一本の箸でさえ
――改革の気運を風化させてはならない――

島根県 松源寺住職 佐瀬道淳


 昨年は、両会派の大会に臆面もなく三度も意見発表に立たせていただいた。一度は、五月二十二日の曹洞宗檀信徒会館における、有道会全国支部長会の席上で、二度目は、同じ月の二十六日、米子市における中四国總和会・嶽山会鳥取大会で、もう一度は、十一月二十九日曹洞宗檀信徒会館を会場として開催された、第二十一回有道会大会においてであった。
 宗門の変革は今をおいてはないという強い思いから、一昨年来、意を決して、機会があれば発言させていただいている。それにしても、両会派の大会で発言したといえば奇異に感じられたり、何故と疑問を抱かれようが、私ども島根県第二宗務所管内(県東部の出雲部)は雲国両山会といって、文字通り両山を一本化して両大本山を平等に崇敬し護持することに心掛けている。それも既に二十五年の歴史を閲しているが、本山の寄付とか宗議の選挙などに何ら不都合はなく、むしろ全く和平裡に経過している。祖門会・嶽山会の一本化のみならず、有道会・總和会も含めた両山会なるが故に、どちらの会にも自由に出席できるのである。いうならば名実共に永平総和の会が具現しているのが、わが両山会なのである。両山会については、後日改めて触れさせていただくこともあろうかと思う。
 以上の如く、三度も発言させていただいているし、この仏教企画にも一度意見を述べさせていただいているので、重複するからとお断りしたが断り切れず、筆を執らせていただくこととなった。多分に重複することもあろうが、お許しいただきたい。

黙は金か

 宗門は二重三重のしがらみの故にものが言えない。言っても、何一つ動かない宗門ということで、さらにもの言わぬ宗門になり閉塞感が蔓延していった。その上、宗議会の議員さんまで口を閉ざされ、当たり障りないことばかり質問して、重要案件は先送りされ、議会本来の機能は失われ、ぬるま湯の馴れ合い政治になり、一部の権力者だけがやりたい放題をやってしまった。それでもなおチェック機能は全く働かなかった。
 両大本山名を冠した、両派同数の選挙法によって選出された今の議会に大きな欠陥があることは言うまでもないが、一方、私は一般寺院の無反応、無関心、無気力もさらに問題だといった。昨年七月の有道会の東北大会の速報を拝見しても、東京での大会に参加して見ても、随分元気で活溌な議論が見られて、たいへん感動した。したがって、その席上、先の宗門寺院を覆う三無主義を少し軌道修正させていただきますと申し上げたことであった。
 その日の緊迫した雰囲気は、動かない宗門体質を熟知しておられて、今ここで約束して下さい、今、変革の一歩を確約してくれなければ、一歩も下がらないぞといった気迫に満ちたものであった。こうした気迫に、有道会執行部も、今までとは多少違ってきたのかという予兆のようなものが感ぜられた大会であった。しかし、多くの一般寺院の関心度、気力は未だしの感は拭えないし、会派のせっかく芽生えかけた気運も、対派と向かい合った時、またまた萎えてしまうのではと心配である。
 幸か不幸か大きな重石のとれた有道会は、議論の輪が広がり、フットワークも軽快になったように見えるが、幸か不幸か、一方の總和会のほうには古い重石が残されていて、私どもは何もものが言われませんという囁きが伝わってくる。
 どうか若い宗議さん方、昔ながらの恫喝や金や地位を餌に操ろうとする、古い政治力にたじろがないでください。惑わされないでください。
 宗門の現状認識・体質の分析、そして、こうした宗門になりおおせてしまった原因の究明はまだまだ足りない。だから改革といっても本気さは全然伝わってこない。
 選挙制度一つとっても、議会や審事院をとって見ても、民主主義などと最もかけ離れた、前近代的な代物だ。宗侶だけ、男だけの閉鎖社会だ。一般社会から遠く遅れ、一般社会に通用しない宗門が、人権・平和・環境といっても、私には唱えごととしか思えない。
 檀信徒が寺院住職に向けている厳しい批判や怨嗟の声が届いていますか、一般寺院が宗門行政に向けている悲憤慷慨が聞こえていますか。宗門のこうしたていたらくに、愛想尽かしをしても、単立に踏み切る勇気は持ちませんが、心はとっくに単立です、という手紙をもらったことがある。また、東京の有力寺院が単立になったとも聞いている。
 先の「文春の記事は、九分九厘本当だと思います」、おとなしい多くの宗門人の悲痛な叫びだ。どうか新しい改革の第一歩のためにも、この宗門の特殊社会を徹底分析してください。何期も宗議に出ていると、沢木老師の言葉ではないが、「グループボケ」をしてしまって、見えなくなったり聞こえなくなって、一般寺院の感覚と乖離してしまう。問題は山積している。改革は急を要するのである。

裁判に勝てばいいのだろうか

 現在、わが宗門の本丸が仮り差し押さえになっている。そして、五、六人も顧問弁護士に依頼して善後策を講じているから、まず大丈夫だから動揺しないようにという本庁からの書面が来た。しかし、私には疑問がある。五千万円とか臨時予算を組んで、たくさんの弁護士に依頼して勝訴を勝ち取りたいとしている。当然といえば当然だが、しかし、よしんば勝訴して差し押さえも免れた、お金も一文も取られずに済んだ、でいいのだろうか。訴訟中だから間違った事は言えないし、宗門もこうした声の出ることを危惧しているようだが、零細な地方の信金等を泣かして、宗教者としてそれで済むのだろうか。お金を取られることは誰もいやだが、宗費の節約すべきは節約したり、宗費の還付金のせめて寺院分の半額だけでもそれに充てれば、年約三億近い金は生ずると聞いている。要は、まず詫びるべきは詫び、誠心誠意を尽くして対応すれば、和解の道も開けるのではと思ったりする。しかし重要の問題だから軽々には言えない、万一、単なる思い込みや、誤解や見当違いがあれば訂正したい。

会派と両大本山とは別

 有道会、總和会という立派な名称があるのだから、特に選挙に際して、何もわざわざ本山名を冠して呼ぶ必要はない、いや、呼んで欲しくない。(実際には選挙がらみのそれなりの理由があるやに聞いている)両大本山は、一万五千ヵ寺の寺院と檀信徒の崇高なる信仰の帰趨であり、どちらも大切な安心の拠り所であり、宗政などと次元を全く異にする厳然たる存在である。今、改めて両会派の綱領なるものを並べて眺めて見ると、当然のことながら、だいたい似たり寄ったりである。ただ大きく異なるのは、有道会の綱領は、「宗憲の精神に則り愛宗護法、両大本山、特に祖山護持の道念にもとづき、宗団の和合と興隆に尽瘁する」。
 總和会のほうは、二番目に、「本宗伝統性格を尊重し、大本山の尊厳維持に努めること」、と意味深長な表現となっている。
 ここで引っかかるのは、有道会の両大本山だけであればいいはずであるが、特に祖山云々が付いているために明快さを欠く、忠ならんと欲すれば孝ならずではないが、祖山護持に精を出せば、宗団の和合と興隆に多少なりとも齟齬をきたしはしないか、つまり二律背反の恐れなしとはしないか。両大本山護持だけにすれば、すっきりして素晴らしいと思うのだが――。
 顧みれば、宗門の歴史は両山和平のための試行錯誤の歴史であった、といっても過言ではない。今の選挙法の両会派同数や総長の交替、連立内局なども、宗門和平のための一試行ではあったろうけれども、結果は、ぬるま湯的で厳しさを欠き、野党のないオール与党の馴れ合い政治に堕してしまった。その弊が言われて久しいし、今はその極にある。改革の第一に選挙制度が上げられる所以である。とにかく、両大本山を政争の具にしてはならない。マニフェストで争い、マニフェストで会派はいくつ出来てもいい。

意識の大転換を

 今や永平寺派だとか總持寺系だとか言っている時代ではない。裏も表もなく、なぜ両山護持とならないのだろうか。本音と建前を上手に使い分けているのは宗教家ではないのか、口先だけで終わったり、挨拶で終わってはいないのか、懺悔だ柔軟心だ知足だ、只管打坐の宗門だと説くけれども、それらと一番遠いのは私どもではないのか、戒一つも守らずして、授戒作法をして恥ずるところはないのだろうか、お互いに猛省しよう。私どもも、宗政家も、「そんなことはできない」、「できっこない」という金縛りや呪縛から抜け出して、「やればできる」、いや、「やらないといけない」と、まず意識の大転換をしよう。
 今日から、できることから、私から、という標語がある。山積している課題に順位を付け、スピード感をもって、一つ一つ目に見える形で変革していこう。そうしたら、どんなにか活気に満ちた宗門になることだろう。「箸よく盤水を廻わす」という格言がある。箸なんかでタライの水が回せるものかと信じもしなければ、むしろ一笑に付されるだろう。しかし、根気よく盤の中心で箸を一定の方向に回し続けていれば、やがて盤水は回り出すのである。ましてや各地方にあって一人二人三人と回し続けてくださると、動かぬ宗門といえども動き出すのです。

プリンシブルな一本の柱を

 両祖の慈訓に帰ろう。宮崎禅師が何年来提唱し続けておられる。仏と線香と自分とが真っ直ぐになるように坐ろう。線香は真っ直ぐに立て、そこで三分でも五分でも坐禅を組むよう示されている。今はその真っ直ぐが、心にも家庭にも社会にも欠如してしまって、ぐしゃぐしゃになってしまっているのである。難しいお教えはともかく、まず、私ども宗侶が、宗門が真っ直ぐを取り戻そう。
 今、白洲次郎のプリンシブルな生き様が注目されている。そして社会や子ども達も、質朴でぶれない一本の真っ直ぐな柱を求めている。口先や虚飾ではない実なる一本の柱を求めている。
 両祖の宗風は、名利を最も厭う質朴な家風であったはずだ。どうか名利などに棹ささないで、真っ直ぐに背筋を伸ばした実とおもいやりのある方丈さんであって下さい。
 黒衣に木蘭衣の清廉な姿、質朴で爽やかな宗風こそ、両祖の家風であり、曹洞宗の宗風であり、これこそが社会に存在する意義である。
 何も難しい理窟や、金をかけた教化活動は要らない。一本の真っ直ぐの柱を失って、ぐしゃぐしゃになってしまっている社会に、真っ直ぐを取り戻し、虚偽・虚飾に満ちた社会に質朴なる実を取り戻すために、今の宗門を根底から考え直そう。今の宗門改革の気運を絶対に後もどりさせてはならない。
 そのためには、宗門要路の方々も、宗政家も一般寺院も、両祖の児孫として一丸となって立ち上がろう。痛みや努力無くして変革など無い。もう傍観者であってはならないのです。
 最後に、ハワイ開教百周年の折、ハワイ別院で聞いた町田開教総監の言葉「宗門寺院が(仏教が)残るとすれば、それは社会が必要とすれば残ります。逆に必要としなくなったら消滅します」を記して擱筆する。

 暴言・妄言多謝。