柳緑花紅
五陰盛苦
作家・俳人 車谷長吉
五陰盛苦は、お釈迦さまが説かれた四苦八苦のうちの一つである。五陰が盛んになることが、人間の苦しみなのである。五陰とは、「色」「受」「想」「行」「識」のことである。
「色」とは人間の肉体、または目に見えるものという意味である。人間の肉体が盛んになるとは、食欲と性欲が盛んになること、つまりその二つが旺盛になることが苦しみだと、お釈迦さまは説かれたのである。これは誰にも身に覚えがあるはずである。
「受」人間の感受性・感覚のことであり、それが盛
んになることは苦しみである。感じないに越したことがないことを感じてしまう苦しみである。
「想」は表象・想像力のことである。男だったら、あの女が欲しい、と布団の中で女の肢体やあれやこれや想像し、悶え苦しむことがよくある。そういう想像力の働きが盛んになることが苦しみである。
「行」とは、小説原稿を書くとか、栗駒山を縦走するとかいう、何かを意志することである。離婚するとか、会社を辞めて世捨人になるとか、何か困難なことを意志することに取り憑かれてしまうことは大変なことである。
「識」とは、言葉で何かを認識することである。「認」という字は、言葉によって堪え忍ぶという意味である。よく人は「世の中いうたら、そんなもんや。」とか「男いうたら、そななもんやがな。」という風なことを言うが、この「もん」とは「識」のことである。
この五陰、すなわち「色」「受」「想」「行」「識」が盛んになることは苦しみだ、とお釈迦さまは説かれたのである。つまりお釈迦さまの教えに従えば、人間には逃げ道はないのである。だから、この世は苦の世界であると説かれたのである。
嘉村磯多に「業苦」という小説がある。稀に見る傑作である。嫁・子供がいるのに。嫁が嫁入りの時すでに処女でなかったことを根に持ち、ほかの女と山口県から東京へ駆け落ちして来た男の、凄まじい業苦を描いた小説である。業とは、人の「身」「口」「意」が行なうすべての働きのことである。よく人は「あの人は業が深い。」などと陰口をたたくが、実際には、すべての人の業は深いのである。「身」とは人間の肉体、「口」とは言葉、「意」とは心である。人間の肉体と言葉と心の振る舞いのすべてが、業なのである。そして「業ゆえの苦しみ」を「業苦」と言う。恐ろしい。
この四苦八苦・業苦を逃れるために、お釈迦さまは人は佛の道に入り、坐禅、声明、誦経を行なうべきだと説かれるのであるが、私にはそれが出来なかった。贋世捨人(作家)として生きて来た。白洲正子さまの『明恵上人』(講談社文芸文庫)などを読むと、明恵と道元は生涯、それをやり遂げた人だった。ともに宗派を立ててはならない、権力を誇示してはならないと遺書を書いた。が、明恵の弟子はそれを守ったものの、道元の弟子は師に背いて、越前永平寺に曹洞宗を立てた。道元の弟子には俗心があったのである。
(了)
(挿絵・長谷川葉月)