座談会 曹洞宗宗侶の存在意義とは?
《出席者》
大谷俊定(京都府・苗秀寺住職)
平和宏昭(兵庫県・琴松寺住職)
藤木隆宣(仏教企画代表・臥牛院住職)
宗教全般に向けられた不信感
【大谷】今、宗教というものを取り巻く環境が随分と変わってきている。宗教界そのものの中にいろんな新興教団ができて、その多くが宗教とはいえない営利団体として動いている。信者を一人でも多く集めて集金力をアップし、教団を大きくしていくということに目的があるように思われる。問題は曹洞宗をはじめ伝統教団もそうした風潮にどうも流されているのではないかということだ。新興教団というのはキャッチフレーズもあるし宣伝力も持っている。ところがわが曹洞宗にはそういうものがない。新興教団の跋扈(ばっこ)に手をこまねいて見ているしかないというのが、今の現状かなと思います。
その結果、一般の人々は新興教団が起こすいろいろな犯罪や理解不可能な教義にアレルギー症状を起こして、宗教というものは変な得体の知れないものであるという先入観を持つようになってしまっている。
【平和】それは戦後に育って、宗教教育を受けていない人たちが随分多くなったということが一因ですね。それから伝統教団の多くの寺院が営業感覚で行なっていることへの反発もあるでしょう。実際、われわれ曹洞宗の宗侶自身、葬儀・法事を自信を持ってやっていないから、葬式仏教と言われるのではないかと思う。亡き人に戒を授けるということの意味をよく理解し、自信を持って引導を渡すという教育が、とくに若い宗侶たちになされていない。シナリオを読んでいるだけだから感動を与えないのです。現実に即した教育が現代教学だと思うのですが…。
【藤木】実際、オウム真理教の暴走に対して、既成教団は何の対策も打てなかったということがありますね。これが非常に大きく尾を引いている。一般の人たちは、新興教団も伝統教団も区別がつかないから、押しなべて宗教というものは、なにか胡散臭いもの、危険なものと思うようになってしまった。われわれ伝統教団はその違いをしっかり訴えて、ほんとうの宗教とはどういうものかということを発信していかないといけない。
【大谷】それは、常に言い続けていかなければならないことだと思うんです。ところが、私が思うに、多くの坊さんが檀家さんあるいは信徒さんには裏切られるものだと思っていない。裏切られても裏切られても布教を続けていくのがわれわれの仕事でしょう。ところが、種まきをしても、いつそれが芽生えてくるか分からないから、そんな先の分からないようなことはできないというお坊さんが多すぎると思うんです。もっと長いスパンで考えて、みんなで布教の種を蒔いていかないといけない。
たとえばマザー・テレサという人が、なぜあのように宗教の枠を超えた皆さんから大切に思われ、評価されたか。私は、マザー・テレサはまさに布教ということの重要性を示したと思うんです。今の日本の仏教教団のやっていることは、布教活動じゃなく、営業活動に過ぎない。私たちが今、学ばなければならないことは、あのマザー・テレサのやったことだと思う。あの人は信者を獲得するために奉仕活動をしたのではなく、悩んでいる人、苦しんでいる人たちがあれば、そこにイエス・キリストの姿を見いだして、その人にご奉仕をしている。その人が亡くなった時には、イスラムの人はイスラム教で、仏教の人には仏式で葬儀をしている。その人の最期はその人の信じてきた宗教をもって見送るというのが尊厳なんですね。
それが今、功を奏してインドではクリスチャンが伸びてきている。マザー・テレサのやったことこそが本当の宗教活動であるし、布教活動であったと思うんです。それが評価されてノーベル平和賞を授与された。それに比べて、われわれの現状はどうでしょう。布教どころか、お金が入ってくることしか考えていない。
【藤木】たしかに、そういう傾向がありますね。
【大谷】私は、お檀家さんに対する布教の仕方と、そうでない人に対する布教の仕方とは、おのずから違ってくると思うんです。お檀家さんに対しては宗門のことについて、「こういうことですよ、こうしなくては駄目ですよ」と言わなくてはいけない部分があると思う。しかし、そうでない人たちに対する布教というのは営業であってはならない。そこにあるのは、純粋に一宗教者としての宗教行為でなければならないと思うんです。
参拝者も一緒にお経を読むようにしよう
【大谷】私は役目柄、会葬する機会が多い。そうするといろんなことが分かります。これは浄土真宗のケースですが、一時間たってもお経が終わらない。そうすると、四十五分過ぎたころから、「おい、今日は、えらい長いな」という声が聞こえ出す。次には、「いつまでやっとんねん」となって、しまいには、「あの坊主、ええ加減にやめたらええのに」、「もう帰ろうかい」ということになってしまった。出棺も見送らずにですよ。それで親族の人たちは会葬者に対して一生懸命頭を下げているわけ。亡くなった人にお尻を向けてですね。それが現状だということです。
【平和】私は法事の時は必ず経典を配って、参会者と一緒に読む。坊さんだけがわけの分からないお経を読んでいるのを聞かされているのと違って、みんなで一緒に読むととても喜ばれます
【大谷】そうなんだけど、私なんか住職したてのころ、それをやると他宗のお坊さんから電話が掛かってきて、「うちでもやってくれと言われて、お経の本を買わんならんから高くついてかなわん」とえらいお叱りを受けたことがある。それから法事の後にちょっと法話をすると、「このごろの若いやつは説教する奴がおって、ほんま年寄りの坊さんでもせえへんのに、生意気なやつがおって、しゃあない」と言われた。
【平和】ああ、それは私にも経験があります。
【大谷】私は、「あなたのところのお檀家さんに行ってしてるのと違う。うちのお檀家さんの中でやっているんだから、とやかく言われることはありません」と言って、ずっと押し通してきた。そしたら、このごろはお経の本を持っていきましょうというお寺さんが出てきたし、法話をする坊さんも出てきた。ありがたいなと思うんです。
【藤木】そうですね。われわれが気をつけなければいけないことは、葬祭を通過儀礼として執行するだけで、壇信徒、会葬者のほうに目が向いていないということですね。ろくにお話もしないで帰ってしまうのでは、布教にならないし、気持ちが伝わらない。
【大谷】道元禅師は常に無常、衆を忘るることなかれとおっしゃった。われわれは道元禅師の法孫として、どこの葬式でもいいから参列させてもらって坊さんとしてではなく、一会葬者として見させてもらう。そしてわが姿を振り返ってみて、喪主の人や、会葬している人たちがどんな思いでお参りしていらっしゃるのか知るべきでしょう。
ある会葬者にとっては義理で会葬しているだけで、一方、坊さんは取りあえず何十分間か勤めれば大枚のお金が入ってくる。布施が多ければほくそ笑み、少なければ何だと思う。そんな人情が渦巻いているのが、葬祭という場所でしょう。しかし、われわれはお参りの方々になんとかこちらを向いてもらって、できるだけ多くのこころのお土産を持って帰ってもらうように勤めないと、葬式坊主と言われても仕方のない存在になってしまう。
【平和】今、戒名をめぐっていろんな問題が起こっているのもそこなんですよね。故人は生前中こういうお方であって、こういう意味合いで戒名をお付けしました、その戒名のもとに出家受戒する葬儀を営み、皆さんに仏弟子としてご焼香していただくんですと、そういうきちっとした説明をすれば、満足される。戒名料が高いとかどうとかという問題ではなく、納得できればありがたいと思われるんです。それなのに、われわれ司祭者のほうに、確固とした自信がないから不信を招いてしまうんでしょう。
【大谷】葬儀と告別式はきっちり分けないといけませんね。葬儀はおっしゃったように受戒出家と言う宗教行事なんですから尊厳を持って、自信を持ってきちっとやらないといけない。葬儀が終わったあとの告別式をどうレイアウトするかということは自由ですから、そこで法話をしたりして、「今日のお葬式に寄せてもらってよかった」と、そういうふうな感動をもたらす告別式にしなければいけないでしょうね。
お坊さんという仕事はなぜ魅力がない
【平和】ところで、「仏教企画通信」3号に、あるご住職がこう書いている。「(最近の寺では)子どもに贅沢三昧をさせる。子どもは坊さんはもうかるということばかり覚えて、世間的な常識や責任感のない人間に育っていく」と。これは由々しい問題ですが、これが現実になってきているんですよね。世襲化が進んで、寺内が一般の家庭と同じになってしまっているから、親子でありながら師弟関係だという自覚がなくなってきている。
【藤木】そうですね。それと、そうした寺庭での教育に加えて、駒澤大学などの宗門系列大学の教育体制、永平寺、總持寺など僧堂でのカリキュラム、そうしたものが、しっかりとした曹洞宗の僧侶を育てていくようにはできていないように思う。
【大谷】全然できていないと思います。坊さんという仕事は、仕事というと語弊があるかもしれないが、住職というのはそのお寺の経営者であり、社長業ですよ。それが果たして魅力のある仕事なのか、魅力のない仕事なのか。もし魅力がないとすれば、どうすれば魅力ある仕事になるのかということを考えてみる必要がある。
一般の小学生や中学生に一番やりたい仕事は何ですかと聞いた時に、お坊さんというのはまったく入ってこない。僕もお坊さんになって、みんなの役に立つ人間として一生を終わりたいんだというふうに思われたっていいはずなんです。ところがそれがないということは結局、現実の僧侶のあり方が魅力がないからでしょう。徒弟教育にしても、本山で安居をするにしても、何を目的とするのかというポイントがなくなってしまっている。
【平和】「頼むから修行に行ってくれ」と言わざるを得ないのは、世襲化された寺院のあり方に問題があると思う。人材派遣会社があるように、人材登用の場が与えられなくては坊さんに対する魅力も生まれてこない。駒澤大学を出ていれば一年半で一等教師だとか、地方僧堂の場合は二年いなきゃ駄目だとか、今はそういう資格を目的とした教育ですね。
【大谷】いまはみんな、大教師だとか僧階、教師分限を上げることばかり考えている。それも金を使ったりしてね。良寛さんがなぜ宗門から出て行こうとしたのかというと、やはり宗門のそういう変な体質に反発したからでしょう。良寛さんの時代から曹洞宗は何も変わっていないわけだ。
【平和】宗門寺院は農村部に多いが、大都会や新興住宅の地域にはお寺が不足しているのが現状です。お盆など都会に出られたお檀家さんの棚経、一時間かけて、二時間の所もあるがお参りします。遠いのでいつまでお参りできるかと思う。このような悩みを抱えた寺院もいらっしゃるのではないでしょうか。
こうした檀家さんに対応するためにも、熱意ある若手僧侶が進出できる場が与えられないモノだろうか。宗門が一年間、住宅手当を補助し、新寺建立を目指すとか…。一人の住職が対応できる檀家の数には限度があります。衆生は良寛さんのように、悩み苦しみを聴いてくれる、そのような僧侶を求めている。これからは、僧侶も選ばれる時代になってくると思います。人口流動に伴う対策を考えられないでしょうか。
【藤木】今、宗門に一番欠けているのは、そのあたりの反省だと思います。反省がないから、魅力ある僧侶像も出てこないんです。
【大谷】私は、お師家さん的なコースを行く人はそれはそれでいいし、学問的なコースを行く人はそれで行かはったらええと思う。でも大多数の宗侶は、衆生との縁のなかに生きていくわけでしょう。つまり大衆教化を仕事とすることになる。だから、なにをおいてもまず衆生との縁を大事にするような方法を取ったらいいと思う。
【平和】ところが、かつて三大職業と言われたものがありますよね。医者と弁護士と坊さん。全部、人間を救う職業ですが、それが今みんな駄目になってしまっている。医者も弁護士も坊さんも営業的になってきています。
【大谷】衆生縁を大切にするというのは例えばこういうことです。うちの寺は院号志納をもらったら別会計にして、どなたがご覧になってもおかしくないように会計帳簿をつけている。それで、伽藍の補修等の工事はまかなっている。誰が幾ら出さはったという金額こそ載せないけども、これだけの方々の協力でこれはできましたと。たとえばこの石垣は皆さんの志納でできましたと、それを石に刻んでおけば、末代残っていくじゃないですか。
そこで大事なことは、やはり奥さんの名前を載せるということ。夫婦ペア、ご主人と奥さんと夫婦で名前を刻んであげる。普通、院号とか特別寄付を志納された方でも、名前はご主人の名前だけです。だから、「奥さんの名前を教えてください」と言って、それをきちっと石に刻んでいく。そうすると奥さんは、「私みたいなものでも名前載せてもらって」と言われるけれど、「何を言ってるんですか。ご夫婦じゃないですか。ご夫婦の協力があって、ここへご寄進してもらえたんですから」と。これは非常に喜んでもらっています。
【藤木】それはすごくいいことですね。やっぱり家父長制度の名残が残っているとはいえ、今はもう核家族化していますから、夫婦単位ということは、とてもいいことだと思います。これからそういうふうに、たとえばお寺の行事にしても、家族で、少なくとも夫婦単位で来てもらいたいと思いますね
【平和】結婚して家庭生活を営むということは、その家を守るということ。家を守るから、その家に子どもができ、家が継承されていく。大事なのは個人信仰ではなく「家」です。お墓でも何々家の墓と造る、そういうお墓が大事なんです。ところが現代はその家を崩壊させていっている。だから、人間関係がギクシャクしてくる。大切なのはファミリーです。
曹洞宗には大きな目的がない
【藤木】さきほど来、お寺と衆生との縁をどう結ぶかということが大きなテーマとなっているわけですが、ひとつの方法は、法事等において、宗侶と檀家さん、参列者が一緒にお経を読むということですね。
【大谷】そうです。お経を僧俗一緒に読むということ。これを曹洞宗の全寺院が始めたら、非常に大きな改革運動になりますよ。
【平和】そんな面倒くさいことって、多くのお寺さんがおっしゃるけれど、それでも一か寺が二か寺、三か寺と広がって行くような大きな展開としての運動が欲しいですね。葬儀とか施食会では全員がというのは難しいかも分からないけど、ご法事の時なんかは参列者全員に経本を配って、一緒に読むようにすれば、「ああ、『修証義』って、死んだ人のことが書いてあるのと違うんやな、今を生きる自分たちの生き方が書いてあるんだな」という、そういう声が出てくるだけでもいいんです。
【大谷】そうですよ。生きて、生きて、生き切ることが仏教なんですから。
【藤木】大谷さんは『修証義』は「超宗派の最大の経典」といつも言っておられるわけですが、そういう教えを受けている曹洞宗のわれわれは大変幸せです。そういう大きな教えをいただいて、それを伝えていくために、お経をみんなで読みましょうということを宗門的動きにしていこうと決まったら、すごく大きな力になると思います。
【大谷】ところがね、宗門は何を目指していくんだという、その目的がはっきりしていない。宗乗的にはあるのかもしれないが、いわゆる宗門経営論みたいなものがない。だから坊さんに対する社会の魅力も、今ひとつ出てこない。むしろなりたくない職業の一つに挙げられている。
そうじゃなくて、なりたい仕事の一つ、魅力のある仕事にしていかなくてはいけない。キリスト教ではバーテンであったりドクターであったり弁護士であったり、いろんな分野で何々博士というふうに呼ばれている人たちの本職を見てみたら、神父さんであったり、牧師であったりというようなことも多いわけです。だから一般社会やマスコミ、政財界などに発言力を持っている人も多い。
ところが、われわれ仏教界というのは、そういう衆生縁というものを随分と切ってしまっている。そして自分たちだけが自己満足しているところがある。「あの坊さんは永平寺で何年修行しはったそうだ。立派やな。けど、それが何でんのや。うちらとは何の関係もない人や」と思われている。
【平和】大事なのは本山から帰ってきて、さて人々とどうかかわるかということなんですけどね。
【藤木】これは宗門の行政責任も大きいと思うのですが、今曹洞宗は僧侶仏教になってしまっている。自分たちだけで小さな村社会を作ってしまっていて、人々とどうかかわっていくかというヴィジョンがまるでない。衆生とともにある僧侶をどう育成していくか、そういう僧侶像をどう若い人たちにイメージさせていくかということが、とても大事だと思うんです。
【大谷】東京の聖路加病院なんかに行くと、あそこには、施設内に教会の礼拝所がちゃんとある。仏教にはそういうものがないのや。
【藤木】ホスピスでもほとんどはキリスト教系ですね。日本では、患者さんは家の宗教として仏教に親しんできた人が多いわけですし、最後は仏式の葬儀をしてもらうということもあるから、実を言うと仏教のお坊さんに来てほしいということもあるんですけどね。
【平和】一般の病院に改良衣で檀家さんの見舞いに行くと、「お坊さん、まだ早いです」なんて言われてしまう(笑)。仏教イコール葬式というイメージが強くて…。
【大谷】私なんかはこの改良衣で行くけどな。
【平和】葬式仏教こそ仏教としての大切な営みなんだという自覚を持っておられる方はいいんですよね。
【大谷】私は気にしない。わしは苗秀寺の住職であるねん、檀家さんが入院しはって、そこへ見舞いに行って、何が悪いのやと。胸張って入ったらええねん。
【平和】うん、だからそこなんです。坊さんが自信を持てば、次第に病院でも変な顔で見なくなるだろうということなんです。
【藤木】そういう意味では、とくに若い坊さん方が自信を失っているようですね。
【大谷】生命科学者の柳沢桂子さんが『般若心経』の本を書かれて、その中でこんなことを言っておられる。「科学がまだ仏教に追いついていないんです」と。われわれは、科学の最先端のさらにその先を行っているのだということを若い坊さんたちには知ってもらって、自身を持ってもらいたいですね。曹洞宗はそういう無限の可能性を持った教えなんだというということです。
【藤木】そうですね。宗門的課題として、ぜひそういう現代教学的な部分にも取り組んでいただきたいですよね。
カウンセリングは僧侶としての必修項目
【大谷】それと私が思うのは、大衆との接点を持つ部分の資格制度というのは、曹洞宗独自のものがあってもいいのではないかということです。たとえばお寺の山門の前に、夜、「悩みごと相談所」といった看板が蛍光灯で分かるようにつけておく。誰でも訪ねてくることができるようにしておくということが大事で、門を閉ざしてはいけない。
【平和】そうです。とにかく寺の門は開いておかないと。
【大谷】今は、駒澤大学でもカウンセリングの専門家を育てる学科もあるけれど、準国家資格である臨床心理士の資格を得るのは非常に難しい。専門教育課程を受けて、大学院を卒業して、さらに実務経験が三年以上なかったら国家資格の認定試験が受けられない。普通は取れへんのや。だけどそれを取らなくても、宗門人としてしようと思ったら、できるのではないか。
【平和】大本山總持寺では、「禅カウンセリングテキスト」を発刊し、僧堂教育で取り組み始めておられる。
【藤木】僧侶の一つの資質要素だということを、きちっとうたうべきだと思いますよね。
【大谷】もちろんカウンセリングにしたってお金を取ってしたら、それに法律に引っ掛かるかも分からん。だけど、無料で、「曹洞宗カウンセラー」といった曹洞宗が独自に認定した宗教行為なら、何も問題はない。
【平和】さきほどおっしゃった悩み事相談所相談員であったらいいんですよ。そこに檀信徒でもだれでも気楽に相談に来られるようになればいい。
【大谷】その際、坊さんというのは人々に対して常に上から、「おお、そうか」と聞いてやっているという対応をしがちだった。しかし、それは絶対しちゃいけない。最低限のマナーというか、カウンセリングのやり方を講習を受けてちゃんと身に付けてもらって、初めて曹洞宗が認定するものを出していけばいい。
【平和】とくに曹洞宗はプライドが高いというのか、妙にお高くとまったところがあると言われてきた。そのあたりを払拭して、僧侶の方から石段を降りていくという姿があってほしいですね。
【大谷】曹洞宗の坊さんには学校の先生をしていた人もいっぱいいはるし、保育所に勤めてはった奥さん方もたくさんいはるわけ。常に社会との接点を持ってきたそういう人たちに積極的に悩み事相談員になってもらったらいい。
【平和】そうですね。今、団塊の世代が次々と六十歳定年を迎える二〇〇七年問題が起こってきている時だから、尚更いいと思います。六十歳といってもみんなまだ若い。そういう人たちにこそ、布教師の資格を与えて、どんどん活躍してもらいたい。
【大谷】今まで学校の先生をしている住職に対して宗門は二足の草鞋を履いているということで、冷遇してきた。しかし、その人たちは、一般社会と曹洞宗をつなぐ素晴らしい能力を持っているんです。
【平和】そうした人たちを冷遇してきたということがおかしいんです。檀家戸数が少なくて食べられない寺を、兼職しながらしっかりと護持してくれてたんです。
【大谷】そう、そう。
【平和】社会経験も豊富で、生きたお話も悩みの相談にも乗れる。立派な布教師ですよ。
【大谷】そういう人たちが学校をやめたら、住職でも寺族でも自動的に布教師の資格を与えたらいい。
【藤木】そういう意味では、これからは、寺族、とくに奥さんの役割がとても大事になってきますね。寺の奥さんは寺の後継者を生み育てていくだけでなく、事実上、檀家さんたちと寺との付き合いの要になっている。悩み事相談所を開設して、みんなが気兼ねなく来られるような雰囲気をかもし出すためには、奥さんが重要な役割を果たすことになるでしょう。今宗門には寺族のための通信講座はあるけれども、もうちょっと具体的に寺族を教化のひとつの柱とするようなカリキュラムがあってもいいと思う。
【平和】しかし、実際のところ、寺の奥さんは一生懸命、寺を守っても寺族保障がないために、みじめな末路をたどることもある。子どもができないということで、寺を追い出されるということすらあるし、子どもがいても住職が亡くなって子どもがあとを継がなかった場合、何の身分保障もないことになる。
【藤木】そうですね。この寺族の問題は深刻でさまざまな問題を引き起こしているばかりでなく、出家主義か在家主義かという、曹洞宗の将来を決定付ける重大なファクターを含んでいると思います。寺族問題は今後、「仏教企画通信」の大きなテーマとして取り上げて行きたいと思います。
【大谷】何度も言いますが、とにかく今の曹洞宗には大きな目的がない。目的のないところに方法論はない。私は曹洞宗のお坊さんの存在意義とは何かということを改めて問いたい。それを宗門としてきちっとしてもらうことが大事だと思います。
【藤木】今日は貴重なお話をいただきました。大谷さん、平和さん、ありがとうございました。
(平成十八年四月二十日、 亀岡市苗秀寺にて収録)