名物和尚の誌上説法
兵庫県弘誓寺住職 能勢隆之

能勢隆之
昭和十九年兵庫県生まれ。
駒澤大学大学院卒業。
永平寺安居。
昭和四十八年より弘誓寺住職。



変わらない真実 人間とお経 ─自分中心からの解脱─

  「経」とは織物の「たて糸」で、「変わらない真実」を意味します。織物を織るとき、たて糸は動かさないからです。
 お釈迦さまの言葉は永遠に変わらない真実ですから、「お経」と言うのです。
 更にもうひとつ「変わらないもの」、それは実は「人間」です。人間の基本は今も昔も変わりません。
 「人間」が変わらないから、「教え」も変わらない。だからお経は、モデルチェンジもバージョンアップも必要ないのです。
 どう変わらないか。それは、人間は「自分中心」に生きる者であるということです。 これは変わりません。
 人間は「皮一枚」の内側を他の一切から区別して、それを「自分」と認めます。そ してその上で、「自分」に益するものを追い求めて取り込み、害するものを排除する活動を始めます。これが「生命活動」です。
 人間だけではなく、全ての生命は、この活動によって生命を保ち、これをやめることは、生命活動の停止に他なりません。
 「自分」を中心に、「自分の思うとおり」にしよう。これが「自分中心」という生 き方に他なりません。これが私たちの「行為」の原動力であり、生命活動の原則です。
 この原則によって為される生命活動は、争い・競い合いが絶えません。エサを取り合います。オレとオマエとどちらがエライか。兢い合って、自分が傷つかなければ、相手が傷ついています。
 傷つきながら、罪を作りながら、苦しみ悩み、あえぎながら生きざるを得ないのです。
 この生き方を私たちは「肯定」しているでしょうか。「否定」しようにも選択の余地はありません。苦しく罪深くとも、これをやめれば、生きることをやめねばなりません。
 にもかかわらず人間は、この生き方をどこかで「否定」したいのです。そんなことできるわけがないと、開き直り、締めながらも、人間はどこかで「そうでない生き方」 を求めているのです。これは「人間だけが持つ」、「不思議な」「深い心」です。
 「仏教」はここから始まります。お釈迦さまの求道(ぐどう)の出発は「苦」から の「解脱(げだつ」ということでした。 「苦」も「罪」も、「自分中心」から生じます。自分中心に生きざるを得ない人間 は、苦しみ、傷つき傷つけ合いながら生きざるを得ない。何と痛ましいことか。それを克服する道はないか。
 求道のすえ、ブッダガヤの菩提樹の下で坐禅をして正覚を得られたお釈迦さまは、 そこから「解脱」する道を得られたのです。
 それは「火中の蓮」に譬えられます。水中に咲く蓮が、火の中に咲いた。自分中心 に、罪深く苦しんで生きる以外にない人間に、「そうでない」道が見出されたのです。
 正覚を得られたお釈迦さまは、ベナレスの鹿野園に赴き、求道を共にしてきた五人の修行者に向かって、次のように言われます。

 耳を傾けよ。不死が得られた。われは教えるであろう。われは法を説くであろう。 汝らは教えられたとおりに行うならば、久しからずして、(略)無上の清浄行の究極 を、この世においてみずから知り、証し、体現するに至るであろう。 (中村元選集二『ゴータマ・ブッダ』二三六頁)。

 みずみずしい言葉です。この教えは、「人間の心を持たなければ、聞くことはでき ません。私たちはこの教え(お経)を待っていた。そしてそれを聞くために、「人間」 に生まれてきたのではないでしょうか。