宗門の予算は多すぎる

東京 清岸院住職 川岸高眞


 多々良学園の問題が表面化することによって宗門のずさんな運営が明るみに出てきた。これまでも宗務庁に対する運営面、財政面での問題点の指摘はいろいろ行われていたが、それらはあくまでも実際の数字に基づいた根拠のある論理的な指摘というよりも、感情的な不満を述べる「ぼやき」のようなものであったし、それに対する宗務当局の態度も、まともに取り組むというよりもむしろガス抜きをしておけばよい、という程度のものであった。このことは宗議会を傍聴するか宗議会の議事録を読めばよく分かる。
 しかしながら、多々良学園の問題は二つの点でこれとは明らかに違う。第一に今までのように何となく不満をなだめておけばよいという手法は一般の世間相手には通用しないということである。当時の内局が多々良学園のあれほどいい加減な計画を見抜けなかったか、見抜いても気づかぬふりをしていたのは事実であるし、多々良学園が銀行からお金を借りるときに、曹洞宗がバックについているように相手に思わせるような態度を取ったのも事実であろう。これについては宗務当局のその場限りの言い逃れはもう許されなくなっている。「法律によらずに全額を弁済するのが宗教家として取るべき態度だ」という選択肢も含めて、宗門は当然責任を取らなくてはならない。第二には、一般寺院の宗議会議員や内局員に対する不信感が顕在化したことである。私は昨年と一昨年の有道会大会に出席したが、一般寺院の発言内容やヤジの激しさは、それまでこの種の会では経験したことのないものであり、そこで見られたものは宗議会議員や内局員に対する一般寺院の不信と非難、それに対する有道会幹部の不適切な対応であった。宗務当局や宗議会議員の権威は失墜し、彼らのために何十億円という無駄なお金を宗費として納めなければならなかった一般寺院の恨みは大きく、そのために一般寺院住職の精神的な宗門離れがますます進んでいく。
 いったいどうしてこのような状況になってしまったのであろうか。その原因は二つ考えられる。第一は曹洞宗のような大きな組織をコントロールし運営するための教育も訓練も受けていない人が宗議会議員になり、内局員になり、宗務庁の職員になっているためであり、第二は曹洞宗にお金がありすぎるため、である。第一の点については、昨年五月に発行された「東京有道会報(第19号)」にかなり詳しく述べたので論議を省き、ここでは主として第二の曹洞宗のお金について考えてみたい。
 まず「曹洞宗報」に掲載されている数字により現状を見てみよう。平成十七年度の決算の数字で見れば歳入は57億円、歳出は50億円である。7億円規模の余剰金が毎年発生するが、それがどこへ行ってしまうのかはよく分からない。多分準備資金への出し入れという形で処理されているのだろう。このほかに臨時部というのがあり、平成七年度から十一年度までの11年間に何と100億円も支出されている。主な支出は、
 東京グランドホテル精算 46億円
 多々良学園関連費用 26億円
 世田谷学園関連費用 8億円
 苫小牧校舎関連費用 3億円
などであるが、これだけで83億円になり、一般寺院一か寺当たりの負担額はこのためだけで平均60万円弱となっている。また歳入は、級階賦課金が約31億円、寺格賦課金と教師賦課金がそれぞれ約5億円というのが主なものである。
 宗門には本当にこのような巨額の予算が必要なのであろうか。この疑問は結局は包括法人としての『曹洞宗』は何をする団体か、という問題にまでさかのぼる。
 いうまでもなく、我々はお釈迦さまや道元禅師がお説きになった教えにより宗教的安楽を得、それを在家の人々にも勧める、というのが宗門の基本形である。このことに異論はないであろう。問題はこのような修行と布教というプロセスの中で宗門という組織はいったい何ができるのか、ということである。修行も布教も生身の人間が行うものであり、組織は実際には何も出来ないといってよいのではないのだろうか。
 もしそうならば、実質的な宗教上の貢献ができない包括法人に各寺院が受け取る貴重な浄財から50億円も払うのはとんでもないことである。念のためにいうが、私は宗門をつぶせといっているのではない。実質的に修行や布教に直接貢献できない組織なのにたくさんのお金を取るな、といっているのである。宗門とは何か、という問題に戻ろう。修行・布教という狭い意味での宗教活動ができないのなら、包括法人としての曹洞宗は、実際に宗教活動を行っている一般寺院の集合体に過ぎない。そのような集合体を運営するには最小限の仕事に必要なお金を予算として計上し、それを宗費として集めればよい。その場合、現行の50億円レベルをベースにして不要なものを削っていくという方式も考えられるが、それでは既得権に縛られて中途半端な節約案に終わってしまう。やはり包括法人として不可欠な仕事がまずあって、それを行うために必要なお金を一般寺院から集める、という発想の方が妥当であろう。
 それでは包括法人として最小限必要な仕事とは何か。まず第一に被包括法人の名簿の維持、第二に包括法人が何をなすべきかを決める宗議会の制度であろう。今のところこの二つしか思いつかない。これならばその宗議会で決めた多少の活動(たとえば対外的な折衝など)を行ったとしても5億円もあれば十分すぎるほどである。たとえば宗費も寺格賦課金(現行で約5億円)だけを残せば他は一切要らなくなる。あの悪評高い級階賦課金も当然払わなくてよくなる。それ以外のことは、それぞれの事業の受益者が主体となって会費を集めて行えばよい。梅花クラブとか布教師クラブとか現職研修クラブというように。宗門関係学校は自分の責任で寄付を集めればよい。なにしろ宗費が一か寺当たり平均約3万5千円ぐらいに下がるのだからお寺は経済的余裕が十分でき、趣旨に賛同してさえくれれば簡単に寄付でも会費でも集まる。計画や企画が悪ければお金は集まらないことになり、それによって無駄な計画や企画が排除されることになる。大事なことは、民主主義についての学習や大組織を動かすための勉強や訓練(たとえば、チェック機能を果たすにはどうすべきか、与党の暴走を防ぐにはどうすればよいか、税金はどこからいくら取るのが公平といえるか、弱者はどこまで救済すべきか、などを学校や組織内で学ぶこと)をしていない人たちに、多額なお金を預けないことである。さもないと第二の多々良問題、第三のグランドホテル問題は必ず起きる。
 多々良学園の問題を機に宗門内部の矛盾がいろいろ明らかになってきたが、修行と布教という宗侶および寺院に課せられた根本的な役割に考えを戻せば、宗門が果たせる役割はほとんど無く、そこにお金をつぎ込むことは良くないことに思えてくる。「すべからく貧なるべし」という高祖さまのお言葉は、どうやら組織にもあてはまりそうである。