時でもある。
 中国に定着した仏教は、夏安居についてはインド仏教の制度を踏襲したので、安居の終了、つまり自恣の日は七月十五日となる。
 この日には三カ月にわたる修行によって蓄えられた仏僧たちの「強大な威神力」がそのピークに達するものと信じられていた。
 中国の人びとは、仏僧たちに布施・供養することにより、彼らの「強大な威神力」を一族の死(先祖)霊に回向すると同時に、農作物の豊穣に感謝したのである。
 このように盂蘭盆会は、仏教の修行生活と農業の豊穣性、そして中国人の死(先祖)霊祭と農業の豊穣性とが七月という時期を介して結合した結果であるというのが、タイザーのお盆論である(『中国中世における死霊祭』、プリンストン大学出版会、一九八八)
 さて、日本ではどうであろうか。
 さきに、古くはお盆もお正月もひとしく一家・一族の「ご先祖」をまつる機会であったとして沖縄の事例をあげた。「古くは」というのは「仏教渡来以前」と言い換えてもよかろう。この二つのご先祖まつりのうちお盆の方が仏教の管轄となったのは、さきに述べた『盂蘭盆経』抜きには考えられまい。
 重要点は、陰暦七月十五日に仏僧に供養すれば、その功徳によって死者(先祖)を安んじさせうるというところにある。
 現在のこの国のお盆は、陰暦によるものと新暦に行うものとあり、同じ地域内にもヴァリエーションがあるようだが、東北の太平洋沿岸地域は概して八月盆が多いようである。
 お盆の期間は八月十三日から十六日までとするところが多い。この四日間に仏僧(住職と弟子たち)は檀家を訪ねて精霊棚の精霊に棚経を読誦する。
 棚経をした仏僧には応分の布施(現金)が渡されるが、その額が多いほど功徳があると、檀家の人たちは考えていたようだ。この考えは『盂蘭盆経』の説くところと一致するのではなかろうか。
 私が育った気仙沼市(当時は町)では、お盆の時期になると出稼ぎで他地域に行っていた人たちも家に戻り、食べなれた食事を摂り、数日間故郷の人に成りきるのであった。
 生家の人たちにとっては、出稼ぎの人が土産にもってくる品を頂くのが大きな楽しみであったようだ。
 昭和一〇年前後の東北の田舎は、今日と比べると驚くほど貧しかった。私が育った寺の周辺の家々はほとんどが農家であったが、家の次三男の多くは都市部や他地域に出稼ぎに行っており、遠く満州(現中国東北部)まで出かけた人たちもいた。
 その人たちが帰省すると必ずお墓参りをし、お寺に寄って挨拶するのが常だった。その人たちが語る外地の話は、六、七歳の子供にとってもたいへん興味深いものであった。とくに匪族とか馬賊と呼ばれる人たちに襲われ、命からがら逃げだした話など、今になっても忘れえないものである。
 東北地方も冬は寒いが、その人たちが語る満州の冬の気温は零下三〇度とか四〇度ということで、想像を絶する寒さであったようである。
 そのことは当時大人たちが唄っていた歌からも偲ばれた。歌の名はもう忘却の彼方にあるが、その内容は部分的に憶えている。
 「またも雪空 夜風の寒さ 遠い満州が エエエエー 満州が気にかかる」というもので曲は哀愁に満ちみちていた。

わが思い出のお盆

 私が物心がついて大人たちの話が分かるようになったのは五、六歳の頃ではなかったろうか。いまでも記憶に残っているのは、「盆がくる。忙しくなる」という祖父の言葉であった。
 その頃は八月盆であったから、祖父の言う「ボンガクル……」は七月末頃ではなかったかと思う。
 祖父の言葉が発せられると、小僧さんたちもお姉さん(女中さんと呼んでいた)たちも一斉に動きだした。本堂や庫裡の大掃除、庭や参道の草取り、須弥壇の飾りつけ、歴代住職の墓の掃除、そして盆棚の組み立てなど、寺の住人すべてが活発に動いた。幼児は私一人であったが「草むしり」の手伝いをしてお姉さんたちから褒められるのがとても嬉しかった。
 お盆の月には檀家の人たちも各自の墓を掃除にやってきた。その折、採れたての野菜や果物が「少しばかりだけんとも(けれども)」と言いながら寺に届けてくれた。
 寺の盆棚は本堂の玄関のところに組み立てられ、最上段には「三界万霊等」と書かれた大牌が置かれ、四方には四本の竹が立てられ、四方に張られた紐にはお盆旗と称する五色の紙旗が吊るされた。各段には大皿に山盛りにされた野の幸、山の幸が並べられた。普段とは大きく異なる寺の佇いに、心賑わい興奮したことは忘れられない。
 お盆には祖父も小僧さんたちも棚経に檀家を廻ったが、いつの頃からか私も一緒に廻った。お檀家さんから「可愛いお坊さん」と言葉をかけられると何だか偉くなったような気がしたものである。
 そのうち何歳頃のことであったか定かではないが、町の子供たちが私に付きまとって歩き、お経を上げている私の背後で「坊さん坊さんただ儲け」と囃し立てるのを耳にして、大変なショックを受けたことがある。
 寺に戻ってからもそのことは口に出せなかった。この屈辱感を克服するのには、かなりの時間を要したように思う。
 私のほかにも同じような体験を持った寺の子が少なくないと思うが、今ではその種の感覚をもつ必要は全くなかったと反省している。のちに宗教学や人類学を学ぶようになってから、「死者(先祖)を弔うこと」の社会―文化的意味を知ったからである。
 人類が死者を弔い始めたのは、約七万年前とされている。
 一九五〇年代にイラクのシャニダール地域の洞窟内に置かれた遺体には数種の花が供えられていたのが発見され、それが約七万年前のことだと推定されたのである(アルレット ルロア・グーラン『シャニダールのネアンデルタール人四号』)
 人類が猿類と根本的に異なるのは、人類が死者を弔い、葬儀を営むことであったのである。人間なるもの=人類の誕生であり、「宗教」という文化の成立である。
 死者(先祖)を崇拝し、棚経を読むことは人間であることの証左そのものであると言えよう。逆に言えば死者(先祖)を尊ばない人間は非人間的であるとさえ言いえよう。
 「ただ儲け」など、とんでもない誤解である。今日、社会のあちこちで非人間的な行動が見られる。皆が心配しているが、どうすればよいかの方途が見つからないのが実情だ。
 今こそ宗教(仏教)の出番である。お盆の機会に「死者(先祖)と自分」との「浅からざる関係」を説きかつ見直そうではないか。「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先やおらんど 盆が早よ来りゃ 早よもどる」(「五木の子守唄」)