『正法眼蔵』 道心の巻より(7)
長崎県天祐寺 須田道輝
花を見て仏をおもい六根を通して三宝を念ずる心を養う
六根にへて三宝を供養したてまつり、となへたてまつり帰依したてまつらんと、ふかくねがふべし。またこの生のをはるときは、ふたつのまなこたちまちにくらくなるべし。そのときをすでに生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏をとなへたてまつるべし。このとき十方の諸仏、あはれみをたれさせたまふ。縁ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にうまれ、仏前にうまれて、仏ををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり。
臨終の一念帰依の浄心は生涯の悪業さえも変える
「六根にへて三宝を」とは、六根を通して三宝を供養することです。例えば花を見ては仏を憶(おも)い、仏を念ずる、鐘の音をきいては三宝の徳を思い、香をかいでは三宝のみ名をとなえるというように、六根を通し、全身をあげて、つねに三宝を念ずる心を養っておくことの大切さを示しています。
「この生のをはるとき」 経によれば、死が間近にせまると、まず目の前が暗くなり、眼識がとざされ、つぎに耳が遠くなり耳識が失われ、鼻識、舌識、身識がつぎつぎと消滅して、そして死を迎えるのです。
生まれるときは、これとは逆に、まずかすかな識が開かれ、つぎに触れて反応する身識、そして鼻識、耳識が働き、最後に眼識が開きます。これは生命の知られざる営みというほかありません。
仏教の唯識説(ゆいしきせつ)から考えると、「生」とは認識をこえた潜在心(アラヤ識)に蓄えられている理念(種子(しゅうじ))が、縁にふれて開花していく過程です。その識が閉ざされるのを「死」といいます。宗教的に考えると、識という高度な営みは、死とともに消えてしまいますが、認識のできない潜在心は「生」と「死」との深奥にあって、変動するものではありません。つまり生死を支え、しかも支えられている不生不滅の潜在心です。
『虚空蔵菩薩経(こくうぞうぼさつきょう)』のなかに「命のおわる時、眼は色を見ることなく、耳に声はなく、鼻は香り、舌は味を、身は触覚を失い、諸根は一切用(はたら)きがなくなり、ただ微識(びしき)と身のかすかな温のみがのこった時、菩薩は衆生の因縁にしたがって、その身を現し、仏法を説く」
と述べております。つねに仏菩薩を念ずる者には、死に臨んで、微識と暖温がのこっている間に、仏菩薩が姿を現し、仏法を説き、悟りにいたらしめて善導するということです。
「ふたつのまなこ」 つまり両眼が暗くなって、何も見えなくなったならば、生の終わりと知って「南無帰依仏」と唱えよといわれます。この純粋な帰依心は、三宝に感応し、十方の諸仏はかならず救い給うとのべられます。
「帰依三宝」には、臨終の一念帰依()いちねんきえの浄信は、生涯の悪業さえも変えてしまうとのべ、その一例を『増一阿含経(ぞういちあごんぎょう)』を引用してのべておられます。
あるとき天界の刀利天子(とうりてんし)(帝釈天(たいしゃくてん)の子)が、頭上の花がしぼみ始め、いよいよ寿命がおわりに近づいていることを知りました。天上界の天子には、死後のことが見透すことができる独特の通力がありましたので、刀利天子は瞑目して〈死後何に生まれかわるか〉を念ずると、六道界の母胎に宿ることがわかりました。天子はそれを知ると、その場で泣きくずれてしまいました。
その声を聞いた天帝は、彼を呼びよせ「六道界に転生(てんしょう)したくなければ、死に到らぬうちに、三宝に帰依しご加護を祈りなさい」と教えますと、天子は素直な心で〈南無帰依三宝〉と一心に念じたところ、宿命をこえ、仏前に生まれたことをのべ「帰依三宝の功徳はかりはかるべきにあらず」と、その信心のすぐれていることをのべております。
つまり宗教的にいえば、一念帰依の浄信は、仏と同じ心となり、その刹那に迷いの業が消えて、仏前に生まれるということです。