特集座談会
音楽と宗教
歌の原点に宗教あり
お経の響きと意義をめぐって
宗教儀礼に於いて、音楽的要素は欠かせない。まさに、音楽と宗教は密接に重なり合っている。そこで今回は、大阪芸術大学教授の中山一郎氏、声楽家のきむらみか氏、そして駒沢大学名誉教授の佐々木宏幹氏の3人から、音楽と宗教について語っていただいた。
人を感動させるとは一体、どんなことなのか? 人に何かを教えるとは一体、どうすることなのか? それは、琵琶盲僧・永田法順という人物を語ることにより明らかになる。
中山一郎
1940年、金沢市生まれ。
69年大阪大学大学院修了。工学博士。専攻は音楽音響学。
96年から大阪芸術大学教授。
きむら みか
声楽家。芸大在学中に出逢った野口体操、三木成夫生命形態学、等の身体&生命観を下敷きに、コトバとウタの観かたを提案。
フェリス女学院大学生涯学習課講師。
佐々木宏幹
1930年、宮城県生まれ。
66年東京都立大学大学院修了。文学博士。専攻は宗教人類学。
現在、駒澤大学名誉教授。
宗教と音楽の起源
その謎を紐解く文字
佐々木 「仏」という言葉には二通りの読み方があります。ひとつは「ブツ」と読み、意味は仏教教義学で説く覚者。もうひとつは「ホトケ」と読み、死者の霊魂や先祖の霊を意味します。この二つが学問的に整理できないまま重なっているのが、今の日本の仏教の姿なのです。
きむら 「歌」の文字の起源は、「哥」と「欠」。「欠」の方はもともとアクビ(欠伸)の意味で口を大きく開いている人の象形ですが、篇の部分を作っている「哥」の方は「可」
が二つ。「可」の中に、「口(サイ)」の字が入っているでしょう。「口(サイ)」というのは、神様との交信に使う神聖なコトバを入れておく神器のことだそうです。
佐々木 漢字学者・白川静氏の書籍にも「歌は本来、神に祈りを捧げ問いかける言葉が、祝詞である」と書いてありますね。
きむら はい。その「口(サイ)」という神器の上に「丁」がくっつきますが、こちらは柄付きのムチの象形です。つまり、巫女さんが鞭を持って「口(サイ)」を叩いていることを表します。それも二人か、それ以上で。
佐々木 なるほど。
きむら 「口(サイ)」というのは神様のコトバと自分のコトバをつなぐ、つまり神様と自分自身をつなぐコトバが入っています。それにむかって鞭を打つのは、神様を恫喝するようなすごい行為です。お祈りを聞いてくれるかどうか。ご神託だったら、神様の言ったことは本当なのかウソなのか、人間の方から本気になって確認するのです。この時に口を開いて(「欠」)ゆるやかに鞭打つリズムに乗って声を出す。それを「歌」と称したようです。つまり、それが「歌」の字の起源です。
佐々木 歌というのは宗教の起源、言葉の起源につながりますね。
きむら 宗教とウタとは一体化して成立した。そう思います。
永田法順氏との出会い
それは千載一遇
佐々木 中山先生が編集された18組CDの『日本語を歌・唄・謡う』。これは共通の詞を、邦・洋楽のたくさんの分野の方々がそれぞれの分野の表現法で「うたい分ける」という方法論として非常に面白いと思います。
中山 このCDの中で、宗教と歌や音楽の関係を考える上での、私にとって分かりやすい例が、延岡市の浄満寺第十五世住職永田法順さんでしたね。彼は琵琶盲僧です。幼くして失明し、浄満寺の琵琶盲僧・児玉定法さんに出会う。児玉さんは琵琶の弾き語りで加持祈祷をして檀家を廻っていました。その琵琶の音に将来を引き付けられた法順さんは視覚に障害を持つ自分の将来を考え、12歳で浄満寺へ入ったのです。私が初めてその琵琶と声に出会った時、「こんな人が、まだおられるのか!」と身震いしました。あの人は恐らく一万年前にいても不思議じゃない人です。瞬間的に「これは太古から未来まで行く人だ」と思いました。と同時に、「わくわくするような懐かしさ」を感じました。
佐々木 『耳なし芳一』の小泉八雲のような人ですか?
中山 ちょっと違う感じがします。永田さんは檀家廻りする琵琶盲僧で、芳一は「平家物語」を語る琵琶法師。法順さんは、琵琶を弾きながら仏教の教えを物語風に分かりやすく説く、釈文を唱えるのです。これは仏教だけでなく、神道や陰陽道、修験道など様々な神や仏が登場して、神仏と共に暮らしてきた日本人の宗教観を反映したものと言われています。数百年間、盲僧達によって口頭で伝承されてきましたが、現在11曲もの釈文を唱えることができるのは、法順さんただ一人なのです。その永田さんとの出会いは、百年に一遍だと直感しました。
佐々木 永田さんにはお弟子さんや跡継ぎはいるのですか?
中山 残念ながら一人もいません。従って、伝承はもう……。
佐々木 テレビか何かで将来的に世に出るのでしょうか。聴きたいですね。
中山 『日向の琵琶盲僧 永田法順』という全集で、CDとDVDで記録されています。ですが、恐らく伝承は無理だと思います。声の存在感が凄いのです。私は法順さんの釈文を聴いた瞬間、ビリビリきましたね。伝統を踏まえているかなど、そんなことはどうでも良く思えてしまった。
きむら 伝承できないもうひとつの理由は、歌には必ず「場」があるからです。法順さんの場合、檀家さんが千軒位いらして、一日3、4軒一年間ほとんど休まず檀家さんの家へ琵琶を持って廻っていらっしゃる。法順さんにとっては、檀家さん廻りという環境も含めて琵琶なのだと思うのです。
中山 恐らく法順さんにとっては、毎日3軒や5軒の檀家を廻ることは、いわば単なる仕事なのです。そして、そのことを何事もなく淡々とこなされる。それが感動的なのですよ。
きむら 自分自身もそうですが、今は歌手の演奏だけでウタが実現していると皆が思い込んでしまっている時代ですね。歌手とその演奏だけを切り取ってパッケージ化して持って来ることが可能だと。歌手さえ連れてくれば世界中どこのステージでも同じ演奏が聴ける、あるいはCDになっていたりすると、もっとどこで聴いても同じウタが聴ける、と多くの人が思い込んでいるようなのですが。でも、本来のウタというものは、生活やそのウタい手に与えられた「場」と一緒に生きて変化するものです。ほんとうの「歌ウタい」ってそういうことなのだと思います。
佐々木 ところで、永田さんはお盆の時はどうしてらっしゃるのですか?
中山 法順さんは、お盆は一切行いません。葬式の法要を行わないお坊さんだからです。ただ日常の檀家廻り以外に、檀家からお願いがあった時に地鎮祭やカマド祓いや水神祭などで、左手をものさし代わりに右手で刀を持ち御幣を切ります。
佐々木 そうなのですか。曹洞宗では、五色の紙で作った御幣(梵天)をお盆の時期に飾る寺があります。御幣は寺によっていろいろ呼ばれます。岐阜県にある曹洞宗の長国寺では、数百軒の檀家全てのために、御幣を作るのです。そして、毎年7月8日の施食会の後に檀信徒一人ひとりに渡します。檀信徒は、墓参りをして祖先を連れて自宅へ戻る。13、14、15日には家の盆棚に安置し、先祖の依代として供養します。16日の夕方、御幣(梵天)をお墓へ持って行き、先祖の霊をお墓へと送り届ける。これがお盆の慣わしなのです。
中山 法順さんはとても真摯なお坊さんですが、取り立てて何かをサービスするといった意味などなく、淡々と檀家から檀家を廻るだけなのです。
佐々木 まさに修行なのですね。
きむら 檀家廻り自体が、法順さんの生活ですね。別に目的もなければ、意図もない。
中山 そうです。人から「どうしたら良いのか?」と尋ねられたら、「こうでしょうね」と自分の意見を淡々と言うだけ。感動的です。
きむら 琵琶と歌の芸そのものを継承することは、誰か他の方でもできるかもしれせん。しかし、この芸の仕上がりというのは、365日の檀家廻りと、様々な檀家さんとの関係がなければ出てこない気がします。
真似ぶこと
すなわち学ぶこと
佐々木 視力のない師匠が、また視力のない弟子に伝承文化をずっと植え付けていった。手と手を取り合って、仏具の位置と使い方、鐘、太鼓の叩き方などから琵琶の奏法まで、だんだん教えていったという。この師匠対弟子のつながりというのは、今の教育の機構から失われた部分ではないでしょうか。非常に感動致しました。今でも、様々な分野で弟子と師匠の関係があるけれど、こんなにしてまで文化を伝えるという部分が残っていたことはすごいことです。やはり、手取り足取り、タッチしながら教えていったのでしょうか。
中山 決して、後ろから手を取って教えた、ということではなかったようです。対座して、一対一で習ったそうです。永田法順さんという人は、恐らく、子供の頃から音に対して非常に敏感だったのだと思います。それに、抜群に歌がうまい。佐々木 声が素晴らしいのですね。
きむら 私が法順さんのお声を拝聴して、パッと連想したのは浪曲師の声だなと。すごく親しみが持てて、何か安心して聞くことが出来るような。それから、師匠でも他人でも人の声を聴くことについてですが、耳の鼓膜だけで聞いているのではなく、声の波動をカラダ全体で感じる作業を行っていると思います。これは私が歌を教える時とか歌う時に感じることですが、人間が人間の声を聴くということは、耳だけで聞くというより、実は相手のノドも含めたカラダの状態を自分のカラダに写し取って、自分のノドを使って聴くということなのじゃないか、と。
中山 もちろん第一に訓練なのですが。恐らく、法順さんはなんと音に対して敏感な人なのだろうと思います。歩くといった行為でも、単に鼓膜ではなく、五感すべてを耳に集中させてやっている感じがします。
きむら 通信教育では決して育たない分野ですね(笑)。師匠とのやり取りで、目に見えないことはいっぱいあるかもしれない。だけど耳からも触覚からも、それからもっと触覚以前の波動になって感じるものからも、多分丸ごと全部を受け止めていらっしゃる。まさに、カラダで探っていく世界ですね。
佐々木 全身心で聴くということ。実はこれは宗教にも言えることです。曹洞宗では面授という言葉があります。道元禅師の『正法眼蔵』の中に、面授という巻があります。その面というのは、顔から顔に、全身心から全身心に仏法を授けること。だから師匠の一挙手一投足、それが仏法である、と。決して理屈で伝えるものではなく、師匠の生き様の全体を、そのまま真似しなさいということなのです。だから弟子は師匠の言うことなすこと、全部を全身心で学んでいくわけです。頭脳だけじゃなく、全身心で。それこそ「ビビビッ」と感じるものもあれば、そうではないものもあると思いますが、非常に大事な視点を頂いたと思います。
きむら 小さな子供がコトバとか歌を覚えようとしているのを観たら、面白いですよ。目の前の親のカラダの運動状態を反射的に写し取っている感じです。聞き取ろうとしているのですが、口真似しながらなんです。親と子供とは違った声帯を持っていても、なんとなく話しぶりが似ているとか、声音が似てくるのは、遺伝子が似ているからだけでなく、カラダの使い方を学ぶから似るのだと思います。
中山 ライブでないと無理ですね。言葉を習得するのは。
きむら CDの教材ではコトバの本質は教えられないと私は思っています。コミュニケーションするための、人と人との間で成り立つコトバ、音、音声というのは、やっぱり対面しないとダメだと思います。中山 よく、ライブと再生されたCDの違いに関して音響学の分野でも問題になりますが、ライブはまず情報量が違う。
佐々木 宗教では、なおさらそうです。ビデオやテレビなどを見て、高僧の話を聞くだけではなく、訪ねて行って、一挙手一投足をそこで見ながら、カラダで聞いてこないといけないでしょうね。今の話は現場のお坊さんに大変参考になると思います。
音楽と宗教
2つの共通点とは
佐々木 どなたか永田さんの身の回りを見ている人はいるのですか?
中山 奥様がいらっしゃいます。しかし、弟子が一人もいないのです。とても残念なことです。しかも、法順さんのことを、天台宗の中でも日向以外では誰も知らない。
佐々木 実にマージナルな人なのですね。だからこそ、人に感動を与えるというところがありますよ。
きむら 感動でも何でも、ものを伝えるって、マージナルな部分にいないとダメなのかも知れません。その世界のギリギリの端(ハシ)にいないと、それより外の世界への橋(ハシ)渡しは出来ませんから。本当にその位置に立っている人は、その前にいる人からも、後ろにいる人からも、片面づつしか見えていない。その人の全体像は大多数の人には見えていないから、凄さがわからないのでしょうね。
中山 一番最初に法順さんの釈文を聴いたとき、ついに行き当てたというか、掘り当てたというか。瞬間的にワクワクするような懐かしさ。これまで出会ったこともないものへの懐かしさという、変な感覚になりました。何か自分が出会ったことのない過去から自分が見たこともない未来まで、自分はどこから来てどこへ行くのか、自分の一生など、先祖も含めて考えざるを得なかったのです。法順さんには、そういうことを考えさせられる力があるのです。これはまさに「ビビビッ」。声自身がとにかく圧倒的な存在感があり、カラダにしみ込んできて、聴いている自分も歌っている気になるのです。
きむら アッ! 中山先生もやっぱりカラダで聴いてる!
中山 ワクワクするような懐かしさ、それはすなわち芸能の原点ではないだろうか。それが私の永田法順論です。と同時に、私は面白い音楽とは何かを考えてみました。それには3つの要素があるようです。まず、何度繰り返して聴いても飽きない。次に、聴いていることが邪魔にならない。そして3つ目は、昼寝ができる。きっと、生理的に気持ちが良いこと、それが宗教的感覚であるという感じがあります。
きむら それは音楽の役割ですよね。
佐々木 音楽と同じように、宗教のお説教にも3つの要素が必要だと思います。お坊さんのところへ行った時、お説教をただベラベラするだけで理屈っぽいのでは駄目です。まず、聴いていても、接していても飽きない。そして、邪魔にならない。3つ目は、聴いているうちに心が落ち着いて、この上なくリラックスできる。この3つの要素により、音楽と宗教が重なっているといえますね。昨年の『曹洞禅グラフ』のインタビューで登場された東邦大学の有田秀穂先生の音頭取りで、今春発足したNPO国際セロトニントレーニング協会のセミナーが6月から始まるそうです。きむら先生は、その講師をなさるのですよね。
きむら 本当は既に有田先生御本人がインタビューを受けておいでなので、昨年のバックナンバーをご覧いただく方が正確に詳しく分かると思いますが(笑)。声楽家の立場から言いますね。脳内の「セロトニン神経」で自律的に分泌されているセロトニンという物質があります。この神経が弱って、セロトニンの分泌が阻害されるとうつが起きるというので、抗うつ剤として外部からセロトニンを取り入れているのが、今の薬によるうつの解消法。でも、本来は自分で出さねばならないものを体の外から人工的に取り入れるものだから、副作用や依存などがでてきます。どうやって脳内でこの神経を活性化させて、もう一度自分でセロトニンの分泌を回復することができるか。そこで見つけたポイントが、有田先生によれば、「呼吸」だと。呼吸法を見直すことでセロトニン神経が回復する、と言うんです。
佐々木 そうですね。
きむら 非常に頭がスッキリとして覚醒してくる。脳は活性化してくるのですが、気分的にはとても安らいで静かになる。集中できる。そういう呼吸のことを、有田先生は「仏陀の呼吸」だとおっしゃっています。
佐々木 それが歌と重なるとどうなりますか?
きむら あら、歌は「仏陀の呼吸」そのものですよ。呼吸の「呼」は吐く、「吸」は吸うことなのですが、セロトニンの活性化と特に連動しているのは「呼気」、つまり、吐く息を作る筋肉の運動なのだそうです。それは、禅と同じです。息の吐き方を見直し、腹筋をはじめとする色々な筋肉を使い、姿勢が調い、呼吸器官全体が活性化され、脳内も活性化される、ということでしょうか。ウタはまさに、吐く息の鏡です。吐く息を音の波動で確認する作業なのです。ふーって吐いてしまったら、ただの息。でも、声をどう出すか考えたら、いやでも息の吐き方を意識しているでしょう。ある意味で「行」ですね。
中山 基本的に、セロトニンは眠ってしまうα波とは対極のα波なのですね。
きむら ええ。歌もやはりストレスがかかると、声は出ません。でも、寛いで眠ってしまったら、そもそもウタになりませんからね。
中山 超覚醒している状態が、セロトニンが出ている状態ということですね。
きむら そう。超・覚醒して、超・リラックスしているの。そこで初めて気持ちよく声が出るし、ウタも伝わるものになるんじゃないでしょうか。
中山 うまく演じられる能というのは、ものすごく気持ちがよく、眠れる能というのは素晴らしいなと思っています。歌も同じじゃないかな。
きむら はい。退屈だから寝るのではなく、ある種の声の響きの中で、気持ちが良いから寝られる。平たい言葉ですが、ある意味で癒しに繋がっていくのですね。お互いに癒し合っているのだと思います。
佐々木 聞く側が眠ることができるのは、心がこれ以上ないほど落ち着いている。そういうことなのでしょう。音楽においても、姿勢を正す、そして呼吸を整えることが大切なのですね。
きむら 姿勢を調えたら、恐らく嫌だと言っても、自動的に脳は呼吸を調えますよ。
佐々木 これは、禅僧が禅を求める人に説いているのと全く同じです。3つの「調」があり、それは身と呼吸と心を調えること。まず、身を調える「調身」、そうすると息が調う「調息」。すると、心が調う「調心」。身、息、心の順番で調っていくのです。本当に呼吸が調わないと、うまく息を吐くことができないですよね。心と音楽、心と宗教の関係は見事に重なりますね。まさに、歌の原点に宗教がある。本日はどうもありがとうございました。