名物和尚の誌上説法
兵庫県篠山市 弘誓寺住職 能勢隆之

能勢隆之
昭和十九年兵庫県生まれ。
駒澤大学大学院卒業。
永平寺安居。
昭和四十八年より弘誓寺住職。



無限の深さを「因縁」という
私の内に如来(仏)が蔵せられている


因縁によってある

 病みたくないのに病み、老いたくないのに老いる。どうも「自分の思うとおり」にはなりません。それで苦しみます。この事実は私たちに、自分の努力、「自分」の力以上の、「他」の力を感じさせます。
 その「他」とは何か。人は多く「神」や「天」を考えます。しかしそれは神でも、運命でも、偶然でもありません。その「他」を、仏教は「因縁」であると説きます。
 無数の因と縁とが重なり合って、今ここに私が「このように」あるのです。アリ一匹、チリ一つにいたるまで、不可思議な因と縁とによって、今ここに事実としてあるのです。
 「今かくのごとくの因縁あり」。『修証義』にある言葉ですが、「かくのごとく」という言葉の中に、無限の深さがあります。
 今の私のこの顔、この身、この心、この性格、この境遇、これら全ては「かくのごとくの因縁」によって、不可思議の事実として「授かった」ものです。自分で造ったものではありません。
 神が造った、とは仏教は説きません。なぜなら、仮に神が一切の創造者・支配者であり、全知全能であったとして、ではその神を神自身が造ることはできるでしょうか。できません。たとえ神を越える存在があったとしても、自身が自身を造ることはできないからです。

平等ということ

 そうすると、私が私であることと、神が神であることと、同じではないでしょうか。自分で造ったのではなく、共に「授かった」この身です。神がたとえ全知全能であり、私がいかに非力であろうとも、この意味では、神も私もまったく同じ存在です。全てがそういう存在であることを、仏教では「平等」と言います。「授かった」と言うと、「授けるもの」が他にあるように思われますが、「自」の外に「他」があると言うのではありません。「自」の存在の無限の深さを、「他=因縁」という語が表しているのです。

すべてのものは、みな縁によって生まれ、縁によって滅びる。雨の降る、風の吹く、花の咲く、葉の散る、全て縁によって生じ、縁によって滅びる。(新訳仏教聖典 第二節 因縁生)

 「今かくのごとくの因縁」によって、花は咲き、葉は散ります。全能の神も、一匹のアリも、この因縁生(縁生とも縁起とも言う)の事実としてある、全く「平等」の存在です。

如来を蔵し如来に蔵せられる

 この平等の道理から「一切の衆生(生ある者)には仏性がある」と説かれ、また「如来蔵」と説かれます。
 「蔵」とは、母親の胎内の意味です。胎内に胎児が蔵せられているように、私の内に如来(仏)が蔵せられている。また如来の内に私が蔵せられている。如来と私とは、お互いに蔵し、蔵せられる関係にある、つまり如来と私は一体であるということです。
 不思議なことですが事実です。私と如来は一体であるけれども、私は自分の内に如来を蔵していることを知らず、如来の内に蔵せられていることも知りません。
 如来はどこにある、示してみよ、見せてみよ、と言われても、示せません。見せられません。そのことを「蔵」と言うのです。
 まことに不思議です。しかし何度考えても、このとおりではないでしょうか。ここに仏教の「急所」があります。仏教は、この「急所」が大事です。