理念と民俗あいだ
―宗教的ダイナミズムについて―

  駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹

一、はじめに

 去る七月二十九日に行われた第二十一回参議院議員選挙は、自民党の歴史的大敗を以て終わった。
 翌三十日のテレビや新聞は自民党の敗因をめぐって、さまざまな視点・角度からの分析と解説に大童であった。
 どのメディアも売れっ子の評論家、アナリスト、研究者、タレントなどを動員して意見を吐かせていたが、説明や見解の中味は、驚くほど類似していた。
 年金、格差、住民税、政治とカネ、閣僚の発言……話す人が変わっても考え方は金太郎アメの如くであった。
 さまざまな議論や提言の中で私の眼に止まったのは『朝日新聞』の「天声人語」である。
 その内容は、宗教(仏教)の「現場」の問題を考える上でも、すこぶる示唆的であったからである。
 いわく「古代ギリシャの哲学者タレスは天文学にもたけていた。ある夜、星の観測に熱中するあまり、井戸に気づかず落ちてしまった。使用人が冷やかした。"あなたは天上のことは知ろうとするが、足元のことはお気づきにならない"と。
 この逸話に安倍自民党の大敗が重なる。首相になってからの安倍さんには、望遠鏡で遠くの空ばかり眺めていた印象が強い。「美しい国」、「憲法改正」に「戦後レジーム(体制)からの脱却」……。大構えなテーマは、、彼の思い描く夜空に、星空となってきらめいていたのだろう。だが足元には疎かったようだ。
 暮らしを脅かす格差に無頓着だった。政治とカネの醜聞につまづき、年金問題という井戸に落ちた」(二〇〇七年七月三十日朝刊、一部要約)
 この記事が正鵠を得ているとして、それでは安倍氏の逆を行ったらどうなるだろうか。
 足元(地方住民の暮らし)に大いに気を遣い、井戸(住民の生活基盤)が奈辺にあり、数が足りないかどうか、これを増やすにはどう手を打つべきかにひたすらになる。もちろん地方に十分配慮すれば、選挙の際に票につながること必定との計算にたっての施策である。
 こうした状況について「天声人語」の書き手は、どう記すだろうか。
 多分「今の政治家は地元にのみ気を遣い、票を目当てに地域の事情にあまりにもこだわりすぎる。このグローバリズムの時代にあって、世界全体を視野に入れた哲学や理念を構想しえない政治家は、一国のリーダーたりえない。一国のリーダーたる者は、彼の哲学者タレスのように、足元よりも広大な宇宙・世界にこそ眼を向けるべきではないか」という類の記事をものすことも十分にありうるだろう。
 理念・理想と現実・現場を同時に満足させることは、至難の業である。
 そして「理念」と「現実」との関係の問題は、ひとり政治のそれに止まらず、すぐれて宗教(仏教)的な問題でもある。

二、「現場」における理念と現実の問題

 寺院現場における「理念」は言うまでもなく仏教の教義・教理であり、それは僧侶(住職)が拠ってたつ原理であり指針である。それなくして檀信徒や一般人への教化活動はありえない。
 これにたいしてここで言う「現実」は、多くの場合檀信徒や一般人の宗教的信心や意識を含む生活様式であり、それはしばしば僧侶が説き示す仏教の理念とはなじまない。あるいは矛盾する性格をもつ。この現場の「現実」は「民俗」と表現されることも少なくない。
 僧侶の教化活動は、したがって「理念」を踏まえて「民俗」に働きかけ、「民俗」を「理念」に化すことを目標としていることが多い。理念と民俗は一般に対立的に捉えられる。
 たとえば「縁起・空」の教えと、「霊魂・精霊」の信仰、あるいは「出世間」の思想と「世間」的感覚など。
 こうした理念と民俗との対立という問題は、仏教を含む普遍宗教、成立宗教または世界宗教には必ずと言ってよいほどに随伴するものであり、普遍宗教における教化・伝道活動は、実はそれぞれの宗教団体が抱える理念と民俗の問題の解決にあるとさえ言えよう。
 この仏教の理念と一般人の民俗との対立的関係を示す事例として、作家の瀬戸内寂聴氏と玄侑宗久氏の対談を引用しよう。
 瀬戸内「夜通し仕事したりするときに、疲れ果てて、ふっとため息をついたときなんかに、肩のあたりに温かい何かを感じるんですよ。自分の言葉では「気配」と呼んでいるんですけど、「ああ、あの人が来ているな」と思うんです。「今日は姉が来ているな」とか、「今夜はあの男が来ているな」とか。それで、何か、ふーっと慰められる」。
 玄侑「確かに、仏教的に死というものを考えた場合に、四大分離といって、死ぬと地水火風に分かれて、こっぱみじんになって、中陰の期間を過ぎれば個性を失うというふうになるのが成仏だと考えていますよね。けれども実際は成仏した後でも、その人の個性として思いますよね。
 仏教的には語るのが非常に難しいところだと思いますが。人情としても、実感としても、ほんとうにそうだと思いますね」(瀬戸内寂聴・玄侑宗久『あの世・この世』新潮社、二〇〇六、一部要約)。
 瀬戸内氏の語る内容、つまり身体に感じる「あの人の気配」は、今日でも多くの人びとが感知しているであろう超常経験の一種であり、この気配にラベルを貼ると「幽霊」とか「霊魂」となるであろう。これがここで言うところの「民俗的宗教感覚」である。
 これにたいして玄侑氏が述べる死者が四大分離してこっぱみじんになり、個性を失って成仏に至るという内容は、教学的には「無常・無我」とか「一切皆空」と表現できるであろう。「民俗的宗教感覚」にたいする「理念的仏教認識」である。
 僧侶と一般人が接する寺院の「現場」では、通常「理念」と「民俗」とが重なり合い混じり合うダイナミズムが見てとれるのだが、この現場の研究がきわめて少ないため、両者の相互関係を明示するような良質の資料を欠いているのが現状である。
 とは言え、現場における理念と民俗の矛盾または葛藤の相を示す事例がまったくない訳ではない。
 本『通信』5号で引用した事例であるが、具体相を示すため再び用いたい。「関西のある寺院で仏教講演会が開かれた。講演に先立って若い僧侶が挨拶した。いわく"霊魂なんてものはありません。仏教は本来霊魂を認めていないのです……"と。若い僧にすれば、宗門大学で教わった学問仏教の見解を、そのまま述べたのだろう。あるいはこれぞ正しい仏教であり、自分は迷信にまみれた旧来のあり方を正しているのだと考えたのかもしれない。
 しかし、その話を耳にした善男善女は茫然自失した。?じゃあ死んだら私らはどうなるんだ。ご先祖さまたちはどうなってしまっているのか?。その場にいた講師は激怒したという。若い僧侶が、善男善女が先祖代々つちかってきた信仰を、一瞬にしてぶっ壊してしまったからである」(正木晃「仏教の可能性」(15)、『大法輪』二〇〇六、二月号、一部要約)。
 「理念」が「民俗」を理解しようとせずに突走ると、思いがけぬ「宗教的混乱」を惹起させることの好例である。
 ではどうしたらよいか。先に引用した玄侑氏の発言をやや翻訳して表現すれば、こうなろう。
 「霊や魂(民俗)を仏教(理念)的に語るのは、非常に難しいことだと思うが、人情としても実感としても、民俗的宗教感覚は無視できない」。理念と民俗の両者とも欠かせないというのである。
 作家として活躍するとともに寺院の副住職を勤める玄侑氏の現場の思いには、それなりの重みがある。

三、「仏教文化」の現実的基盤としての「民俗」

 「仏教とは何か?」という問いが出されると、学生はもちろんのこと、インテリほどまず理念(教理)で答えようとする。「無常・無我」の思想は素晴らしいし、「現代科学」とも矛盾しないなどと主張する。
 科学は何よりも実証性を尊重するから、実証できない霊、精霊やあの世については常に腰が引けざるをえない。一方では「科学と宗教は次元を異にする」などと唱えながら、科学に絶えず遠慮した物言いをする。
 その結果、日本人が伝承してきた伝統的「民俗」は軽視されるか、「理念」に反するものとしてマイナスに扱われることになる。
 こうした動向は大学や研究所では「そのとおり」で通るだろうが、「現場」ではとおらない。なぜか。端的に言えば一般の人びとが僧侶や寺院に求めているのは「理念」よりも「民俗」であるからである。あるいは「民俗」に立っての「理念」であるからだ。
 「現場」の営為からすると「理念」と「民俗」が重なり合っているところ、そこが「仏教」なのである。
 この意味における仏教を私は 「仏教文化」もしくは「生活仏教」と呼んでいる(拙著『仏力―生活仏教のダイナミズム―』春秋社、二〇〇四)。
「仏教」の語がどちらかと言うと仏教の理念を意味するのにたいして、「仏教文化」または「生活仏教」という語は、理念と民俗、エリート性と民衆性の「複合体」を指している。
 どうもこれまでの仏教論の多くは、民俗や民衆性を軽視し、理念とエリート性を重視した姿勢で貫かれてきた嫌いがなくはない。
 この傾向は大学卒や大学院修了の僧侶が増加するにつれて強まった。
 かくして「いま僧侶、とくに青年僧は、頭では仏教の?教義?(理念)を考え、足はその教義と結びつかない?葬祭?(民俗)につけて生活しているという、この頭・脚分断の矛盾した現実に苦悩している」(伊藤唯真・藤井正雄編『葬祭仏教』ノンブル社、一九九七)という現状をもたらすにいたった。
 このように述べたからと言って、私は何も「理念」(教義)を軽んじている訳ではない。「理念」なくして宗教(仏教)が成り立たないことは、火を見るより明らかである。
 強調したいのは、世間の文化人やエリートたちの言動に伍して、現場の僧侶自身が葬祭をはじめ諸民俗行事・慣行に関わることに、ある種の「後ろめたさ」をもっていることの「非現実性」についてである。どうして非現実なのか。現実は次のとおりだからである。
 曹洞宗檀信徒がお寺を訪ねる理由は、(1)「葬式・法事をお願いするとき」六五・八%(「葬式・法事に参加するため」八一・一%)、(2)「仏教の教えを説いてもらうとき」三・四%、(3)「困ったときや悩んでいるとき」一・六%(『宗教集団の明日への課題』曹洞宗宗務庁、一九八四)である。
 このパーセンテージを、これまで述べてきた「理念」と「民俗」に割りふると、さしずめ「理念」系が一〜三%であるのにたいして、「民俗」系が実に七〇〜八〇%ということになる。
 すなわち現場にあっては、「理念」は「民俗」の上に乗っかっている、あるいは「民俗」が下から「理念」を支えているという事実は明白である。
 かくして仏教者は「理念」(教義)と「民俗」(現実)を対立的にのみ捉えては不十分であるということになる。不十分どころか下手をすると寺院現場を支えている宗教的基盤をみずから崩すことにもなろう。
 そこでどうするか。この問題についての説得的な学説にはお目にかかっていない。「理念」と「民俗」の両者のダイナミックな関係に関する調査・研究はこれからと言うのが現状であるからだ。
 まずは各地の寺院「現場」に展開する「生活仏教」のいろいろな局面を仔細に把握し、そのダイナミズムの構造と機能を包括的に理解することが欠かせない。
 「理念」と「民俗」の相互関係(生活仏教)の特性が明らかになれば、逆に「民俗」から「理念」へのアプローチがいかにして可能かという問題へと進むことが可能になろう。
 この手続きは、「葬祭(民俗)になぜ僧侶(理念)が必要か(欠かせないか)」という問題への答えと密接に関わっていることは、言うまでもあるまい。