『正法眼蔵』 道心の巻より(8)
長崎県天祐寺 須田道輝
この世の心の在り方が後生につながる
眼のまへに、やみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依をとなへたてまつ
ること、中有までも、後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生生世世
をつくして、となへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。
これ諸仏菩薩のおこなはせたまふみちなり。これをふかく法をさとるともいふ。仏道
の身にそなはるともいふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし。
私たちの生命は刹那に生と死をくりかえす
眼の前が暗くなり、なにも見えなくなったならば、臨終の間近であると覚悟して、微識が消えるまで、たゆまず南無帰依三宝をとなえつづけ、念じつづければ、その一念帰依の功徳力は、中有までものちの生にいたるまでも存続しつづけると、説かれます。眞の生命は形がかわり、姿がなくなっても、とぎれることなく「働き行くもの」です。これを「念々代謝して間断なし」といいます。
刹那に生滅する命でありながら、後念は前念とは異なっていても、一類の命を相続していくと考えるのが、仏教の生命観です。慈雲尊者は「前念(まえの命)と後念(あとの命)とは、同じとも異なるともいえないが、後念はかならず前念に相似す」といわれます。
つまり今日の自分は昨日の自分に相似して相続する命です。ですから臨終のよい一念が、中有のよき姿(意成身)になると説くのは理にかなっています。この世の心の在り方が、そのまま未来の心の在り方と相似して出現するわけです。
私たちはどうかすると、自分ひとりを中心として「死」「死後」を考えがちですが、そうとらえるとそこに「死んだら終わり」という考えも生まれます。それは生きることに対する否定であり、自分の人生に対する無意味さを主張するようなものです。
生命を考えるとき、宇宙法界全体の働きから生滅を考えなければなりません。私たち生命体はたくさんの縁の力によって支えられ、かかわり合いながら生き、そして死滅しているのです。いわば法界全体として生死している存在にほかなりません。
『帰依三宝』には「しかあれば、すなはち身心いまも刹那々々に生滅すといえども、法身かならず長養して菩提を成就するなり」とのべられております。刹那とはクシャナといい、もっとも短い時間の単位をいいます。私たちの生命は刹那に生と死とをくりかえすのですが、全体としての法身には、生もなく死もなく、ただ縁にしたがって相続するのみです。
「仏果菩提」。三宝を口にとなえて仏果(成仏)をうるまで、怠ってはならないとのべられます。見田宗介先生(東大)がインドに行かれた時、たいへん感銘されたことがあったといいます。それはインドにはたくさんのアシュラムという道場があって、その導師をグルといいます。グルは話をする時もあり、話をしない時もありますが、信者たちは「グルの話を聞いた」とはいわないで「私はあのグルを浴びて(ダルシャン)きた」と表現するそうです。グルと一緒にそこにいるというだけで、グルの人徳が光のように広がり浴びるという意味です。その光に触れることが、宗教的にいえば無意識の感化にほかなりません。
つまり、仏法僧を口にとなえ、念ずることが、そのまま仏法僧の功徳を浴びる(ダルシャン)ことになるのです。道元禅師が「この帰依仏法僧の功徳、かならず感應道交するとき成就するなり」と示されておられるのも、この意味です。
「法をさとるともいふ」仏法僧を念じとなえることが、そのまま仏果菩提であり、深く三宝に帰依する心がそのまま「さとり」の境界なのであって、何かとくべつの修行がなければ「さとり」の境に入ることができないというものではないと示されたのです。何のはからいもなく、純粋に仏法僧を念じとなえる行動が、仏法の理窟をのべる者より、すぐれていることをのべられたものです。