正月に考えさせられたこと
―伝統的民俗の衰退について―
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一 国民の八割以上が初詣でに
警察庁が本年(二〇〇七)五日にまとめた初詣で情報によると、正月三が日間に各地の神社・仏閣に初詣でに出かけた人たちの数は九七九五万人で、昨年を四二二万人上回ったという。
最も多かったのは明治神宮の三一一万人、次いで成田山新勝寺の二九〇万人、第三位は川崎大師の二八七万人。浅草寺は二一六万人で第八位になっている(『朝日新聞』二〇〇七・一・五夕刊)。
同じ五日のNHKニュースは、初詣で客は一億人を超えたと報じていた。どちらの情報が正確なのか定かでないが、総人口の八〇%以上の人びとが神社・仏閣に初詣でて柏手を打ち、合掌したという事実は、この国の宗教の現在を考える上で重要である。
NHKや各新聞、研究機関が実施する「宗教意識調査」の結果では、「宗教を信じる」と答えた人二五〜三〇%、「宗教を信じない」と答えた人七〇〜七五%であることが、ここ数十年間続いている。
そこで問題が出てくる。初詣でに出かけた人たちが総人口の八〇%以上を占めているということは、意識調査で「宗教を信じない」と答えた人たちの大部分が初詣でに出かけたことを示しているからである。
これを額面どおりに判断するなら、日本人の多くは、宗教は信じないが、宗教行動はとっているということになろう。はたしてこの判断は正しいであろうか。慎重な検討が必要である。
ここでいえることは、日本人一般にたいして「宗教を信じるか」、「宗教を信じないか」と問うことで、その宗教意識を知ろうとする方法が、はたして適当かどうかを吟味する必要があるということである。
「信じる」/「信じない」の二分法によって宗教心を測ろうとする方法は、きわめて一神教的であると考えられるからである。
試みに「信じる」、「信じない」の代わりに「神仏を拝む」、「神仏を拝まない」で答えてもらったらどうであろうか。おそらくパーセンテージがかなり変わってくるのではなかろうか。
日本人のうち「宗教を信じる」と答えた二五〜三〇%の人たちは、あるいは特定の宗教の教義を深く信じ生きている人たちなのかもしれない。その種の人たちは、明治神宮や成田山に詣でることを意識的に拒否することもありうるだろう。
日本人の宗教意識論は、より的確な調査により深められるべきである。
二 伝統的民俗の衰退について
私が生まれ育った宮城県気仙沼地方には正月に「やんどやーはい」と呼ばれる芸能三人組が各家を訪ね、正月歌と踊りを披露しては金品を貰って歩くという習俗があった。
派手な身なりと厚化粧をした男三人が、それぞれ笛と太鼓と鉦を携え、それらを鳴らしながら歌い舞った。
遠くから笛や鉦の音が近づいてくると、「やんどやーはい」がきたといっては胸をときめかせながら玄関先に立ったものである。
「やんどやーはい」という呼称は彼らの歌謡の歌詞に由来するように思う。
たしか歌い出しが「やんどやーはい お正月は―― おめでたいな お門松を迎えた――」というものであったからである。
独特の節回しで歌詞を変えながら何度も繰り返し、そして踊り、最後に三人口を揃えて「おめでとうございます」と挨拶し、お金を受けとって去っていった。
歌と踊りに正月を実感し、彼らの立ち去る姿に一抹の寂しさを感じたものである。
彼らの来訪を心待ちにしていたのは、一九三五(昭和一〇)年前後の頃ではなかったかと思う
それが絶えてしまったのは日中戦争の始まった一九三七(昭和一二)年の頃か、あるいは一九四五(同二〇)年の太平洋戦争終結を契機としてであったか、定かでない。
「やんどやーはい」のような芸能を「門付け」と呼ぶことを知ったのは、かなり後になってからである。
ところで彼ら門付けは一軒につきどれくらいの金銭を得ていたのであろうか。皆目見当がつかなかったが、この正月に読んだ本や新聞のお蔭で額がわかった。大体一銭から二銭、中には五銭や五厘というのもあったらしい。一九三三(昭和八)年頃から童話作家として知られるようになり、一九四三(同一八)年に二九歳で逝った新美南吉は、名作「最後の胡弓弾き」(一九三八(同一三)年)を残している。その要旨は次のようなものだ。
竹藪の多いその農村では旧正月がくると、男が二人一組になり、一人は鼓を、もう一人は胡弓をもって門付けに出た。上手な人たちは東京や大阪まで出かけたが、あまり上手でない人や遠くへ行けない人は、村から遠くない町へ行った。
町の門ごとに立って胡弓弾きが弾く胡弓に合わせて、鼓を持った太夫が鼓を掌のひらで打ちながら声を張りあげて歌い、おしまいに「や、お芽出とう」という。たいていの家では一銭銅貨を差しだした。たまには二銭くれる家もあった。
童話では十二歳の木之助が胡弓を弾き、少し年上の従兄の松次郎が太夫を務めている。
村から町までは三里あり、一日に二度の馬車の便があったが、彼らはてくてく歩いた。
門付けに回る家々のなかに、ひときわ立派な門松を立てている大きな門構えの家があり、「味噌溜」と記した大きな木札がかかっていた。この家の主人は二人を歓迎し、ご馳走してくれた上、五銭もくれた。
毎年二人は欠かさずこの家を訪ね、主人は正月に二人が来るのを心待ちにしている風であった。
歳月は流れ、世の中は変わった。木之助も松次郎も子どもをもつ身になっていた。村の人たちは町へバスで通うようになった。
ある年の正月、松次郎はいった。「この頃じゃ、門付けは流行んでな。今年はもう止めようかと思うだ。五、六年前まであ、東京へ行った連中も旅費の外に小金を残してきたが、去年あたりは、旅費が出なかったってよ」。
木之助はせっかく覚えた芸だからと松次郎を説得しようとしたが駄目だった。
仕方なく木之助は一人で門付けに出た。あの五銭をはずんでくれる味噌問屋の主人も老人になり喘息に苦しんでいたが、木之助を見ると「おや、今日は一人か。まあ上がってゆっくりしてゆけ」と座敷に入れ、胡弓にじーっと耳を傾けてくれた。
それからまた数年がたち、門付けはますます流行らなくなった。五、六年前までは越後の山の中から来るという角兵衛獅子の姿も見られなくなった。
こうした状況のなかで木之助は健康を害し、二年ほど門付けを休んだ。病いが癒えた木之助は再び門付けに出た。彼はよく胡弓を聞いてくれた家だけを訪ねようとした。しかしどの家も申し合わせたように門付けを辞った。世代が替わり、新しい世代は伝統芸能に興味を持たなくなっていた。
ある家の入口には「諸芸人、物貰い、押売り、一切おことわり」と書いた紙が貼ってあった。
木之助は落胆しながら、かの味噌屋に向かった。そこに「味噌溜」の看板はなかった。
玄関には若主人が現れ、「君、知らなかったかね。親父は昨年の夏なくなったんだよ」といった。木之助はしばらく口がふさがらなかった。寂しさが足下から上って来るのをしみじみと感じた。彼はすごすごと踵をかえした(『新美南吉童話集』岩波書店、一九九六)。
私はさきに気仙沼地方に「やんどやーはい」なる門付けが来ていたのは一九三五年前後ではないかと記した。新美の作品が発表されたのは一九三八年であるから、彼が見聞きした門付けはそれ以前ということになると、私の年代設定とあまり差がないことになる。
東京にも昭和一〇年(一九三五)代には、正月に神に代わってお祓いをしてくれる獅子舞の門付けが盛んであったという。その頃がピークで東京に一千人はいたという獅子舞は、戦争で舞う人も迎える側も徴兵されて衰えた。戦後は「苦労する割には収入が少ない」との理由で後継者不足となり、人びとの信仰心も薄れて現在は百人程度になっているとされる(『朝日新聞』二〇〇七・一・六)。
このように見てくると、芸能を含む伝統的民俗の衰退は(1)社会的変化などにより人びとの民俗への関心が薄れること、(2)民俗行事を支えていた信仰心の低下などが原因になっていると考えられるが、より深い検討が必要である。
三 仏教行事(持)の問題
門付けは民俗芸能の枠に入れられているように、性格的には娯楽的な要素が濃く、宗教性はそれほど強いとは思われない。
門付け人たちも特別な人たちを除くと、平常は農業や林業などを生業とし、正月には町に出て芸を実演して若干の金を稼ぐというのが普通であり、修行のような宗教的経験を持たない人たちであった。
民俗的伝統あるいは習俗としての門付けが時代、社会の変化に対応できず衰微・消滅していったのは、この宗教性の有無と関係しているのではあるまいか。
とくに世代間のギャップが大きいように思う。「父の代はお願いしたが、もう結構です」という物言いは、いわば「文化の世代交替」または「世代的変化」を意味しよう。
もしもそうであるとすれば、このことは仏教、ことに寺檀関係の現場の問題とも決して無縁であるまい。
故人の死亡した日=祥月命日に僧侶が檀家に赴いて読経する習俗・慣行は、月経、月忌参り、常斎などと呼ばれ、日本仏教を特色づける行事とされてきた。
ところが最近では、せっかく僧侶が檀家を訪ねても「今後は結構です」とか「月経に熱心であった祖母が亡くなったので、これからはご遠慮願います」などといって読経を断る家が出てきているという。これがどのような現象で、今後どうなるかについては、慎重な分析が必要であろう。
月経は仏教を通じて死者―先祖を崇敬してきた日本人の仏教的関心度を測るための尺度であると考えられる。それが人びとの関心を惹かなくなるということは、現場の仏教にとってはまさに由由しきことといわねばなるまい。
月経や棚経は日本仏教を特色づけている「葬祭文化」の基礎につながる習俗・慣行であるからである。
こうした伝統的習俗・慣行の変化は過疎地域においてとくに激しいようだ。
宮崎県は日之影町で独自の布教に励んでいる霊元丈法師は、その地域の葬祭の現状をこう記している。「親の葬儀に長男の妻も孫たちも出席しなくなりました。収骨の夜四十九日をすませ、翌日納骨すると一周忌までは帰ってきません。三回忌は書留で布施が届き、七回忌は連絡もとれません。田舎の墓地は骨の捨て場になりつつあります」。
それではその対策は? 師は述べる。「拙寺では三十年前から転出の兄弟や子どもに寺報を送付することから始めました。おかげで転出者の残留率は高い。しかも護持会費をきちんと払い込んでくれます。……出産の母子の健康祈願を行い、誕生カードやお守りを送付し、遠方とも交流しています。核のない核家族の核に菩提寺がなるべきです」(『伝輝通信』第一一七号、二〇〇七正月)。
「先代はお寺に熱心でしたが、私たちは……」という言い分は、核家族においてはますます増えてくるだろう。
寺院の対応はさまざまであろうが、「菩提寺は核のない核家族の核になるべきだ」という主張と気概は、注目に価するといえよう。
また近頃、お盆などにおける棚経を廃してしまう寺院が増加しているという。理由は「苦労する割合には、得るところが少ない」からだという。檀家数の多い寺院は葬儀・追善に追われ、とても棚経などしていられないという言い方はよくわかる。
しかし長く続いた伝統的習俗(民俗)を現今の都合によってみずから廃するということは、それでなくてさえいろいろな問題を抱える「仏教文化」の弱体化に手を貸すことにはならないだろうか。