春彼岸特集
死は未来へと続く命


徹通禅師七百回御遠忌
正当法要4月16日〜21日

徹通義介禅師から読み解く曹洞宗と永平寺

 2008年、永平寺にて徹通義介禅師の七百回御遠忌が執り行なわれる。果たして、徹通義介禅師はどんな人物だったのか? 御遠忌とは何か?
 そこで今回は、『坐禅ひとすじ〜永平寺の礎をつくった禅僧たち〜』の著者であり、駒澤大学教授・長野県伊那市曹洞宗常圓寺住職の角田泰隆氏に、徹通義介禅師という人物を通して、曹洞宗、永平寺、御遠忌。そして、生きるということ、死ぬということなど。多岐に渡ってわかりやすく紐解いて頂いた。

お話 
駒澤大学教授・常円寺住職 角田 泰隆


角田泰隆(つのだ・たいりゅう)
駒澤大学教授・長野県常圓寺住職
1957年長野県伊那市生まれ。
駒澤大学大学院修了。大本山永平寺安居。
曹洞宗宗学研究所所員、後に主任を務め、駒澤短期大学仏教科講師、同助教授、同教授を経て、現在駒澤大学仏教学部禅学科教授。曹洞宗総合研究センター宗学研究部門副主任研究員。長野県伊那市常圓寺住職。
著書に『道元入門』(大蔵出版)、『禅のすすめ……道元のことば』(日本放送出版協会)などがある。


気配りは親切心のあらわれ

【まさとみ☆】平成二十年の今年、永平寺で徹通義介禅師の七〇〇回御遠忌が執り行なわれるとのことですが。徹通義介禅師とは一体どんな方なのですか?

【角田】曹洞宗をひらいた道元禅師は永平寺の開祖です。そして二代目住職が懐奘禅師。三代目住職が、今年永平寺で七〇〇回御遠忌が執り行なわれる徹通義介禅師です。
 曹洞宗の両祖(ふたりの宗祖)は道元禅師と瑩山禅師ですが、義介禅師は道元禅師に直接師事したお方であり、瑩山禅師の師匠でもあるので、両祖と密接な関係をもつ重要な方です。
 義介禅師は、今風に言えば、努力家で実行力もあり、何をやらせても完璧にやり遂げ、安心して仕事を任せられる、そんなお方であったと思われます。また、永平寺の地元の出身であったので、道元禅師から非常に頼りにされました。ただ、とても有能なお方であったのですが、伝記の中には、道元禅師から「お前は老婆心がない」と何度も戒められたという話も出てまいります。

【まさとみ☆】「老婆心がない」とはどんな意味なのですか?

【角田】「老婆心がない」というのは、通常は、「思いやりがない」とか「親切心がない」という意味ですね。道元禅師も「次第に年を取れば身についてくるであろう」とも言われているので、通常の意味もあるかも知れませんが、義介禅師はその意味がよく分からなかったという記録もありますので、もっと別な深いがあったとも思われます。

【まさとみ☆】一般的な意味とは違う、別な深い意味とは、どのような意味なのでしょうか?

【角田】道元禅師がおっしゃった「老婆心」にはもうひとつの解釈があると思います。それは、日常生活のどんなことでも大切に一つ一つのことを真剣に行なっていくという意味で、仏教では「心切」という言い方も致します。

【まさとみ☆】義介禅師は有能で何でもこなしてしまった凄い方ですよね。でも、その義介禅師に老婆心、一つ一つのことを大切に行なっていけというのは気配りがないということですか?

【角田】これは私の推測ですが、有能な人ほど、なんでもてきぱきとこなして、結果的には何でもきちんとやり遂げるのですが、その結果を重んじてしまって、過程というのですか、「行なう」という途中の段階ですね、それを心を込めて大切に行うということに欠ける場合があるのですね。そんな様子が見受けられて、道元禅師が気に掛けていたのではないでしょうか。
 日常生活の一つ一つのことを真剣に丁寧に行うことこそ悟りだという教えは、なかなか受け入れるのが難しいのです。理屈では分かっていても、本当に心の底から分かるというのは非常に難しい。義介禅師は、日常生活の一つ一つの行ない以外に仏の道はないのだということを、道元禅師が亡くなってから本当に気付いたといわれます。

孝養につとめた義介禅師から親を尊ぶ気持ちを教えられる


【まさとみ☆】義介禅師の特徴的な功績のようなものはありますか?

【角田】やはり、道元禅師や懐弉禅師、そして永平寺を支え、瑩山禅師を育てたということでしょうが、永平寺の住職を退いて後、自分の母親の老後の看護をしたということも、特徴的なことです。これは当時の禅師としては珍しいことであったと思います。入門して仏門に入ったならば親との縁も切って修行に専念するのが出家のあり方だったのです。
 実は懐奘禅師にも年老いた母がいました。看病したかったでしょうし、最期亡くなる時には会いたいという気持ちがありました。しかし、永平寺には非常に厳しい決まり、たとえば、父母の恩愛から離れることや、外出制限など、自ら規律を守らなければ他の僧侶へ示しがつかないと、住職であった懐奘禅師は修行を優先して自分の母親の最期を看取ることができなかったのです。
 義介禅師がわずか五年で永平寺の住職を退いた理由は、三代相論といわれて、門下の内部での不和によるものとされていますが、私は、母親への孝養ということも、大きな要因であったと思っています。義介禅師は、年老いた母親を養育し看護しなければならなかった。いや、そうしたかったのだと思うのですが、永平寺の住職たるものが決まりを破るわけにはいかない。そこで、自ら住職を退いて永平寺を離れることによって、母親への孝養を尽くしたと、私は思いたいのです。もちろんほかにもいろいろな事情があったと考えられますが、これは重要なことだと思います。
 当時の僧侶たちはみな、自分の父親や母親を捨て、親の看病や介護などをせず、出家者として僧堂での修行の道を貫き通していたのですけれども、義介禅師はそれをちょっと変えてしまった人でもあるのですね。養母堂を建て、二十何年も母親の看病をして最期は看取ったのです。

【まさとみ☆】義介禅師から現代の我々に対して親を尊ぶ気持ちを教えられますね。

日常の一つ一つの真剣な行ないの中に仏の道があ

【角田】母親を看取ったあと、義介禅師は石川県の大乗寺へ行き、そこで道元禅師の教えを実践して後世に広めていこうとします。義介禅師の下に、瑩山禅師という偉大な禅師が誕生します。曹洞宗では瑩山禅師は道元禅師と並び称される両祖としています。なぜなら、瑩山禅師の下で全国に曹洞宗が広まっていったからです。
 道元禅師は「中国の如浄禅師から伝えられた坐禅の仏教こそ正当な仏教であり、ひとつの宗派ではないのだ」という信念を持ち、自ら「私は曹洞宗だ」と言わず「お釈迦様から正しく伝えられた仏法のだ」と言っていたのです。道元禅師に生涯お仕えした懐奘禅師も道元禅師の教えを忠実に守ります。義介禅師も、やはり道元禅師の元で修行していますので自ら曹洞宗だとは公言しません。
 しかし、瑩山禅師の時代では「あんたのところは何宗なのだ?」と聞かれるようになります。「正しい仏教だ」では通用しなくなっていたのです。それでは教えを広めることは難しい。自分たちが何宗かを公言する必要に迫られたのです。そこで瑩山禅師は「自分たちが曹洞宗だと宣言しないと、道元禅師の教えがなくなってしまう。道元禅師は曹洞宗と言うことも禅宗と言うことも嫌ったが、今、曹洞宗と宣言して全国に広めていかなければ」と思われて、それを実践されたと思うのです。だから、瑩山禅師がいなければ、今の曹洞宗はなかったのです。

【まさとみ☆】瑩山禅師が情勢を読んで決断したことなのですか?

【角田】私は義介禅師の気持ちの中に曹洞宗を全国に広めるという思いがあったと思います。義介禅師は瑩山禅師に「この洞門の教えを広めていって欲しい」と言っているのです。洞門とは曹洞宗のことなのです。
 曹洞宗の成り立ちについて複雑なので、ちょっと説明します。若い頃の道元禅師は臨済宗の開祖・栄西禅師の弟子である明全という人について修行していたのです。明全と一緒に中国へ渡るのですが、明全は中国で亡くなってしまいます。道元禅師は明全のことを師のように慕っており、明全が亡くなった後も先師と呼んでいたのです。先師という言い方は自分の亡くなった師匠に使う言葉なのです。
 この話を聞いた人は誰しもが「道元禅師は臨済宗の栄西禅師の系統なのか」と思ってしまうのです。道元禅師は自らきちんと「私は曹洞宗だ」と言いませんでしたし……。
 さらに、道元禅師の下へ弟子入りした人達のほとんどが日本達磨宗の人であったのですね。日本達磨宗が非常に勢力を増したときに弾圧を受けて、四散してしまい、その中心的人物であった懐奘禅師や懐鑑禅師、そして義介禅師たちが集団で道元禅師のもとに入門しました。それで、周囲の人たちの中には、永平寺の修行僧は日本達磨宗の人の集まりだと思っていた人もいたと思われます。
 「永平寺で修行している人達は、中国の如浄禅師の系統の曹洞宗なのか、いや栄西禅師の臨済宗の流れなのか、あるいは日本達磨宗なのか。道元禅師は正しい仏法だといっているが、なんだか良く分からないなぁ」という状態だったのではないでしょうか。
 そこで瑩山禅師は「臨済宗でもない、日本達磨宗とも関係ない。我々は如浄禅師の仏法を伝来した道元禅師の教えを伝える曹洞宗なのだ」と宣言したのです。だからこそ、曹洞宗が今にあるのだと思います。

【まさとみ☆】それではなぜ義介禅師が重要になってくるのですか?

【角田】
義介禅師は道元禅師に直接ついて修行し、瑩山禅師を育てたのです。義介禅師はその両面を持っていたといえます。

【まさとみ☆】両面とはどういう意味ですか。

【角田】道元禅師の純粋な仏法、只管打坐という道元禅師の教えを引き継ぎながら、全国に仏法を広げていく布教教化、そういう二面性を持っていたのです。民衆に教えを広めていくという基を作ったのは、瑩山禅師の師匠である義介禅師だと私は思っています。
 道元禅師だけが光り輝いていますが、懐奘禅師や義介禅師、そして永平寺の初期の歴代住職や、總持寺を開かれた瑩山禅師、皆とても大切な方々で、どのお一人がおられなくてもいまの曹洞宗はなかったのですね。

【まさとみ☆】二代目住職の懐奘禅師は何か功績を残されたのですか。

【角田】懐奘禅師は道元禅師より二つ年上なのです。自分より年下である道元禅師へ一生を捧げたのです。そして、「自分が亡くなった時は、お墓は建てずに遺骨を道元禅師のお墓の傍らに埋葬してくれれば良い。自分のための供養はしなくてよい。道元禅師の供養をする時に付け足しでやってくれれば良い」と言われたのです。

【まさとみ☆】死んでもお仕えしたいということですか。

【角田】そういうことです。また、懐奘禅師は、道元禅師が亡くなった命日(八月二十八日)に自分も死にたいと思ったのです。ところが、四月頃、病に倒れて、医師から「もってあと一ヶ月か二ヶ月。余命は六月くらいまででしょう」と宣告されるのです。ところが、懐奘禅師は七月、八月と生きて、道元禅師が亡くなるわずか四日前(八月二十四日)に亡くなるのです。しかも、同じ時刻に! 道元禅師への思いの強さで願って願ってそれだけ生き永らえた、そういう方なのです。
 また、懐奘禅師は道元禅師の教えを後世に残すことに一生を捧げました。『正法眼蔵』や弟子たちに説法をした『永平広録』という書物が残っていますが、これら懐奘禅師が中心になって、きれいに清書したり、整理・編集したりして、きちんとした形にして残したのです。鎌倉時代の書物が多量に、そして正確に書写されて現代に残っていることはとても珍しいのです。そういう意味で、懐奘禅師は道元禅師の教えを後世に残された人として、とても大切な人なのです。

法事は先祖からの命のつながりを確認する場

【まさとみ☆】初代、二代目、三代目、四代目、どの方をとっても曹洞宗には大切な方なのですね。今年は三代目義介禅師の七〇〇回御遠忌が永平寺で行なわれますが、義介禅師のことは世の中ではあまり知られていないのは残念です。ところで、御遠忌とは何ですか。

【角田】御遠忌とは、分かりやすく言えば法事(年回忌法要)のことです。

【まさとみ☆】一般で行われている法事について、その意義を教えていただけますか。

【角田】仏教の基本は自業自得。自分で行なったことは自分で受ける。良いことをすれば、その良い結果は自分が頂くし、悪いことをすると、悪い結果は自分が頂くことになるというのが仏教の原則です。
 ところが、法事というのは、良いことをして、自分には良い報いはいらないから相手にあげたいという気持ち、つまり、供養なのです。だから、大勢集まって法事をしてお経を唱えたりして、法要を営んで良いことをするのです。それぞれの人が頂く功徳をすべて故人の方に差し上げるのです。御仏の世界で安楽になってほしいという願いからきたものです。それを、回向と言います。

【まさとみ☆】亡くなった方に、さらに幸せになって下さいとの願いを込めてですね。

【角田】私達には必ず両親がいます。その両親には、さらに両親、祖父母がいて、というように、先祖代々命が受け継がれて自分に至っているわけです。大勢の先祖がいて、代々苦労をして子供を育て、家を守り、土地を守り、文化や技術など様々なものが次の世代に受け継がれて、今の自分があるわけです。
 十代さかのぼると千二十四人。二十五代さかのぼると、三千三百五十五万四千四百三十二人という数になるのです! 一世代を三十年としますと二十五代前は七五〇年くらい前。丁度、道元禅師の時代になるのです。その時代までさかのぼると、日本の人口の三分の一くらいに当たる人数の先祖がいる計算になります。

【まさとみ☆】すごい数ですね。

【角田】そうやって先祖をさかのぼっていくと、人類はみな親戚だといえるのです。法事というのはいわゆる自分の祖先に対して感謝の気持ちを伝える場。先祖からの命のつながりを確認する場だと思います。先祖に対する感謝の気持ちを、実際に形として現わしていく、それがまさに法事を営むということです。

【まさとみ☆】今はもう親族の関係が希薄になっていますが、親族のきずなを深めていく意味もありますね。

【角田】おっしゃるとおりですね。法事というのは、別にやらなければならないものではなく、自分たちが本当に「今の自分があるのは先祖のおかげなのだ」とか「父親、母親のおかげなのだ」という思いがあれば自然と出来るものだと思います。それは僧侶が強制して行なうものではありません。

【まさとみ☆】法事は初七日、二七日、三七日、四七日と細かく日数が決まっていますが、どうしてこのような区分がされているのですか。

【角田】まず、仏教では亡くなった方に対して十三回の供養をすることが基本になっています。十三仏信仰というのがあるのです。まず亡くなって七日目の初七日、十四日目が二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、そして四十九日である七七日の七回供養を行います。四十九日まで法要を行なうのは、インド仏教の輪廻転生の考え方から生まれたものです。
 人は亡くなってから生まれ変わるのに、七日ごとに節目があり、四十九日の期間を置いて次の世に生まれ変わる説、いわゆる中陰思想が『阿毘達磨大毘婆沙論』などのインドの古い経典の中に書かれています。
 仏教がインドから中国へと渡り、さらに四十九日の後に、十王信仰と関連して、百箇日と一周忌、三回忌が加わりました。これは儒教の影響です。
 そして、仏教が中国から日本へと渡って、三回忌の後に、七回忌と十三回忌と三十三回忌が付け加わり、全部で十三回、供養(法事)を行なうようになりました。
 なぜ法事には七や三という数になるのかと聞かれますが、基本は七。そして、七から数えて七番目の数が十三。だから十三や二十三、三十三が用いられているのです。
 七という数字は仏教ではとても大切なのです。例えば、お釈迦様が生まれて七歩歩いて「天上天下唯我独尊」とおっしゃったとか、お釈迦様が出家して七日目にマガダ国に到着したとか。

【まさとみ☆】十三仏信仰の十三というのは、十三体の仏様があるということですか。

【角田】そうです。今でも地方へ行きますと、お念仏といって十三仏をお葬式の後に唱えることが行なわれている地域もあります。

【まさとみ☆】都内では聞いたことがありません。ちなみに、今回の義介禅師七〇〇回御遠忌というのは七に関係しているのですか。

【角田】七〇〇回御遠忌は特に関係しているのではなく、御遠忌は五十年毎に行われているのです。五十年前には六百五〇回忌が行われたのです。

【まさとみ☆】御遠忌はいわば義介禅師の法事。今の時代、法事を行なわない家が多い気が致しますが。

【角田】そうですね。命日は亡くなった方が仏さまの世界で、お誕生日を迎えられているようなものだと思うのです。お誕生日をお祝いするように、法事も心をこめて行ってあげたいですね。しかし、故人を思う気持ちのあらわれが法事ですから、いろいろな形があってもよいとは思いますが。

【まさとみ☆】亡くなったということは、リセットされて再び生まれ変わったということですか。

【角田】僧侶のなかには霊魂や死後の世界を積極的には説かず、むしろ否定する人もいるくらいですが、何か実体的な霊魂のようなものを認めないまでも、亡くなった方にまた次の世もあるのだと考えることは、私は大切なことだと思います。「たった一度の人生」という言い方をしますけれど、私はそうは思いません。もちろん、今のこの人生は一回しかない、かけがけのない人生であることは間違いありません。でも、人生というのは何回もあって、繰り返していくのだという思いを持つことが私は大切だと思いますし、道元禅師も「生生世世」という言葉に残しています。

【まさとみ☆】生生世世とはどういう意味ですか。

【角田】経典の中にこう書かれています。「生生世世、在在処処に増長し、必ず積功累得し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり」何百、何千、何万、何億回と生まれ変わって、功徳を積み重ねていって、お釈迦様と同じような悟りを開きたい。はるか末来において、やっとお釈迦様のようになれるのだという意味です。そういう信仰の中で、今のこの人生を生きていくということです。
 人生に不安を持つ方っていますね。それは人生というのはこの世限りだと思うから。もう死んでしまったら無に帰してしまうと思うから。だから、そこでだんだん歳を取っていくと寂しくなってしまうのです。七十歳になると、あと五年、十年くらいしか生きられないと思って寂しくなる。
 今生では最後の五年、十年かもしれない。でも、さらにその次の人生があると思って次に繋げていこうという気持ちで五年、十年を精一杯生きて、今の自分から一歩でも前に進もう、自分を、さらに向上させていこう、人間的に磨き上げていこうと、死ぬまで目指していく。

人生というのは臨終の時が停年であって生涯現役

 人生というのは臨終の時が停年であって、生涯現役だと思うのです。生きる、修行するというのは、自分を死ぬまで磨き上げていくことですから。
 「来世なんてない」じゃなく、自分にとっても次の世がある。そして、亡くなった故人にとっても次の世があるから法要を営むという思いが自然に出てくると思うのです。
 死というのは必要なことです。地球には容量があり食料の限度もあります。色々な生命体にしても増えすぎると絶滅してしまうのです。死というものがないと、人間全体が滅びてしまう。個々が死ぬことによって次の世代の人間を生かしていくのです。だからこそ、遺伝子そのものに「老いる」というプログラムが組まれていて、人間の心臓は百二十年くらい鼓動を続けるとそれ以上心臓が動かないようにプログラムされているのです。自分が死んで、次の世代の人間(子孫)を生かしていく。人間は新たに生まれて、そして死んでいく。その繰りかえしの中で地球の環境に適応していく。そういうことで、永遠の命がつながっているので、死というのは必要なことなのです。決してマイナスではなく、ありがたいことだと考えることが大切だと思います。

【まさとみ☆】そうはいっても、やっぱり死は怖いですし死にたくないと思ってしま
います。

【角田】死をありのままに受け入れられる心境というのは、仏教でいえば「悟り」ですね。私たち僧侶も、そして一般の方々も、そのような心境になることは、とても難しいことだと思います。どのような死が待ち受けているのか、そもそも死は選べないですから。
 私の師匠である角田宗道先師は平成十五年に亡くなりました。病床の中で「良寛さんの言葉に?災難に逢うときは災難に逢うのがいい。病気になる時は病気になれ。死ぬ時は死ぬのがいい。それこそが災難をのがれる方法だ?とあるが、いざ自分が病気になってみると、これは並大抵のことではないと分かったよ。病気の時に病気になりきるというのは本当に難しいことだ」と言っていました。これは僧侶にとっても難しいことです。
 正岡子規の『病牀六尺』にはこんなことが書かれています。「悟りというのは、いついかなる場合でも平気で死ぬことができることだと思っていた。それは間違いだった。悟りというのはいかなる状況の中でも平気で生きていることであった」と。
 この言葉は師匠も言っていました。「いついかなる状況でも平気で生きていくことは大変なことだ」と。今、それがなかなか出来ないのです。看護されると「自分は死んでしまいたい」とか「もうこんなに迷惑を掛けるなら死にたい」などと思ってしまいますよね。でも、死ねるもんじゃないのです。そういうとき、本当に悟った人は「人に迷惑をかけても、掛けながら平気で生きていける。それが本当の悟りなんだ」と言います。

介護される人も感謝をしながら生きていく

【まさとみ☆】人に迷惑を掛け、平気で生きていく。う〜ん……。難しいですね。

【角田】一般的には介護の問題でいうと、やはり介護される側にも感謝の気持ちがなければいけないですね。「ありがとう」という気持ちを常に言葉にする、表現する、感謝の気持ちを表す。それが大切なことです。それによって介護する側も報われるのです。救われるのです。ただ、一番難しいのが、介護される側が感謝の気持ち表現することができない状況である場合。
 介護している方は本当に辛いと思います。そういう方に「いかなる状況でも平気で生き抜くことなんだ」と言っても、そうはいかないのが現実です。でもやはり、自分がそういう立場になった時に、それを本当に出来るのは悟った人なのです。正岡子規の言葉は禅の教えに通じると思います。

【角田】禅の教え、つまり道元禅師は具体的に生きる知恵をたくさん教えて下さっているのです。七五十年も経ち、時代は違います。一般の方はもちろん、僧侶の生活の現状も違います。曹洞宗の教えは全くかけ離れてた世界だと思われるかもしれません。でも、そういう中で、本当に学び得るものが道元禅師の教えの中にはたくさんあるのです。生きる知恵といいますか、日常生活に生かすべき知恵が。

【まさとみ☆】それが自然とできたら素晴らしいですね。

【角田】そうですね。なかなか今は自然と出来なくなり、法事に至っては世間体でやるような人もいますが。世間体であっても、やらないよりはやったほうが良いと思います。気持ちと実践がひとつになった、そんな法事ができたら一番良いと思います。

【まさとみ☆】ひとりひとりが意識を持つ。それが第一歩ですね。