座談会
危機的状況にある曹洞宗の未来をどう打開するか
【出席者】
小川浩一(東海大学文学部心理・社会学科教授)
佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授)
宮寺守正(全国曹洞宗青年会会長)
久間泰弘(全国曹洞宗青年会広報委員長)
森田英仁(全国曹洞宗青年会広報委員)
藤木隆宣(仏教企画通信編集発行人)
曹洞宗はどうして時代から取り残されてしまったのか
【藤木】現在、日本仏教界で大きな勢力を占めているのは創価学会で、それについては誰も異論をさしはさめない。『聖教新聞』などの情報発信量は群を抜いている。既成仏教教団の情報発信量とは雲泥の差がある。新宗教ではどこでもグランドデザインをきちんと描きながら、布教の組み立てをしている。ところが曹洞宗の場合はそれがまったくないといってもいい。
【小川】新宗教の多くはハワイとかアメリカ太平洋岸でも、上からのグランドデザインによって下まで一貫した布教が行われている。それは、ある意味では強い。独裁的で自由度が少なく、中央が決定したものは細部まで下部組織に徹底されている。しかし、その強さが日常活動の中で発揮される。底辺では最初からは仏様や魂の救済といった高度な話は出てこない。悩みごと、困っていることについて話を聞き、日常生活の方向づけをする。相談した人は宗教的な話をしているとは思っていない。布教の技法としてはとても上手だと思う。
【佐々木】それに比べて、曹洞宗は僧侶が檀信徒にメッセージを送ることだけに焦点がある。檀信徒の声は無視されがちで、上に届くことが少ない。社会学者で東大名誉教授の吉田民人氏は、今の仏教界の深刻な問題は、「説かれる仏教」と「生きられる仏教」との間にギャップがありすぎることだと言う。「仏教とはこういうものですよ」「わが宗の教義はこうですよ」と説く側の仏教と、その教えを受けとる檀信徒側の生活実感としての仏教との間に大きな乖離がある。
例えば曹洞宗だと「只管打坐」「即心是仏」というようなことを説く。ところが檀信徒は亡くなった先祖がどうすれば祖霊として安定し、代々、子孫を守ってくださるようになるかということに関心がある。仏教を説く側では、家に執着したそんな考え方から解放されたところに本当の安心があると言う。そこでは情報を発信する側と受け取る側に、パイプがつながっていない。
【小川】発信者がメッセージを受け手に送る。それが一定のチャンネルを通じて受け手に到達する。そこで一定の理解がなされ、それに対してまた反応が起きる。それがコミュニケーションの基本的な要素だが、今のお話では、受け手側は自分の家の先祖とかお墓と仏教がどうかかわるのか知りたいと思っているのに対し、送り手である教団とかお坊さんは委細構わず格調高い仏法をお説きになるということですね。
情報を送ろうとする側は、一つのファクトして何を送ろうとしているのか、そのメッセージに込めている内容意図をきちんとつかんでおかなけばいけないし、それがどういうパイプで、どう受け取り手に到達し、送り手の意図と同じように理解されているかどうか確認しなければいけない。届いているけれども、右から左に抜けているだけなら、それは発信したというだけだ。
確実に到達して意図どおり伝わっていないならば、それは対費用効果で言えば無駄になってしまう。一定の意図を持ってメッセージを出したら、その意図どおりに受け手に到達したかどうか効果を測るのが常識でしょう。もし、対費用効果が低いんだったら、手立てを変える必要がある。効果のない受け手は切ってしまって、別な受け手を探すというようなことも考えなくてはいけない。
【佐々木】重要な点は、まず相手を十分に知るということですね。相手を知って、その状況に応じてメッセージを発してやらないといけない。全然ニーズのないところへ、「これを信じなさい」と言っても効果はない。
【小川】新宗教団体の幹部ぐらいになると、難しい仏法の話をするけれど、ふだんは日常的な話しかしない。そこからいつの間にか取り込んでいくというノウハウを持っている。
【藤木】曹洞宗のような既成仏教で、コミュニケーションがどうして一方通行になってしまうかといえば、やはり三百年以上も前にできた檀家制度というものがあるからでしょう。集落共同体では檀信徒の顔がつねに見えていた。しかし今や都市化や核家族化が進み、一方的なメッセージは伝わらなくなっている。
【小川】だから、新宗教団体がみんな取っちゃうんですよ。おっしゃるとおり、社会の変化に着目しなくてはいけない。実際、新宗教には既成宗教が持っていた家なんていう観念は非常に弱いと見てよい。都市住民である個人を一人ずつ撃破したんですよ。
【佐々木】そうなんです。曹洞宗でも檀家をたくさん持っている寺では、「まだまだうちは安泰です」と言う。しかし、これからは不特定多数の個人を相手にしていかなくてはいけないし、旧来の檀信徒だって、菩提寺の住職が、「こうしてください」と言って、「はい、そうですか」と素直に従う人は減っていく。逆にお寺さんにもの申すという時代だ。
それは医者がそうです。今までは、有名な医者のところへ行ったら、誤診があっても、「あの先生がやってくれて駄目だったんだからあきらめよう」と言っていた。このごろはそうではない。「不審なところがあるから、カルテを見せてください。でないと訴えますよ」という時代だ。同じことで、「何のためにお葬式をやるんですか」、「あの世はあるんですか、ないんですか」と聞いてくる。そうすると坊さんも返答に窮する。
【小川】キリスト教ではちゃんと答えているじゃないですか。
【佐々木】既成教団の大学では、「あの世はあるともないとも言えない。お釈迦さん自身が答えていないから」と教えている。これでは力がない。あの世があるかないか分からないのに、何で引導を渡すんだということになってしまう。
危機意識の薄い大寺と宗門のリーダーたち
【小川】新新宗教というのはあれはみんなアメリカの社会学者リースマンが言うところの「孤独な群集」を相手にしていますよね。
【佐々木】そうですね。
【小川】新新宗教に入信する人にはパターンがある。一つには、なぜあんなインテリが言われるような人たち。彼らは偏差値秀才ではあっても、学校で教わったこと以外のことを知らないから、メディテーションみたいなものにすごくフレッシュなものを感じて入信してしまう。それから、親からも学校からも切り捨てられた劣等生たち、寄る辺なき子供たち。そういう子どもたちが路頭にいるとき、その子たちと肩を組んで語り合ったら、その子たちは自分の存在に自信を持つようになる。
ところが新宗教団体はそうした人々をねらっていません。もう少し常識的な市井の人たちです。やはり孤独な群集で、都市の中で故郷(村落共同体)から切り離された人たちです。そこでは、もう既成仏教の影響は彼らの世界に入って来ない。そういう人たちに新宗教の人たちは、日常的な病気とか貧困といった具体的な問題の相談に乗る。かつては、そうした新宗教団体のやり方を共産党と同じ「どぶ板」だとばかにした向きもあるが、それはまちがいだと思う。なぜなら、かつての宗教者たちはみな「どぶ板」でやっていた。行基にせよ、空也にせよ、乞食をし全国を流浪しながら、困った人たちを日常生活のレベルで救済していた。現代ではそれを新宗教の人たちがやっている。彼らが強いのは当たり前です。
そこで、佐々木先生にお聞きしたいのですが、今現在たくさんの檀家を抱えているお寺さんは安泰だから、危機意識を持っていないと言われましたが、統計では今や日本の総人口のうち八〇パーセントは都市生活者で、そのうち九〇パーセントが給与生活者です。そうすると、地方のお寺さんが抱えている檀家のうち何パーセントが檀家として残るか。十年、二十年先には、檀家が半分とか三分の一になってくることは容易に推測できます。新宗教に逃げられたり、あるいは無宗教に行ったりということが起きるのではないですか。
【佐々木】既成教団のリーダーたちが考えている以上に、都市化によって人の思想、価値観、死生観が変わっているのは事実です。例えば、日本人の「あの世観」の崩落というものも視野に入れないといけない。今まではあの世に行った先祖が子孫やこの世を守ってくれるというところに先祖崇拝が成り立っていた。この世は見えない死者の集団によって支えられているという柳田国男流の仮説がずっと日本人の宗教意識のベースとされてきた。今でも既成教団はそれに乗っかっている。ところが今、意識調査をしてみたら、それがガラッと変わってしまっているかもしれない。それなのに大きなお寺の人は現状に胡坐をかいている。現実が見えていない。
【藤木】その辺がどうして見えなくなるかというと、曹洞宗の責任役員や重職にいる方々というのは、大寺の住職さんばかりです。檀家が千軒とか、二千軒とか。そうすると自分のところを見ている限りにおいては安泰だという。歴史的にみれば、既成仏教は先祖供養をなりわいとしてきた。現在でも寺院の経済は葬儀・法事といった供養によって成り立っている。
【小川】しかし、失礼な言い方をすると、供養というのは今や付き合いというか、社会慣習に過ぎないのではないですか。儀礼でしかないから、それ以上のことはない。ところが、新宗教の人たちは都市化した一般庶民が日常生活で困っていること、悩んでいることに密着して話をし相談に乗っている。それが宗教のやりかたとして正しいかどうかではなく、ノウハウとしてはばかにしてはいけないと思う。この人たちは底辺の人たちのニーズがどこにあるか、お互いに頻繁に会うことによって肌で知っている。下手なサンプリングをして統計を取るよりもっと確かなものを町の単位で押さえている。
寺院を再び地域社会の中核にするには
【佐々木】以前、文化庁長官(前)で臨床心理学者の河合隼雄さんと話したら、「今のお坊さんはしゃべりすぎる」「相手の苦悩を聞いて、聞いて、聞き抜くんだ。そうするとおのずから答えが出てくる」とおっしゃっていた。これを既成仏教のお坊さんは学ぶべきなんでしょうね。
キリスト教会では、パリッシュという教区がある。その教区に、例えば百軒家庭があると、毎日、牧師さんや神父さんが回る。そして家族の状況を記録する。夫婦仲がいいとか悪いとか、子供のうち一人が病気がちで学校を休んでいるとか。つまり、過去帳ではなくて現在帳をつける。そして、それを把握した上で、日曜日に教会に集まった人々に対して、あの信者の家ではこういう状態がありますから、皆さんも助けてやってくださいというようなことを述べる。そういうのはまずお寺にはない。
【小川】アメリカの例で言えば、伝統的には教会がコミュニティの中核になっていたのが、第二次大戦後、コミュニティが次第に崩壊してきていた。それにつれて教会の求心力も弱まってしまった。一つはベトナム戦争の影響もあったでしょう。それがその後、七〇年代後半から八〇年代以降ふたたび教会がコミュニティの中核になって現在に至っている。どうしてそうなったかという具体的な活動は知りませんが、おそらく今、佐々木先生がおっしゃったようなことをしたんだと思う。だとしたら、先ほど来うかがっている日本の既成仏教教団が抱えている問題というのは、六〇年代、七〇年代のアメリカのキリスト教会のそれだ。その時点でアメリカの教会の人たちがどういう手を打ったか参考にすべきでしょう。
アメリカはもともとコミュニティ中心で動いている社会で、そのコミュニティの中核に教会があった。ところがベトナム戦争のころは神様と個人をつなぐ糸が切れてしまったというか、国民はもう糸の切れた凧のような状況だった。そうした教会の求心力がなくなったときに、しまったというので、もう一回教会はカソリックでもプロテスタントでも反省して行動針を取り戻している。それが現在のアメリカの教会の力の回復につながり、地域社会の再生につながった。ちょうど今の日本が、世間の目がなくなって、個人が糸の切れた凧になって、みな規範のない行為をしているのと似ている。ところがアメリカは、それをもう一回つなぎ直した。一般アメリカ人の努力のみに頼ったのではなくて、それは教会側の努力によってだ。
【佐々木】日本でも従来、共同社会のコアにはお寺があったんですよね。新幹線に乗って外を見ていると、集落の中でひときわ大きい建物はみんなお寺なんですよ。瓦ぶきの堂々たる屋根がそびえている。そのお寺が今、地域社会の中で十分機能を果たしていない。それをもう一回、コミュニティの中心にするのにはどうしたらいいのかという問題なんですよ。
だからわたしがとくに若いお坊さんたちに期待するのは、今までの伝統を大事にしながら、それにしがみつくのではなくて、現実の社会の問題をどう伝統の中に繰り込むかというような問題意識を強く持ってもらいたい。さっき言ったように過去帳という亡くなった人の戒名だけを大事にするのではなく、現在帳というものを持って、まず地域社会のことをよく知ることから始めていただきたい。
グラウンドデザインを示せない曹洞宗
【小川】話の途中で水をぶっかけるような言い方で申し訳ないが、基本のところで、曹洞宗の中核にいる偉い人たちは、この教団をどうしたいと思っているんですか?(一同沈黙)
例えば信者を増やしたいとか、教団の実入りを増やしたいとかという目的があれば、それに対して手段が考えられる。例えば新宗教団体と闘う。そのためには国会議員をつくるとか。ところが教団のトップたちにグランドデザインがない、それに対する危機意識もないということになれば、曹洞宗はつぶれてもいいということですか?
【佐々木】言いわけになるが、曹洞宗の場合、七百年の伝統を持つ巨船です。百トンの船だったらすぐに舵を切れるが、何百万トンの船を動かすのには大変な波風が起きる。宗侶の世代もまちまちで考え方も違う。若い世代は将来に危機感を持っているが、なにか新しいことをやり始めると抵抗がある。
僕は、お釈迦さま・道元禅師・瑩山禅師は外せないが、そのほかに大きな箪笥みたいなものがあって、引き出しをいっぱいつけるようなことをこれから考えないといけないのではないかと思う。
先祖代々の家制度が強かった時代には引き出しは一つあればよかった。ところが今みたいに個人がばらばらになると、それぞれ知識程度も教養も違うし趣味も違う。人生観も悩みの種類も違う。それなのに、「これが唯一絶対の仏教の真理です」と言ったって、「はい」とは言わない。対機説法というか、話は下手でも聞き上手で、相手のニーズに応えて、相談に乗れる人材の育成が必要だ。
【森田】われわれとしては、青年僧がかかわることのできる具体的なビジョンを知りたい。社会や周りに対して、何かお手伝いをしたいという気持ちは多くの若い宗侶が持っている。しかし、仏教知識、葬祭儀礼については専門でも、ほかにスペシャリティを持っているわけではない。社会のどこに踏み込んで、どういう部分を担うことができるのか分からない。よその家庭を訪問して何かするというのも越権行為ではないかと二の足を踏んでしまう人もいる。
【小川】僕が今、もし危機的状況にいたら、やっぱり知恵を使うしかない。例えば、ハワイのお寺は日曜学校をやっている。そこには、仏教徒ではない人たちも集まっている。お坊さんが活動するとき、宗教とは関係ない人がいっぱいいてもいいと思う。そういう人たちと、難民に対する古着を集めたり、チャリティをやるとか、NPOをやるとかいろんな活動が考えられる。お寺さんの仕事というふうにこだわらないほうがいい。参加者にはそれそれ友達がたくさんいるはずだ。その友達に、「あなたもいらっしゃる?」というふうになれば、そこで人の輪をつくっていける。
さっき、佐々木先生は引き出しをたくさんつくるということをおっしゃった。別のことばでいえばセグメンテーションです。対機説法というのはまさにそうです。わたしは、皆さん方が強いなと思うのは現場、ヒューマン・ネットワークを持っているということだ。コミュニケーションの目的というのは、共有世界を広げること。共有世界を広げるためには、いろいろなコミュニケーションの仕方があるが、人間で一番強いのは最終的にはフェース・トゥ・フェースだと思う。だからこそ、人の繋がりの中で対面的コミュニケーションを容易にできる環境にあることは強みだと思う。だからこそ、人の繋がりの中で対面的コミュニケーションを容易にできる環境にあることは強みだと思う。
創価学会がお寺にかなわないところ
【久間】以前、わたしの寺に学会の女性から電話がかかってきた。ご主人が過労死でいきなり死んでしまった。子ども二人を抱えてどうしたらいいか分からない。もう生きていく自信がないと泣いている。「とりあえず寺に来て、話してください」と言ったんだが、そのとき学会というのは横のつながりが非常に強いのではないかと思って聞いてみた。そうしたら、学会員のかたがたは毎日、毎日、足しげく通ってくれるという。ところがその女性が言うには、「仏様がいない。死とか、生きるということの意味を教えてくれない」と。夫の死といった苦しみに出会った人が、それから先を見たいときに、学会の仲間では駄目なんだと言う。それで私は学会の青年団で活発に活動している人に聞いてみた。そうしたら、「それはねえ、ちょっと言いたくないけれども、そこが、お寺さんにかなわないところなんだよ」と言っていた。私は、「これなんだ。ここから突破口を開いていくしかない」と思った。
【藤木】そうです。どんな宗教でも、来世を説かない宗教は宗教ではないと言っていい。
【佐々木】曹洞宗ではそこまで言えるかどうか、教学上の問題はあるけれど、僕はセグメンテーションの中では、そういう利益があってもいいと思う。宗門でもご祈祷はやっているんですから。それから、曹洞宗が学会などと違うのは、建前であっても出家を名乗っていること。学会はあくまで在家の団体だ。日本人は山岳修験でも何でも、修行をしてきた人には普通の人の持っていない力が備わっていると見る文化が強い。
【森田】おっしゃるように、お坊さんが僧衣を着ていることのメリットを、われわれは生かせると思うんです。例えば僧衣を着た人が病人の足をもんであげたときと、一般の人がやるのとは違う。医者とはまた違った意味で、われわれの力が発揮できる。
【佐々木】そう、それが仏力ですよ。近代の仏教学は合理的で、そういうことを迷信だといってやらないが、お数珠で痛むところをこすってあげただけで、ものすごく楽になるなんていうことは随分ある。キリスト教なら、ロザリオで触れたら治ってしまったなんていう例もいっぱいある。
【小川】昨年、民放だと思いますが、テレビ番組で禅宗の修行僧の様子を放映していましたね。それでも分かるのですが、人々の間ではやはり、法衣に対して清冽な印象を持っている人が多い。それがポジティブな効果を与えるものなら積極的に使うべきでしょう。
【森田】われわれが供養の席なんかに行くと、「お坊さんはやっぱり永平寺で修行されたんですか」とよく聞かれる。
【久間】結局みんなそれが知りたいんだよね。
【佐々木】だから、お坊さんは寺に閉じこもらないで、自信を持って政治にも経済にも文化にも社会にも発言して行ってもらいたい。なぜならば普通の人たちの持っていない領域に、われわれは生きているのですから。
事実を先行させてしまうのも一つの戦術
【小川】わたしが最後に一つ、コミュニケーションに関して申し上げたいのはコミュニケーションに必要なキーワードは「気働き」だということ。相手の表情、動作、言葉遣い、ほんのちょっとした仕草を、五感、六感全部を使って感受する。「気働き」というのは共有世界を広げようという意思、心の働きです。これが弱いと、コミュニケーションの力はやっぱり駄目だと思っている。
【佐々木】それはお坊さんにとっても必須条件で、感性というか、情緒というか、そういうものが豊かでないと人の苦は分からない。
【森田】禅的に言えば臨機応変さというか。
【小川】まさに臨機応変。メッセージはもっとブレイクダウンして平たい言葉で…。難しいことを難しい言葉で言うのは誰でも習った人はできるけれども、いかに易しく語るかということが、その人の力量だと思う。
それからもう一つ。さきに教団のトップのほうに危機意識がないという話があった。それではどうしようもないかといったら、そうでもない。それは戦術的な言い方で言うと、事実を先行させてしまうということ。全国曹洞宗青年会の人たちや藤木さんが、いろいろと改革案を練っているのは、何も宗門に抵抗したり反乱を起こしているのではない。一生懸命、宗門のために活動しているんでしょう。活動をいちいち上層部に諮っていたら絶望的なわけだから、単独でやってしまうという方法もある。それでそれが非常に効果的であったとなると、上のほうも追認せざるを得ないでしょう。
じつは、私達も大学改革で同じことを仕掛けているんです。(笑)
【藤木】非常に具体的な示唆をいただきました。今日は長時間ありがとうございまし
た。
(平成十九年一月十日収録)