『対談』
仏教界が今すべきこととは
現代の仏教界を斬る
寺院仏教界は今、転機を迎えている。このままでは三十年後、五十年後には仏教は廃れてしまうかもしれないという事実をご存知だろうか? 日本人のモラル低下が叫ばれている今こそ、仏教界が立ち上がり、リードしていかねば存続の道はない。
宗教学者・正木晃氏と
駒澤大学名誉教授・佐々木宏幹氏が
現代仏教の今を斬る!
【司会】日本人のモラルの低下が声高に叫ばれていますが、実際に残虐な事件が絶えませんね。
【正木】昔のように大家族は無理としても、家族の愛情に育まれて子育てがされないと、これからもっともっと嫌な事件が起こってくるでしょうね。
今、政府が行おうとしている、産後すぐの母親を職場復帰させるために駅前の高層マンションの中に子育て支援施設を作るだとか、幼稚園、保育園に託児所的な機能を持たせて、母親が思う存分働けるようにしようとか、こういった措置そのものは私の考えとしては国家百年の大計を誤ると思います。目先の利益を追って、日本人の精神性を崩壊させるような道に進んでいる気がしてならないのです。
できれば、仏教界が声をそろえてその辺りのことを主張していく必要がありますし、具体的な方策を聞かれたときに答えられるようにしておかなければいけません。
【佐々木】確かにそうですね。私は戦前派なのですが、当時は教育勅語だとか、お寺やお宮などを非常に尊重していました。ご先祖様を尊べ、と。その尊ぶ部分というのは、たぶん仏教と神道が分け合いながら支えてきた。ところが、新憲法になり、個人主義、自由主義、競争社会へとガラリと変貌した。従来の日本人を支えていた価値観や人生哲学がぐらついている間に、欧米から経済合理主義とか市場主義が入ってきた。昔の農村では、「結(ゆい)っこ」といって、お金にならなくても隣の家が困っていたら田植えや草刈りの手伝いに行った。困っている時はお互い様だからお金などに換算しないで、お互いに支えあっていきましょう。そうすることが各家や一門の先祖を喜ばせるゆえんでもあるという、きちんとした思考回路が出来ていたのです。
それが、大都市中心的な経済になり、農山漁村がガラガラになってしまった。きちんとした新しいモラルや人生観を身に着けていない若手がどんどん大都市に集まり、マンションやアパート生活を始める。競争、競争で人と人とのつながりが完全に崩壊してしまい、人間関係がズタズタになってしまったのです。
【司会】その時、寺院は何をしていたのですか?
【佐々木】ちょうどその頃、お寺さんも転換期で、対応の態勢がなかったのです。戦後1945年から十年くらいは農地解放で、土地の地主であった寺院は土地を没収され、小作人からの収入がなくなり、生活基盤を失ってお寺自体が生きるか死ぬかの瀬戸際でした。いかに再建するかで悩んでいた時期だったので、時代・社会に対応しきれていないのです。
総括的に言うならば、仏教自体が戦前から戦後へとどういうふうに生まれ変わるか、再興するかという理念や教義を作り出しえなかった。それが現在問題になっている日本人のモラル低下の一つの原因になっていると思います。
【司会】モラル低下の原因は仏教界にある、ということですね。
【佐々木】戦前までは寺院と檀信徒がちゃんと結びついて機能していたのです。ところが戦後になり、仏教界のリーダーたちが唱えたことといえば、家というものを中心としてやってきた先祖崇拝は戦前の社会原理になっていた封建体制だから排除すべきだ、ということでした。そこで珍重されたのは、現場から理念に帰る、ということ。日本人が選び取った葬祭や先祖信仰教という形の仏教ではなく、この世を否定して解脱するという、お釈迦さんの仏教に帰ろうと主張したわけです。
ところが、現場のお坊さん自体が大衆を前に原点に帰ろうと訴えても、大衆のほうは相変わらず「先祖大事、お葬式大切」ということでお寺へ行く。お坊さんのほうはお偉い学者さんやメディアの声におっかなびっくりになってしまって、理念・教理と現場で行っていることのギャップが非常に深刻化してきた。これが仏教界の現場で働いているお坊さん達のエネルギーをそいでしまったのではないか。それでなかなか一つのパワフルな宗教共同体をつくることが出来なかった。こういう反省を私はしているのです。
【司会】ギャップが深刻化する前にターニングポイントで意見交換がなぜなされなかったのでしょうか?
【佐々木】それは日本宗教の特質ですね。仏教ではどれかひとつを選んで、それだけを絶対視するような思想は出てこないのだろうと思います。柔軟性に富み、融通無碍の文化。これは良くもあり、時としてマイナスに働いてしまう。仏教界がマイナス面の倫理の低下に対して警鐘を鳴らさなかったのは、どうも日本宗教には体制順応的な、戦争の懺悔もなしに平和がくれば平和を追っかけるところがある。
靖国参拝問題でも、テレビ局のデータによれば20代、30代の若者が参拝者の6割だという。彼らは靖国を信仰して参拝しているのかどうか。小泉さんも行ったし、なるほど聞いてみれば我々が平和な生活をしているのは、死んでくれた人がいたから。だから感謝の気持ちくらいは持たなければ、という程度の意識で参拝しているのではないか。それは今の若者に限らず、日本人の宗教体質がベースにあると思うのです。
【正木】そうですね。セム系一神教と私たち日本人が関わってきた宗教では凄く差があり、前者は共同体のための宗教、つまりイスラムでいえばイスラム共同体。ウンマの存続が第一義ですから、個人の解脱だ悟りだ、あるいは高いレベルの覚醒なんてことはほとんど言わないし、下手をすればこういうことを言うと異端になってしまうのです。
あくまでも、仏教というのはお釈迦さんがそうだったように、良くも悪くも悟りというものが至上の命題であって、根本的には一人ひとりが解脱をしましょう、という考え。
それに対して、ユダヤ教やイスラム教というのは明らかに共同体の存続のための宗教ですから、その共同体を守るためなら戦争もやむをえないと考えます。
日本の宗教、特に仏教的なものが共同体を理由に戦争を起こすことはまずない。もともと個人のためにあるので、全体として戦争をやろうよといったところで、まぁそれはそれぞれの判断に任せましょうなんて訳の分からない理屈が出てきて、結局話はまとまらずに何もしないで終わってしまう気がします。
日本人一般の通例なのかもしれませんが、ある事象が起こったとき、その原因なり対策なりを深く考えることをしないのでしょう。そういう、あまり細かく詮索していかないところのプラス面、マイナス面、功罪を考えなければならない時期にきているのは間違いないありません。
【司会】今こそ、仏教界は真摯に仏教というものと正面から向き合う必要がありますね。お坊さん自身、"本物の修行"が必要ですね。
【佐々木】究極の理想はお釈迦さん。曹洞宗での仏道修行とは、ひたすらお釈迦さんを「まねること」です。一仏両祖と言い、お釈迦さんと道元禅師と瑩山禅師、この三者の行履(あんり)をひたすらまねる。まねることの究極は、坐禅なのです。只管打坐、ひたすら坐禅をする。
とはいえ、やっぱり修行の出発点というのは良き人物、優れた人物と出会うことでしょう。仏教用語では正師と言います。道元禅師も、お釈迦さんに最も近い人が中国にいるかどうか探して、やっと天童如浄に出会い、そこで仏教的人格形成の鍵・坐禅を持ち帰るのです。
【正木】残念ながら、現代では師が少なすぎますね。道元さんもそうだったように、黙っていても現れない。自分から探さないといけませんね。
かつての日本は父親や母親が師であった。残念ながら、そういう社会は崩壊してしまった今、本当に一生懸命探さなければ師には出会えません。逆にいえば、師を探すことから修行が始まっているのです。まず、師を求めることです。
【佐々木】そうですね。それから、本当にいい弟子を今度は師匠が探して見つけなければならない。弟子を一人前にするためには、師匠がよっぽど修行をしていないと駄目ではないでしょうか。
明治五年の"肉食妻世帯かってたるべし"までのお坊さんというのは一人ですから、当然、息子もいないわけです。今はたぶん90%くらい日本のお坊さんは妻帯していて、子供さんが弟子になっているわけですね。それで弟子に修行をさせてというのですが、「自分を真似て自分の通りにしなさい。そうすれば立派な坊さんになる」なんて言い切れる人がどれだけいるかですね。そこが非常に難しい問題になってきているのです。
昔だったら、有名な僧侶には何人か弟子がいる。その弟子の中でも、ピカイチを選んで自分の仏法を伝えていた。それは修行をさせて、親以上の深い情愛をもって師匠が弟子を見ながら、その器量、実力、素質をみとって、優秀な者を、お釈迦さんを真似うる跡継ぎにさせたわけです。今は世襲化が進み、それが難しくなってきていますね。
【正木】私の盟友が書いている「葬式仏教は死なない」という本が出版されていますが、都会で二十年、地方でも三十年後には、葬式だけでは非常に厳しい状況になるだろう。それまでに残された二十、三十年の間に仏教は相当力を込めて立ち上がっていかないと、それこそ食えなくなる時代がきます。
今でもすでに起こっていますが、お寺さん同士の淘汰が一気に加速する。これも良い意味で行をちゃんと積んできちんとした精神性、仏教性を持った方が生き残ればいいのだけれど、下手をすると墓地がたくさんあってお金がある寺が生き残ったりする可能性がありますね。
【司会】それでは本末転倒になってしまいますね。
【正木】日本の仏教界を色々見ていまして、とりわけ禅や密教や修験道の方々とお付き合いがあるのですが、意外に活動的なお寺さんや個々の僧侶を見ていると、そんなに長く続いた家じゃない方が結構多いですね。自分が新参者であるという危機感や安住できないものを持った人のほうが結構活動的なのかなぁと思います。
とにかく今とても重要なことは、それぞれの地域に根ざしたお寺活動をやっていかないといけないということです。
【佐々木】そうですね。難しい仏教哲学を振りかざしてもダメで、現場の声に耳を傾け、その声にこたえなければならない。
【正木】その現場の声も、旧来のお葬式や墓地、あるいは供養だけではなく、それこそ子供が不登校で困っているとか、うちの旦那さんがうつ病になっちゃったとか、そういう個々のことにそれぞれのお寺が具体的な方策を講じていかないと仏教界の将来はないですね。
良くも悪くも、日本の仏教というのは融通無碍。その時代時代に上手に乗ってきたところがあるわけです。それをいい意味で生かしていって、時代が要請していることに対応できる人材と場所を用意する。
【司会】緑が多く静かで広い。お寺ほど素晴らしい空間を持った場所はないですものね。
【佐々木】足りないのは人材。
【正木】問題はそこなのです。そういう人材をどう養成していくか。それがたぶん本山クラスのお寺さん、あるいは組織にとって急務だろうと思います。その際に、お坊さんも例えば心理学の資格を取るなり臨床心理士の資格を取るなり、そういう努力をなさって、少なくとも訪ねてこられた方が病理的に病んでいるか、単に一時的に悪くなっているだけなのか見抜くくらいの眼力は備えている必要があります。
あるいは、もっといえば、精神科医であり、普通のお医者さんでもいいのですが、そういう方々とネットワークをつくって、「こういう状況だったら自分じゃ解決できないけれど、この先生のところへ行ったら良い道を見出してくださるし、治療してくれますよ」といった連携プレイをとっていくべきだと思います。
実はあまり言わないですが、僧籍を持っているお医者さんって、けっこういるのですよね。仏教的なものに関心を持っているお医者さんもたくさんいますから。そういう人たちとの間でネットワークを作って、そこで現実の悩みに、人生苦に答えていけるような人材とシステムを早急に構築する必要がある気が致します。
【司会】お寺がまさに駆け込み寺のような存在になったら心強いですね。
【佐々木】永平寺や總持寺では今でも禅仏教の行住坐臥、起床から始まる日常生活のルーティーンを踏んでいるので、そういう伝統というものはやっぱり変えてはならないので、時代と共にそれはきちんと残すことも大切です。と同時に、これからはどこかの教育機関、例えば付属高校や大学では正木先生のおっしゃったような仏教と、医学や心理学、精神医学などとがタイアップする時代が来ると思いますね。
日本人の宗教的性格や体質から見て、霊であるとか不思議な力であるとか見えない存在、こういうものへの関心は決してなくなっていません。ところが、教理・教学から見るとそれは我々が手を付けるには低い次元のものだということになる。大学でお坊さん教育を受けた人はこういう民族を切り捨ててきました。しかし、見えない霊的な存在や力と関係づけて心の病を治療したり弱い人間にパワーを与える方法は必要だと思います。つまり、教理の仏教があるとともに、民ぞく宗教は決して否定し去られ、払いのけられるものではなく、教理仏教の土台になっているという事実を見逃してはならない。むしろ仏教の教理体系の中に組み込む必要がある。そういう時代になってきたと思います。
【司会】まさに、不思議な経験で生きる活力を手にする方の話をよく耳にします。
【正木】今でいう心理療法やカウンセリングにあたる行為を、かつては加持や祈祷で行なってきた。それらは解決法を提示し、実践してきたわけですよね。ただ単に相談を受けて分析だけしてもしょうがないと思うのです。よく、宗教と哲学の違いを質問されるのですが、哲学は分析することが主体。宗教は救済というものがまず前提にあって、そのために色々なことを行うことだと答えています。
ですから、今までは迷信だとか低いレベルだといわれていたことが、実は人間の心身の非常に深いところまで及ぶ知恵だったのだと思うのです。
【佐々木】おっしゃるとおりです。
【正木】実は加持祈祷系の寺院は日本で増加している。そこへ参詣する人の数も増えているのです。
ネパールのカトマンズ周辺を例に挙げると、ここはどんどん近代化が進んでいます。では、周囲の宗教的なものが減ったかというと、決してそうではない。たしかに高度な、上澄み部分の宗教性にかかわるお坊さんの数が減りつつあるにもかかわらず、民衆の色々な期待を担うようなディヨーマーとかジャンクリーと言われている霊能者の数は増え続けていて、今では百人を超えるまでに達しているわけです。おそらく、近代化ということは人間の心身にものすごく大きなストレスを与える。そのストレスから解放して治していくための術というのは、伝統社会ではユング派とかフロイトがどうこう言っても意味がない。それよりは伝統的な価値観の中に立脚した知恵のほうがはるかに効果的です、あるいは日本のように良くも悪くも非常に近代化してしまった社会の中ではその逆にユングやフロイト、あるいは最新の精神医学的な理論を、仏教に組み込んでいった方が効果的だろうと思います。たとえばユングは、そのマンダラ理論がそうであるように、仏教からいろいろな発想や要素を取り込んでいますから、仏教と関連づけることはさして難しくありません。
その辺で、実はこれから私たちが考えていかなければならないのは、加持祈祷が今の精神医学的な最先端の目から見たとき、一体どういう効果をもっているのか。それをきちんと解明していく必要がありますし、人によっては心理学の最先端の治療を受けるより、護摩をたいてもらったり祈祷して頂く、あるいは太鼓を叩いてもらうといったほうがよっぽど効果的な場合があると思いますよ。
【司会】ちなみに、それはまだ科学的には証明されていない分野なのですか?
【正木】恐らく、精神医学のレベルでは二つ大きな問題があると思うのです。ひとつは、欧米ではフロイトにしろユングにしろ、かつてほどの力はない。なぜかというと、今の精神医学は精神薬理学が中心です。例えば長い間、何年も何十年も苦しんでいたうつ病がSSRIといった薬を投薬することで、一ヶ月くらいで症状が軽くなることがあるのです。つまり、カウンセリングよりも物理的な効果を脳に与えたほうがよいという考え方。とはいえ、全てが薬で完治するわけではない。そこはやはりカウンセリングが必要になってくる。カウンセリングという、人間と人間の交わりが非常に必要になってきます。だからきっと、科学的には完全には解明できないでしょうね。むしろ私は解明しなくて良いと思っています。最近の大脳生理学の成果によれば、人間と人間の関係の中では、なにか特別な才能を持っているよりも、コミュニケーションにかかわる領域で高い能力をもっていることのほうが重要と指摘されています。ですから、そういう人材を仏教界が育てなければいけないのです。
【佐々木】そうなのですよね。解脱だとかを説くのは仏教の究極の目標だからそれは良いのですが、そこに至るまでにはモチベーションをしっかり与えることが非常に必要です。ところが、どうも今の仏教界全体を見ていると、いわば頭脳的な仏教というものを非常に尊んで、それで感性だとか苦しみや、悩んでいる心のほうから発想した仏教というものが非常に弱い。
知的な教理仏教と現場をどう関係づけるか。それが修行の上でも学習の上でもとても大事なことだろうと思います。
【司会】他に寺院がすべきことは何かありますか?
【正木】日本人は宗教心が薄いといわれていますが、それはお寺さんと接するきっかけがなかったから。ですから、お寺さんあるいは我々教育者的立場にいる人間が、永平寺をはじめとして歴代続いてきた聖なる場所へ若い人を連れて行くことが必要じゃないかなと思います。
【佐々木】そうですね。エネルギーの根源というのは本山にあり、そこから何千という寺が放射されてゆく。そしてその寺と檀信徒をつなぐのが仏壇。つまり、仏壇はミニチュアのお寺です。そのことを知ることで、今まで拝まなかった仏像を拝むかもしれないし、ちょっとしたものに対して手を合わせるかもしれません。
【正木】私たちは、精神科医の森下一先生を中心に、五年前から鎌倉のお寺で小中学生と大学生を思いっきり遊ばせる「寺子屋」を開校しています。聖なる場所で遊ぶことはすごく良い。なにより、若い人達は、やがて十年以内に父親になり、母親になる。十人のうち八人は親になっているでしょう。その時、彼らの子育てに役立ちます。高校生から大学生にかけての若い男女が小学生、中学生と交わって聖なる空間で共有する時間を持つこと。これはとても重要です。
【佐々木】それから、将来の仏教を活性化するための有力な手だてとして、曹洞宗では大本山の永平寺、總持寺に親子でとにかく参籠しましょうという運動をしたらどうでしょう。あと二十年、三十年後にかりに葬祭仏教が傾きかけても、若い人たちは新しい仏教というものを立ち上げてくれる。そう思います。