秋彼岸特集
詩・俳句の世界からお彼岸を詠む


言霊こそ永遠の命

平成19年3月の能登半島地震での自坊全壊、
命の危険にまでさらされた市堀氏が語る「ご縁」とは?
高橋氏が語る「死なない命」とは?


千年以上前に書かれたものでも、人々に感動を与えることができる"言葉"。そこで今回は、詩人の高橋順子氏、石川県輪島市曹洞宗興禅寺住職であり俳人の市堀玉宗氏のお二人に、お彼岸をテーマとした詩・俳句を詠んで頂いた。詩・俳句の魅力、お彼岸、生きること、死ぬこと、そして仏教のことなど、多岐に渡って語っていただいた。


市掘玉宗
昭和30年、北海道生まれ。
昭和56年、板橋興宗について出家。
故・沢木欣一主宰「風」にて本格的作句開始。
第41回角川俳句賞など各賞受賞。
現在、「栴檀」「琉」同人。俳人協会会員。興禅寺住職。
句集『雪安居』『面目』


高橋順子

千葉県生まれ。東大仏文科卒。
1986年『花まいらせず』で現代詩女流賞、1990年『幸福な葉っぱ』で現代詩花椿賞、1996年『時の雨』で読売文学賞、2000年『貧乏な椅子』で丸山豊記念現代詩賞を受賞。


まさとみ☆ 市堀さんが俳句をはじめたきっかけは何ですか?

市堀 僕は出家する前から俳句の世界と関わっていた。俳人の金子兜太先生と縁があったんです。俳句を作る、表現することによって、自分自身が癒される。形になると、自分の器、姿というものが見えてきて面白かった。

まさとみ☆ 高橋さんが詩を書くきっかけとなったのは何ですか?

高橋 きっかけは、大学のフランス文学科に進んだときに萩原朔太郎という詩人の『月に吠える』という詩集を読んでビックリしたことですね。これが日本語か、日本語っていいなと思ったのね。「詩は言葉以上の言葉である、言葉を越えた言葉である」という内容が書いてあって、日本語の魅力にとりつかれた。本当に感動しました。

まさとみ☆ それがきっかけなんですね。

高橋 他の現代詩人の詩を読んでみて、これくらいなら私にも書けるかなって(笑)。

市堀 萩原朔太郎の言葉遣いって新鮮だったのでは?

高橋 新鮮だったかもしれませんね。

市堀 今の俳壇の風潮として、人の作品をあまり読まないで、自分の俳句が一番大事と考える自分大好き人間が多いんです。俳句の世界も一般の風潮と同じですね。

高橋 誰の作品も読まないで書いていくと新しいものになるというのは、貧しい新しさだと私は思っているんですよ。

まさとみ☆ 貧しい新しさですか?

高橋 そう。豊かな新しさが望ましいと思いますね。

市堀 私は俳人の中ではよく個性的といわれます。「個臭」なんていう人もいましたよ。確かに、第一句集の句では、自分が坊さんであることにこだわっていたんですね。それが臭みですよ。

高橋 それが面白いなと思ったんですが(笑)。

市堀 私の師匠である板橋禅師に言われました。「おまえが賞をもらったのは、その臭みを面白がられたからだろう。坊さんとして、俳人として本物になるのなら、その臭みを取らなきゃ駄目だ」と。自己満足の世界では人を感動させることはない。小手先じゃ駄目ですね、本物の言葉を使えるような人間にならなければ。

まさとみ☆ こだわりを捨てるということですか?

市堀 そうそう。こだわりを捨てる。やっぱり生き方が俳句に出てくる。五・七・五の定型というのはそういうからくりがあります。

高橋 恐ろしいですね。十七文字しかないのに。

市堀 定型だからこそ、その人の生き方、姿勢が出てくる。坐禅と一緒です。俳句と同じで、坐禅は敷居が高いと思うかもしれませんが。

まさとみ☆ 確かに、敷居が高く感じられますね。

市堀 しかし、俳句も坐禅も、いくつか決まりごとがあるので入りやすいとも言える。それだけ守ってあとは放っておかれるのですから。

まさとみ☆ 決まり事さえ守れば出来る。なんだか出来そうな気がしてきました。

高橋 坐禅も俳句も、修行が大切なんですよね、きっと。

市堀 仏道だって習い事ですから。一日で身につくわけではない。一生、修行だっていう人もいます。俳句もそういうところがある。詩も、小説もそうでしょう。文芸という名のものは。 ただ行というものは誰がやってもかけがえのない行に変わりないのです。今やっている行自体の尊さ。手段がそのまま目的であり、救いの手であるという次元。下手な俳句を作っても、本人が面白かったらいいじゃんみたいな感覚と似ているかな。高橋 私なんかは、五・七・五に当てはまると嬉しい(笑)。

市堀 形にはまるというか、形にすることが尊い。ある意味で、何もならないことをやっているのだから。形を調えて、こころという目に見えにくい世界を学ぶ、宗教とはそういうものですよ。因みに坐禅という形は、頭の中を風通し良くして坐れと教わります。

高橋 詩を書くときは、やっぱり何でも受け入れ可能という感じで座ってますね。詩を作るのではなく、詩が降ってくるような感覚ね。

まさとみ☆ 俳句や詩というのは、修行といえるのでしょうか?

高橋 詩を書くのに、あんまり修行という気はしていないわ。「あ、出来た」ってすごい気分がいい。

市堀 修行というと、分かったようで分からないな。そういう言葉は使わないほうがいいね(笑)。でも実際、創作の現場では苦しいこともあるね。

高橋 それは苦しいわよ。お彼岸の詩をしあさってまでに一つ書いて欲しいなんて言われたら(笑)。

まさとみ☆ 無理なお願いをして恐縮です(笑)。


 蚊・蚊・蚊
           高橋順子

墓地にはむかしから蚊がいっぱい
花立てにたまった雨水が彼らを培養するのである
お彼岸になっても なお
墓苑は蚊と人の小さな、数限りない修羅場と化したままだ
蚊に刺された痛さは
墓の前でこんなにも新鮮だ
千の風(*)に乗って
死んだ蚊のたましいも飛び回っている


(*)「千の風」は作者不明という英詩を作家の新井満が翻訳、作曲したものが元になり、テノール歌手秋川雅史によって歌われ、大流行中。現代アメリカの一主婦、メアリ・フライの詩が原作だとする説もある。


高橋 お彼岸、お彼岸って漠然と考えていても駄目なのね。実際、自分がお墓の前に立って、どんなことがあったかなと、具体的に考えます。今回は蚊が頭に浮かんできました。

まさとみ☆ 蚊が浮かんだとは?

高橋 お彼岸のお墓参りの実感ですよね。「あ、蚊に刺された」とか。人はいっぱいいるけど、お墓だから静かな感じ。だけど、実は蚊と人の修羅場があちこちに発生している。

まさとみ☆ その場所へ自分が行ったつもりで想像を膨らませて、その後にそぎ落としていくみたいな感じなのでしょうか?

高橋 そうね。思いを凝らしていくという感じかな。蚊に刺されて「あ、今、自分は生きているのだな」と思うの。お墓は死者の住まいだから。自分の命の新鮮さというのに、ハッとするわけね。自分の命を再認識するっていうのかしら。詩の中に「千の風」というのが出てきましたが、(*注)に書いた歌だと人の魂が千の風になっているみたいだけど、死んだ蚊だってなんだって、みんな千の風になっている。人間ばかりじゃなく、様々な虫のことも考えるべきである、というのかな。

まさとみ☆ この詩を読んだら、蚊に刺されて痒かったなって記憶が鮮明に蘇ってきました。

高橋 生きてるって感じがするでしょ?

まさとみ☆ 映像が鮮明に浮かぶので、すごいです。ちゃんとお墓参りに行かなくちゃって思いましたし。

市堀 僕が「あっ」と思ったのは、「蚊に刺された痛さは/墓の前でこんなにも新鮮だ」というところです。これが、この詩の中のポイントだと思います。それが魂なんですよ。 私は能登半島地震の経験で九死に一生を得た。また、出家してからも迷った人生でした。坊さんとして三十年近く経ちますが、私だけの力で今こうして生きてきたんじゃない。縁の力で導かれ、存在させてもらっているという思いがあります。地震に遭って、なおさらそれを強く感じます。地震さえご縁だと私は本当に実感しました。自分に都合のいいことばかりがご縁じゃないですから。本質的に選べないものです。 選べないからこそ新鮮なのです。

高橋 良寛さんが「死ぬときは死ぬが良きなり」と仰った、その考えに近いですか?

市堀 もったいない話ですが、近いといえば近いです。

高橋 あれ、ちょっと驚いたんです。死ぬときは死ぬが良いというのは。

まさとみ☆ 驚いたというのは?

高橋 言い方がきついから。災害に遭って死ぬ人もいるでしょう。そういう人に、死ぬときは死ぬがいいというのは、どういうことなんだろうと思いましたけど。市堀さんのお話を聞いていて、ご縁ということなのかなと思いました。

市堀 人生は恵まれることもあるけど、いろんな災害や不幸もご縁。ご縁は選べないのです。私の思いでどうなるものでもないし、どうなったものでもない。あるがままとしか言いようがない。

まさとみ☆ では、あの世とかこの世とか魂というのは、どういう風に感じているんですか?

高橋 人が死んで焼かれて煙になるでしょう。それから灰になる。すると、元素になってその辺りに浮遊しているんじゃないかという気が私はしているんです。だから、死ぬというけど死なないんだという感じがするわね。自分にその人の記憶がある限り、その人は死んでいないと思う。

まさとみ☆ あの世、この世ではなく、常に近くにいるという感覚ですか?

高橋 そう。でも、人が死ぬと別の世界へ移ったという感じもしている。あの世というのは別の自然という意味で。あるお坊さんが「死ぬということはちょっとお隣へ行くだけですよ」と仰ったことがあったんです。でも、そのお坊さんは「自分の死はそんな風に考えられないけど」と仰っていた。

まさとみ☆ 自分がこの世を離れたら違う自然に行くって感覚ですか?

高橋 いや、やっぱり自分はその辺りにとどまっている感じね(笑)。

まさとみ☆ 身近な人が亡くなると、確かに常に近くにいてくれて、見守ってくれているような感覚になる。元素になって周辺にいる感じ、すごく共感できます。

高橋 でも、死ぬことを思うと怖いわ。

市堀 死を思うと怖いね。今回の地震は本当に大きな揺れでね。「あの世に行くのかな」と思ったら一瞬、判断が止まりました。揺れに身を任せているほかありませんでした。「あ、この先に死があるんだな」と覚悟しましたが、死を怖がることは、生きている証拠でもありました。生きている人間の感情ですよ。ただ、私にとって死そのものは判断の先にあるものだとつくづく思いました。

まさとみ☆ 判断の先ですか?

市堀 私の死とは、私の分別の先。分別でどうなるものでもない。まさにご縁で、死という運命を迎えるんだと、すべてを受け入れるしかない。「死ぬ時節は死ぬがよろしく候」ですよ。

まさとみ☆ 命というのは、失って初めて大切だなと気づかされるというのが実感です。人の死に直面した時に初めて、大切なものを失って寂しいと思う感覚があります。ただ、自分が今出来ることは、人生を楽しく、死ぬまで一生懸命生きることだと思います。 確かに死ぬことはすごく嫌ですが。自分の父親には長生きしてもらいたいし、年を取ってもらいたくない気持ちがあるので難しいのですが。

高橋 死んでも死なない命があるようにって?

まさとみ☆ それはないですよね。

高橋 いや、あると思う。死んでも死なない命って。千年以上前の和歌を今読むと「この歌に命があるな」と思うわけ。そういうのが死なない命なんじゃないかなぁと。

市堀 言霊というのかな。

まさとみ☆ 文字に命が宿っている。言霊ですね。

市堀 言葉に自分の魂というか、命を重ねる。それが創作する。表現するということなのかもしれない。いつまでもあってほしいのは分かるけど、私達に出来ることは今の出会い、人でも、ものでも、言葉でも。結局、それらを大事に丁寧に生きることしかないと思います。

生きるということ
死ぬということ


高橋 生死一如って考え方っていいですね。

市堀 我々はものとこころ、苦と楽、善と悪、前世と後世とかものごとを二つに分けて捉えたがる癖がありますが、それはあくまで観念、頭の中でのこと。生と死の把握の仕方もまた同じようなものです。私にとって今ここに息をしている事実、この有り難さのほかのどこに生死の問題があるのでしょうか。いのちとはご縁としか言えない今の事実そのものです。仮にそれを生といい、一如とはそれを肯う覚悟なのだと私は受け取っています。私は他人の死を目の当たりにして私の死を分別することはできますが私の前に提示する事はできません。縁を生きるとは大いなる自己を生きることであり、縁という大いなる自己に死ぬことでもあります。私の命は私が思い込むほどに狭く、小さなものではないのです。私は三句書きました。季語がひとつづつ入っています。

 雲とゆく
   家路も秋のひがんかな

 
龍淵に
   潜み火宅に灯をともす

 
曼珠沙華
   群がりつつもちりゞ


 最初の句は「秋の彼岸」。歳時記でいうと時候の季語です。二句目の季語は「龍淵に潜む」、三句目は「曼珠沙華」が季語です。

高橋 「龍淵に潜む」が季語なの?

市堀 これが季語なのです。あえて難しく、格好つけた(笑)。時候の古季語で、中秋の頃のちょっと落ち着いた空気の、大気のあの雰囲気の時候。それに取り合わせて「火宅に灯をともす」。

高橋 私、二句目の俳句がいいです! 対照的になっていて。

市堀 火宅というのは一般的に知られた言葉ですが仏教用語です。まさとみ☆さんはどう?

まさとみ☆ 私は三句目の曼珠沙華の赤い映像がパッと頭の中に浮かびました。

市堀 曼珠沙華というのは、結構固まっているようでぽつんぽつんとちょっと出てくるところがあるでしょう。それが面白いなと思って。

まさとみ☆ お彼岸には必ずこの花がありますよね。実は私、昔は曼珠沙花ってあまり好きではなかったんです。

市堀 死人花って言うしね。

まさとみ☆ でも、よく見るとすごく華があって花火みたいで綺麗だと思います。

高橋 豪華な花なんですよ。

まさとみ☆ だから、三句目の詩は彩りの美しさが鮮明に浮かんできて、とてもいい
句だと思います。

市堀 今おっしゃったように、先入観を捨てて素直な目でみる。そこが大事なんですよね。曼珠沙華というと、いかにも陰気というか「死人花」という兼題もあるんだけど。そういうのを一切、解説も全部捨てて、本当に季語という詩の核と直に対して写生する。それが新鮮な句、自分だけの句を作る秘訣であると僕は思います。人の目を借りないで、自分自身も色眼鏡をかけないで、いつもこの新鮮な今の自分の目で見て作る。自分の言葉で作る。そんな句を作りたいと思っています。

まさとみ☆ 高橋さんは二句目が好きだとおっしゃっていましたね。

高橋 「龍淵に潜み」で水。「火宅に灯をともす」で火。二極構造というか二項対立と言うのですか? 世界がとても大きいですよ。漢詩の一節のようです。

市堀 俳句というのは、鑑賞してくださる方で生きることも死ぬこともあるんです。だから、作ったらあとは作品任せみたいなところがあります。最初の句も、中秋の大気の感じが出来たらいいなと思って作ったんです。

まさとみ☆ 秋は雲が多くて動きが早いですものね。空が綺麗で雲がはっきりと目立つ。そうか! 俳句や詩って、こうやって楽しむものなのですね。

市堀 季語という約束を入れることは、共感する場が持てるということ。それこそ、俳句鑑賞の楽しみです。実はね、曼珠沙華は人を象徴しているんです。

高橋 これが人生である、みたいなね。

市堀 そうそう。曼珠沙華はまさに、僕そのものなのです。曼珠沙華そのものの生態を面白がる、それでもいいんです。些細な世界を写すけれど、小さい、大きい、広い、狭いといっても、どうしようもない。仏教という大きな世界に於いては、比べられないということですよ。

まさとみ☆ 比べられないとは?

市堀 仏教という大きい世界というのは、比べられない世界なのです。だからこそ、いわゆる小さい自分の世界でも大事にして、物を粗末にするなとかいう教えが出てくるんですよ。

まさとみ☆ なるほど。蚊の人生だって何だって、大きい小さいってことはないとい
うことですね。

高橋 いいわね! 蚊の人生なんていうのは(笑)。

市堀 計り知れない縁で、人間として、また蚊として存在していることに価値の上下なんてないと思います。そういう意味でみんな平等なはずです。それが全部、私の世界であり、あなたの世界の真相でもある。邪魔しない。不思議といったら、これほど不思議なことはないのだけど。そこに垣根を作るのがまた言葉でもあり、自分という思い込みの世界をつくることにもなる。

高橋 差別し、差異を明らかにするのが言葉というわけですよね。

市堀 そうです。人間は言葉で人生を救われるけど、言葉によって足元をすくわれることもあるんじゃないかな。

高橋 お葬式の時、弔辞の最後に「待っていてください。自分もじきに行きますから」って言いますでしょう。あれ、やっぱりそういう夢をみんなが見ていたほうが楽だからという気がしますね。

市堀 あれもひとつの詩だと思うんです。自分を励ますのだろうけど、死んだ人を大事にしたい思いがその人にあるから、そういうことを言うんです。言葉というのは、人がふたり以上いたからあり得たものでしょう。自分以外に誰もいなかったら言葉もたぶんなかったと思います。でも、感動があって、心が動いていろんな感動、喜び、心の動きがあって、それを伝えようとして、まず言葉がいろいろ駆り出される。言葉が再生する、それが詩ではないですか?

高橋 人だけじゃなく、自分と仏様、自分と神様、自分と世界、そういう対話がありますものね。

市堀 言葉は確かに人の持つひとつの能力で、それで守られ癒されてきた歴史がある。一方、人と人、あるいは自然と自分の垣根をつくる凶器のようなところがある。言葉はいのちの光りであり、影のようなものです。心豊かな人にして言葉も再生するのではないでしょうか。

まさとみ☆ 今ある命は、色々な人とのご縁のお陰であり、生きている者だけではなく、昔があるから今がある。そういう命であることに目覚めることが大切なのですね。お彼岸を期に、しっかり考えたいと思います。今回はどうもありがとうございました。

(平成19年7月4日収録)