座談会「曹洞宗の今と明日を考える」
現代仏教教団の可能性
―既成仏教教団を活性化するには

出席  島田 裕巳/宗教学者。東京大学先端科学技術センター特任研究員
     吉岡 棟憲/福島県・円通寺住職
     藤木 隆宣/仏教企画代表

 このままだと三十年後には曹洞宗を含め日本の既成仏教教団はなくなるという人もいる。だから今、がんばらなくてはいけないと言うわけだが、では、曹洞宗門をどう活性化すればいいのか、という点になるとどうもはっきりしない。
 そこで今日は、世間一般がどのように既成教団、曹洞宗を見ているのか、新宗教にも造詣の深い島田先生にご出席いただき、曹洞宗の位置、それを活性化する方法について語り合った。


急激な習俗の変化をもたらす家社会の崩壊

吉岡 私は福島県の宗務所長で四百七十三の寺を預かっていますが、最近は田舎でも法事会館といったものがつくられ、そこにお坊さんが来てお経を読み、すべて葬祭業者が取りしきって参会者のための食事などを手配するようになっている。お墓も寺墓地ではなく霊園が増えている。だから、寺に来る必要がなくなってきている。
 こうしたお寺離れを危惧してわれわれは「お寺を活かせ」というテーマで、各寺院に呼びかけているのだが、いまだ関心度は低い。それは、やはり檀家制度に甘えてしまっていて、何があっても檀家は離れないと思っている。そこに安住している間は、活性化はないのではないかと憂慮しています。

島田 いろんなことが今起こっていると思いますが、現状では大部分の寺院はいまの状況に安住しているわけですね。葬式というものはなくならないわけだし、これからむしろ亡くなる方が増えていく。

吉岡 団塊の世代が老年を迎えるわけですからね。

島田 ところが今までにない事態が訪れようとしているなと思うのは、葬儀も含め、今は習俗というのが思っているよりも早く変わる時代だということです。
 一例を挙げると、都会では結婚式で仲人を立てないのが普通になっている。普通これだけ早いスピードで、習俗というのは変わらないものですが、ここ十年ぐらいの間に、都市部では仲人というものが結局なくなってしまった。
 その裏にいったい何が起こっているのか。葬儀でも、最近では家族葬、今まで密葬といわれていたものが増えて、葬儀の規模が小さくなっている。中には、火葬場直行という例も出てきている。一応最後に読経はしてもらうようですが、従来の形での葬儀というものは社会から敬遠され始めている。

吉岡 そうですね、すでにそういう変化が始まっている。

島田 従来の葬儀の習慣を、日本人はもう四百年くらい続けてきたわけですが、それが特にバブルの崩壊以降十五年ぐらいの間に大きく変わってきた。ということはこれからの十五年、三十年を考えると、相当な変化が起こる可能性がある。
 これまで、日本人はほかの国に比べて葬儀に異常なほど金をかけてきた。ヨーロッパなどでは日本の十分の一以下くらいの費用で葬儀をやっている。日本人はそうした日本の特殊な状況を当たり前だと思っていたのだが、だんだんそんなことはしなくなってきた。
 その背景にあるのは家族関係の変化が一番大きい。日本の社会は家というものを基盤にしてずってやってきた。ところが結婚式が変わり葬式が変わるというのは、その家社会というものが根本的に変化しようとしているのではないかということです。これからは家というものを単位としてなりたっていた習俗があまり必要ではなくなる。
 宗教がどうのこうのという前に、社会がそれだけ大きく変わってきている。家族、団体、組織といった今まで日本の社会を支えていたものがどんどん解体して、人と人とのつながりが弱くなってきているわけです。
 これは政治の問題とも関係していて、選挙のときの支援母体になっているいろんな組織が軒並み弱体化して無党派層というものが生まれている。私が研究対象としている創価学会の場合は、まだ組織としての結束力があるから、選挙などでは突出して目立っているわけですが、これも相対的なもので、創価学会とか新宗教が伸びているかというと、そういうことはない。
 今の日本の社会で起こっている家離れ、組織離れみたいなものが根本的なトレンドとしてある。今後、少子化とか高齢化がますます進んでいくと、それに拍車が掛かる。そういう基本的な流れというものが、今後いったい何を巻き起こしていくかということが問題でしょう。

脆弱な寺院の経済基盤を支える葬式仏教

島田 仏教と日本人の関係というのは、時代によって変化してきている。だから、今の仏教はいったいどういうポジションにあるのかをまず考えないといけない。
 もともと日本の仏教というのは飛鳥時代くらいに入ってきて、よく言われようにそれは国家仏教だった。しかし、それは単に国策だったというだけでなく、天平時代には仏教に対する激しい情熱みたいなものが日本人の中にわき出てきている。東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺といった大規模な寺院が建てられ、そこに納められる仏像にも莫大な費用がかけられた。それは一面では、公共事業の先駆けかもしれないが、それだけの経済力を惜しげもなく仏教の世界に投入している。当時の仏教の流行というのはすごい。
 ところがそのころの仏教は死者とは何の関係もない。奈良のお寺は檀家もないし、住職が亡くなっても自分のところで葬儀はしない。今でも法隆寺などでは住職が亡くなると、確か浄土真宗のお寺で葬儀を上げてもらいますね。そんな風に日本の仏教は今の葬式仏教とはまったく違うものとして始まった。
 葬式仏教になったのには、曹洞宗が非常に大きな役割を果たしていると思いますが、当初、葬式仏教の先駆けみたいなものがあって、それが江戸時代になって本末関係とか寺檀関係が定められて、みんながお寺で葬儀を上げてもらうことを当たり前のようにやるようになった。
 それから四百年の歴史があるわけですが、かつては寺領もあり、寺院には経済力があった。ところが明治維新の際に寺領を取り上げられたり、農地改革によって小作地を失い、経済的にいえばかなり弱体化した。お寺というのは生産の場ではなく消費しか基本的に行われないわけですから、その消費をどうまかなうかというときに、葬儀によって上がる収入でしか寺は成り立たなくなった。そこに、今日の問題の一番の根源があり、そこから戒名問題なども出てくる。
 ですから、お寺さんにとっては、ちょっとかわいそうな部分もあるわけです。伽藍を維持するにしても経済的な基盤なしにはできない。よく宗教法人は税金を取られない特権があると言われるけれど、学校法人などと違って公的な補助もないわけですから。

藤木 まさにそのとおりですね。

島田 税金なんか取られたら、寺の収入なんてすぐなくなってしまうわけで、特権だと言われているものは実はそれほどのものでもない。経済的な基盤が弱いから葬儀というものにどうしても頼らざるを得ない。しかし、日本人はそういう流れを受け入れてきたというか、そういう方向にむしろ動かしてきたとも言える。
 仏教だけの問題ではなく、どの宗教でも、経済基盤がそれほど確固としてあるものではない。例えばドイツでは教会に対して税金で補助をしている。そういうようなところと比べた場合、日本の宗教は特に近代になってから、かなり軽視されてきた面があるのではないか。
 ですから檀家のほうも、寺の経済基盤の問題に関して考えないといけない部分もある。寺院の側では経済基盤の弱さを抱えながら、それに対してどうするかということを議論してこなかった。お葬式さえやっていればという、ある意味で幸福な時代が成り立っていた。
 それは日本人が豊かになったからで、お葬式にもお金を出せるようになったから、戦後になってもお寺は維持できた。本当だったら、農地とかを取り上げられてしまった時点で、お寺は弱体化して滅んでしまってもおかしくなかったのが、高度経済成長があったから奇跡的に残ってきたというふうにも考えられる。

吉岡 キリスト教ですと、信者の人は収入の一割は献金するとか。

島田 一応、建前ではね。

吉岡 日本の地方のお寺さんでは、誰が護持していくのかということになると、献金はないし国からの補助もない、頼るものはやはりお布施ということになる。でも布施というのも、結局はお経を読んだ対価のようなもので…。

島田 そういう寺院の経済基盤のことに関して、ぼくはお寺さんがたはもっと言いたいことを言っていいと思うんです。たとえば檀家さんがお寺に行ったときに、お寺が掃除も行き届いていなくて汚かったら、何だって思うわけですよね。だけど、日々それだけのメンテナンスをするということは、それだけ費用がかかるということであって、お寺というものはやはり檀家によって経済的に支えられなければ成り立たない。

吉岡 そうなんです。ところが一般にそういうとらえ方がないんです。

世襲制度に秘められた大きなメリット

藤木 曹洞宗は全国に約一万五千ヵ寺あるんですが、その収入の格差たるやすごい。都市部の裕福な寺院と、地方で学校の先生をしたりして、なんとか寺を維持しているようなお寺との格差ですね。これでは、貧しい寺では優秀な人材が寺から出て行ってしまうということが懸念される。

島田 日本が家社会だったということは「家業社会」だったという面がある。お寺さんも家業だという言い方をすると失礼ですが、基本的にはそうですよね。 商店でも町工場でもみんな家業で続いているし、あるいは国家公務員の高級官僚と言われている人もどうして官僚になるかというと、父親が官僚だったから官僚になれと言われてなるケースが多い。
 もっとも最近は公務員叩きというのもあるし、官僚になってもそれほどのメリットがないということで、国家公務員の人材難ということが進行している。その意味では家業としての警察官とか自衛官とか刑務官も今弱くなっているという側面もあるにはあるが、しかし、家業として続いてきたのは、やはり家の中でしかそういう職業的な倫理観が育てられないからですよね。
 僕らの世界でいくと学者も家業ですよ。まず親が本をたくさん持っているとか、教育環境があるとか、家庭の中で何となく教わるものというのが大きい。そうしたものが今、どんどん崩れてきているわけです。

藤木 今は、お寺でも高級官僚でも、職業に対する目的意識が上がらないということがあると思いますね。曹洞宗が、これから二十一世紀の後半に向かって、集団としてどうあらねばいけないかということが全く見えてこない状況では、若い方が家業を継ぐという意識がますます薄くなっていく。

島田 スポーツの世界でいえば日本のスポーツは実業団が支えてきた部分が大きい。ところが今、企業がスポーツにお金を出せなくなったので、実業団が弱体化している。そうなると、どうなるかというと家に戻っているわけです。ゴルファーの一家とかボクシングの一家とか、フィギュアスケートとか野球なんかもそうですよ。家を基盤にして親が熱心に育てないとスポーツ選手も育たない。

吉岡 そうするとよく、今の日本仏教を駄目にしたのは世襲制度だといわれるのですが、家業としていい子を育て、いい後継者としてつなげれば世襲もそれなりにメリットがあるということですね。

島田 世襲制度というのもいろんな形態がある。例えば政治家の世襲というのは、後援会組織の上に議員が乗っかっている。後援会組織というのはお寺の檀家と似てますね。
 公明党の場合だと世襲議員というのはないんです。創価学会の組織がつよく、個人の後援会を持っていないから、公明党の議員は子どもに継がせるわけにはいかない。そんなことをしたら、学会員に怒られてしまう。
 しかし、一般に世襲は無意味かというと、やはり世襲でしかつながらないものもある。お茶の世界、歌舞伎、能、あるいは職人の世界だって、伝統文化の社会は世襲でつながっている。このパワーを無視することはできないわけで、世襲だと何でも悪いのかというと、そうではない。 
 議員でも、二世議員のほうが基盤が安定しているから、悪いことはしないという部分もある。今、首相になる人はみんな、二世、三世、四世で、今度、安倍さんが駄目だったら、麻生さんになるかもしれないが、麻生さんの家系とかはすごいですよ。代々の首相につながっているし、妹さんは皇室に嫁いでいるし、すごいバックグラウンドがある。そういうバックグラウンドがあるからこそ、あんまり悪いことをしないとか、政界のいろんなことをよく知っているとか、人のネットワークがあるとかということで、要職につく政治家として悪くなかったりするんですよ。

吉岡 それを聞けば、曹洞宗の世襲批判に対しても、われわれはちゃんと答えられま
す。

曹洞宗と創価学会に根本的な違いはない

藤木 曹洞宗のような既成仏教が新宗教からも学ぶべき点も多いと思うんですが。

島田 そもそも、曹洞宗は既成仏教、創価学会は新宗教というようなとらえ方は、僕は必ずしもそう言えないのでないかと思う。曹洞宗はほんとうに既成仏教なのかな? ということがあるんですよ。
 なぜかというと、奈良時代に、南都六宗と言われるいろんな宗派が出てきますよね。それは、その前の仏教とはかなり性格が違って、国家とか貴族によって支えられていた。東大寺とかは荘園とかをたくさん持っていてすごい経済力があった。それが逆に国家を支える中心みたいな役割をしていた面もある。それがその後、真言宗と天台宗によって若干変わってくるわけですが、それでも国の力というのはかなり入っている。
 鎌倉時代になって、天台の系統から新しい宗派が次々と出てきた。それらは、そのころは新興宗教ですよ。そうした新仏教が七百年くらい経って既成化したのかというと、やはり、それより前の仏教とは違う。というのは、曹洞宗でも日蓮宗でも財力を持たないところがほとんどです。浄土真宗の場合、ちょっと特殊な事情があったりするけれど、とにかく観光寺院としてやっていけるだけの規模というか、お金をかけたもの、文化的なものを持っていない。だから、自分たちの力で宗教活動をして、自分たちの組織を維持していかざるを得ないという体制を、この七百年間ずっと続けてきた。
 たまたま、江戸時代に寺檀制度ができて、財政的な基盤ができたが、それも結局また奪われて、今は檀家関係だけが残っているという形ですね。そう考えると、曹洞宗などは本当に既成仏教と言っていいのかなと思う。じつは新宗教としての性格をずっと持って今日まで来ているのではないか。
 創価学会の場合、今は切れているが日蓮正宗と結びついていて、もともと既成仏教教団の在家集団、講なんですよね。その性格をずっと、創立以来一九九○年ぐらいまで持ってきた。ですから、それも新宗教と言っていいのかどうか。教義の中身だって、日蓮の教えであって、そこから離れることはできない。曹洞宗と創価学会というのは、出家と在家とという違いはあるにしても、基本的には、そんなに違わないのではないか。
 そうした認識をいわゆる既成仏教と言われている人たちも持っていいのではないか。違うのだと最初から決めつけるのではなく、ある種、同じ系統の中にあるということです。もちろん、それ以前の東大寺などとは違う。だけど、曹洞宗と創価学会というのはそんなに遠くない。曹洞宗だって檀家がいて、出家がいるという構造ですよね。創価学会だって、その関係でずっとやって来ていた。
 創価学会以外のほかの新宗教だと、従来そういう関係を持っていなかったのですが、最近は立正校成会も天台宗と密接な関係をもったり、解脱会とか真如苑は真言宗と密接な関係を持っているし、霊友会は身延山との関係を持っている。日本の仏教系の新興宗教は在家集団でありながら、必ずどこかで出家集団と結びつく構造を持っている。曹洞宗には、ただ、その新宗教的な部分がないだけです。

曹洞宗が持つ強力な武器とはなにか

藤木 根っこは同じなのに、曹洞宗の場合、出家という建前に固執して在家教団としての広がりをもたなかったということですね。

島田 それがいいのか悪いのか。単純に新興宗教と既成仏教というとらえ方よりも、もうちょっと日本の仏教史を見て、その複雑な経路を押さえたほうが問題が見えてくる。
 創価学会の場合、日蓮正宗との関係が切れて弱くなっている。月例登山会をやって、年間二百万近くの人たちが大石寺に行って結束力を高めていたのが、今はお参りに行けない。
 曹洞宗と今の創価学会は反対の方向性にあって、曹洞宗は大規模な新宗教を持たない珍しい出家集団で、創価学会は逆に出家集団を排除した集団になっている。反対ですけど、状況がちょっと似ているのかもしれない。
 日蓮系の教団は昔から在家の人たちの講の組織が強かった。江戸時代には、京都でも江戸でも町衆が法華講というのを組んでがんばってやっていた。ところが曹洞宗には、宗派の性格なのか歴史的な経緯なのか分かりませんが、そういうものができなかったし、今でもない。

藤木 その点で、曹洞宗は今、悩んでいて、現実にお坊さんも結婚してその子供が寺の後を継ぐということで在家仏教化しているにもかかわらず、考え方は出家主義のままです。ですから曹洞宗総合研究センターでも、在家の人にどう仏教を説くかということがなかなか組み立てられない。

島田 曹洞宗というのは、どういう宗派なのかということはありますね。曹洞宗の特徴というのは、一つはもちろん禅ですよね。道元という開祖がいて、道元に対する思想的な評価はかなり高いものがある。修行ということで言うと、映画になったり、ドラマになったり、メディアに取り上げられていて、そういうものに対する関心は世の中に高い。
 それから、曹洞宗は日本の葬式仏教の一つのモデルをつくった。葬式仏教の流れの中心にあるということで、そういう意味では非常に強力な武器を持っている。

吉岡 引導とか喝というのはみんな魅力的だと言いますね。島田 ぼくはいろんな宗派に呼ばれてお話をしますが、曹洞宗の僧侶の方はみな衣を着て剃髪されている。日本の仏教の中でそこまで徹底しているのは曹洞宗だけですよ。
 行も儀礼も持っているし、結婚しているうんぬんということはあっても、出家というモデルになる役割を曹洞宗は持っている。そこが生かされていないということがありますね。

日本人の仏教とのかかわりはお墓と仏壇

藤木 たしかに姿形とか雰囲気的に見たときに、曹洞宗にはとてもいいものがあるけれど、具体的にいろいろな社会問題にリンクする点では弱い。現実と遊離した集団になっているのではないか、僧侶自身もまたそうなっていないかということを危惧するわけで、今後、どう布教して言ったらいいか問題がある。

島田 その点に関していうと、基本的には、日本の仏教というのは、布教して広まったのかというと、多くは布教と関係ないんです。
 ほかの宗教でも布教というのは重要なものではなく地域、国、民族だとか、みんななってしまえば子供たちも自然になっていくみたいな形で維持されている。イスラム教でもキリスト教でも基本的に布教活動をするわけではない。アメリカ人でも、自分の家がプロテスタントの何派だからそれに属するというだけで、教会との関係は日本の檀家関係と一緒ですよ。

吉岡 日本にキリスト教の宣教師が来て布教しても、めったに入信しないですからね。

藤木 しかし、創価学会でも立正校成会でも真如苑でも霊友会でも、何らかの形で信者を増やす努力があって、ここまで来たんでしょう。曹洞宗の場合は寺檀関係というものがあり、お寺の周りにお墓があってということで布教の必要がなかった。それが特に戦後、都市化の波と同時に人口移動が起こり、お寺とのかかわりを持たない人たちが増えてきて、そこを食っていったのが新興宗教ですよね。そこには布教というものが…。

島田 なぜ戦後、新宗教が増えたかというと、都会に出てきて、檀家関係がなく、自分の家に仏壇がない人たちがたくさん生まれたからです。やはり仏壇がないということの不安があって、仏壇を祭らせる運動として創価学会とか立正佼成会、霊友会などの運動があった。創価学会の場合だと日蓮の記した曼陀羅を仏壇の本尊として祭る。霊友会、立正校成会だと家の名前、先祖の戒名を全部書き出してそれに総戒名というものにして仏壇に祭る。
 要するに日本人の仏教との直接のかかわりというのはお墓か仏壇なんですよ。それ以外にない。曹洞宗でもし布教をなさるんだったら、お墓を増やすか、仏壇を増やすか、その二点です。仏壇が家の中にあり、それにともなって教えが入っていくという態勢をつくらないと、ほかのことをやったって無理ですよ。物を媒介にしないと、やっぱりできないと思う。

藤木 やはり先祖崇拝的なものが日本人には一番身近なんでしょうね。

島田 いや、もう先祖崇拝の時代じゃないですよ。家という意識が壊れ個人化している状況だと、ご先祖といっても身近な知っている人しかご先祖として意識されない。だから、仏壇を媒介にして檀家関係をつくり、お寺に来てもらう機会をどうやってつくっていくかということだと思います。
 今、みんな仏教に対して関心があるのだから、それに応えていくには、どうしたらいいかということだと思います。

曹洞宗らしさを追求すれば道が見えてくる

吉岡 その点で、われわれお坊さんが一般の関心に応えていないとよく指摘されます。お経を読むだけでは駄目だとか。

島田 でも、お経は読んでくれないと、困りますよね。

吉岡 そうです。お経は安心につながるし、布教の一番の部分だと思う。

島田 みんな、わざわざ声明とか聞きに行くわけでしょう。だから、そういうものが嫌いなわけじゃない。

吉岡 僧形だって、美しい。

島田 格好いいという意識はみんな持つんじゃないですか。それなのに、それにいろんな意味付けをしたり、具体的な教えに結び付けようとかするから物事が難しくなる。

藤木 われわれは、どうも、そっちのほうに陥りがちです。

島田 どの宗派でも僕が見てる限り、それは無理です。たとえば、宗教が平和運動と
か言ったって無理ですよ。
吉岡 曹洞宗では人権、平和、環境と言っているのですが…。
島田 しかし、では北朝鮮の核をどうするかと言っても、曹洞宗には何もできないでしょう。

藤木 でも、宗教家が、社会情勢をよく知ることも必要では…。

島田 いや、知らなくてもいいんじゃないですか。得手不得手というか、役割を考えれば出家なんですから。

藤木 その辺なんですが、われわれ曹洞宗宗侶はもう在家感覚でいるほうがいいと思っているんですが…。

島田 出家という意味だっていろいろある。世の中に対してちょっとした距離を置く、今の流れとか経済活動とか社会活動、あるいは政治とかに対して距離を置く。そういうことのほうが僕は大切なんだと思う。

吉岡 われわれはつい、社会と融合しなくてはいけないとか、社会の先頭に立たなくてはと考えてしまうのですが…。

島田 社会参加する仏教という流れが確かにあるかもしれないけれど、それは例えば、タイとかスリランカでは仏教者は知識人としての役割があるでしょう。しかし、日本は先進国で専門家がそれぞれいるわけですから、僧侶の役割も限定されてくる。

藤木 そうすると、逆に、われわれ仏教者の専門性をしっかり見つめる事が大事だと言うことですね。

島田 絶対そうだと思う。お寺さん、お坊さんにしかできないことはいったい何なのかということを考えるべきでしょう。
 例えば、政治家が仏壇を祭る運動をやると言ったら、それは政教分離に違反すると言われてできない。学校で先生が、仏壇は尊い日本の文化だからみんな祭りなさいと言ったら、これは批判されますよ。ところがお坊さんがそう言ったって全然問題ない。極端に言えばそういうことで、それぞれ役割があるわけです。 ですから、曹洞宗の一番の強みは、今の日本の宗派のなかで一番お坊さんらしさを保っているというところにあるわけですから、それを生かすことが大切なのではないでしょうか。

(平成十九年七月十三日収録)