最近のショッキングな話
――僧侶―社会関係に質的変化が生じているか――
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
東京近郊に住むある家族が最近営んだ、葬儀と埋骨をめぐる話である。
私の知己であるこの家族は、秋田市に住む資産家であったが、娘二人が東京で結婚し独立したので、秋田の土地を売却して上京、夫婦でマンション生活をしていた。在京歴約二十五年。
主人のKさんは仕事に就かず、専ら音楽の趣味に生き、妻は専業主婦であった。
Kさんは一流私大出のインテリであったが、どことなくニヒリスティックな思想の持ち主で、「おれは神も仏も信じない」が口癖の人であった。たいへんな酒好きでヘビー・スモーカーでもあった。
そのKさんが最近、食道癌のため亡くなった。享年七十八。
葬儀は「僧侶抜き」の家族葬で営まれた。Kさんの生家は臨済宗の檀家であったが、上京以来、寺との縁が切れていた。
夫の病状が悪化し、回復の見込みなしと判断した妻は、マンション近くの真言宗寺院が経営する霊園の墓を入手した。
夫の没後、葬儀の相談に訪れた葬儀社の社員は、妻と娘に次のように説いたという。
「葬儀にもいろいろありますよ。あまりお金をかけたくないということなら、お坊さんを呼ばないことです。お坊さんを頼むと、お通夜でこれくらい、葬儀でこれくらいが相場です。お坊さんは意味の分からないお経を唱えてそれでおしまい。それでも交通費を含めてこれくらいになる。それだけの額を払うなら、奥さん(妻)の老後のために備えたらいかがですか。近頃は坊さん抜きの葬儀を選ぶ人が多いですよ」
この説明に、まず娘が同意し、妻も従った。
葬儀はモーチュアリー・ホールを使い、家族と数人の縁者が焼香・礼拝するという形の地味葬であった。
春の彼岸の頃に埋骨を行った。
霊園の埋骨には僧を呼ぶ決まりになっているので、真言僧に読経をしてもらった。僧はくしゃくしゃの法衣姿で現れ、短い経文を唱えると、悔やみの挨拶もなく引き上げたという。
埋骨式に参列した長女は、母に向かってこう述べた。「お母さん、お墓を買っていたの。お金もないくせに。私たちもこの地にいつまでも住んでいるわけではない。転勤で遠くへ行ったら、墓参りなんてできないわよ。一年経ったらこの墓を売ってしまったら」。母は娘の文句を黙って聞いていたという。
「親も親なら子も子だな」。以上の話を耳にして、私が述べた言葉である。
ちなみにKさんの家には秋田から持ってきた立派な金塗りの仏壇があり、Kさんの俗名を記した位牌と遺影が祀られている。
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葬儀・葬祭の仕方に異変が生じていると報じられるようになってから、かなりの時が経っている。
メディアの情報によると、葬儀方法が多様化し、大都市では葬儀の規模が小さくなり、病院から火葬場、次いで墓地へという経路で済ます直葬が急激に増えるとともに、自然葬、樹木葬、友人葬、無宗教葬などと呼ばれる葬法が普及化しているという。
こうした多様な葬法は、さまざまな社会―文化的要因によって生じ、普及したと見られるが、とくに私が注目したいのは、現代人にとって「死」と「死後」についての伝統的な思想・観念が少なからず揺らぎだし、それゆえ拘束力を失いつつあるのではないか、という点である。
この仮説的な見方については、ただちに批判や反論が出されるだろう。第一にいわく、直葬や無宗教葬などは宗教浮動人口の多い大都市の現象であって、地方では伝統的葬法になお変化は見られない、と。これは大都市は変化しやすいが地域社会は持続性が強いという視点に立つ物言いである。
またいわく、「死」を悼み「死後」を重視し葬う文化は人類とともに古く、その古く根強い文化がそう簡単に崩壊するはずがない、と。これは古き伝統文化、つまり基層文化は表層的な変化にも耐えて持続するものだという文化観に拠る見解である。
さらに第三にいわく、「死」を悲しみ「死後」の安泰を願うのは人間らしさの証拠であり、もしもこれが失われるとすれば人間性にとってまことに由々しきことであり、それは人間が人間でなくなることを意味するのではないか、と。これは諸生物のなかで人間(人類)のみが「死」を問題にし、「死後」をめぐる他界観(念)を発達させた唯一の存在ではないかという、万物の霊長論的な発想に基づく考え方である。
いま、現代人にとって、「死」と「死後」についての伝統的な思想・観念にかなり揺らぎが生じ、その拘束力が失われつつあるのではないかとの仮説的な見解に対して、予想される批判・反論をとりあえず三つ挙げてみた。
この仮説的な見解とそれに対する三つの批判や反論は、はたしていずれが正しいか否か。学問的にはよほど慎重な検討を重ねないと帰結には至るまい。本文を読まれた方々には、ご自分の地域・社会において右に述べた見解とそれへの批判・反論が当をえているかどうかについて、ぜひ御一考をお願いしたい。
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さきに記したKさんの事例に戻ろう。Kさんと付き合いのあった私は、その葬儀が僧侶抜きで行われたことを耳にして、かなりショックを受けた。私には特別な例をのぞいて、葬儀というものは僧侶が介在して営まれる、あるいは営まれるべきことという、かなり牢固たる思いがあったからである。
人が亡くなったらまずお坊さんの都合を聞いてというのが、仏教国日本のいわば社会的常識であった。この常識がかなり前から崩れつつあることは、私もよく知っていた。
しかし、あの健実な家庭においても常識を超えた、あるいは超えざるをえなかったという事実の意味するものに、私は途惑ったのである。
僧侶の読経も引導もなしに葬儀を済ませるという遺族の意識を、どう考えたらよいのだろうか。世間から常に変わり者視されてきたような家族ならいざ知らず、少なくとも私の眼には社会的に分別のある普通の家族と映っていたのに、それが驚くような挙に出たのはどうしてか。
これはもしかすると「死者」と「死」に対する日本人の意識変化がかなり広がり、かつ浸透していることを象徴する事態ではないのか。「死んだらおしまいだ」「死んだらチャラだ」と捉える人々はこれまでもいたが、少数派に属していた。それがここにきて多数派化しているのだろうか。この疑問への答えは、先にも触れたように慎重の上にも慎重であらねばならない。
それは日本仏教ひいては日本宗教にとってきわめて重大な問題であるからだ。
そこでKさん一族が営んだ「僧侶抜きの家族葬」の背景・事情について、もう少し突っ込んでみよう。
まず、夫の死後に訪ねた葬儀社の社員が妻と娘に話した主な内容は、第一に葬儀のランクと費用の額、第二に意味のわからないお経を読んで済ます僧侶への批判、第三に節約した金を老後に備えることの大切さの三点になる。
この話に直ちに反応したのが娘(長女)である。彼女は経済的葬儀とお坊さん抜き葬儀に強く賛成し、母もこの意見に従ったということらしい。
長女はフランスに数年間滞在したことのある合理主義者で、母によると無意味な支出は絶対しないという人らしい。彼女は僧侶の読経を無意味と断じたのである。
二人の判断を決定づけたのは、葬儀社社員の「近頃は坊さん抜きの葬儀を選ぶ人が多いですよ」の一言であったようだ(妻の後日談)。「皆と渡れば怖くない」的な、日本人の態度決定の型に従ったというわけである。
それに生前の夫が「神も仏も信じない」と繰り返していたことも、二人の判断に影響したのかもしれない。
Kさんの家族による僧侶抜きの葬儀の経過を省みると、妻(母)と娘の考え方にはかなりの温度差がある。娘は、妻が夫のために購入した墓にも反対であり、一年過ぎたら他人に売るよう主張したからである。彼女は少なくとも現在のところ、「死んだらチャラだ」と考える一人であるといえよう。
妻は最近、実兄の妻の葬儀には遠方にもかかわらず参加した。そして彼女は、お坊さんの読経の声が素晴らしかったこと、お説教にも感銘を受けたこと、東京の真言僧(夫の埋骨式に依頼した)と比べて、お坊さんにもいろいろあると感じたことなどを述べた。
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右の事柄から、現代人の「死」と「死後」についての思想・観念に関して何が言えるか。私はKさんの葬儀を事例に、これは伝統的な「死―死後」観念がかなり揺らぎだし、従って葬儀をめぐる社会的拘束力が失われつつあることの証左ではないか、という仮説からこの文を始めた。
そのように仮設したのは右の一事例からだけではなく、数は少ないが葬儀を調査した結果や、いろいろなメディアの情報を踏まえてのことである。
Kさんの家族の執った葬儀の方法が直ちに右の仮説の正しさを証明することにならないことは、見てのとおりである。そこには母と娘の完全な意見の一致はなく、母は「近頃はお坊さん抜きの葬儀が多い」という葬儀社の言と娘の意見に従ったのである。母が「しきたり」を否定していないことは、彼女が兄嫁の葬儀に出席していることからも明らかである。
これに対して、長女はかなり「しきたり」から自由になっている人物であると言えよう。かりに彼女のような、ある意味で自然科学的・合理的な死生観を持つ人々が今後増え続けるとすれば、「死者は丁重に葬うべきである」という伝統的な思想・観念に「質的」変化が生じてくることは避けられまい。
親世代―子世代―孫世代により、生活様式や思考様式に変化があるのは当然だが、その変化が「宗教・仏教」の現実面にどう現れるか。僧侶―檀信徒の現状はどうか。現場の生の情報を寄せていただければ幸いである。
それにしても「意味も分からないお経を読んで……」という葬儀社社員の言葉にどう反論するか。「お経には力がある。死者が来世で安定するのにはその力が不可欠である」と力をこめて説けるかどうか。そしてこの言辞が人々の心を強く動かし、「そのとおり」との言葉を得られるかどうか。今、その検討が要請されている。