秋彼岸特集
現代におけるイスラム教と仏教とは
──イスラム教を読み解く──
過激な暴動やテロ活動などで常に報道されているイスラム。果たして、それは本当の姿なのだろうか? 日本人にとってあまり接点のないイスラム教。そこで今回は東京大学名誉教授・桜美林大学名誉教授の中村廣治郎先生と駒澤大学名誉教授の佐々木宏幹先生から、イスラム教と仏教についてお話頂いた。宗教観の相違、あの世についてなど。今、世界中が注目しているイスラムにクローズアップした。
中村廣治郎
1936年生まれ。
専攻、イスラム学、宗教学、中東地域研究。
東京大学名誉教授、桜美林大学名誉教授、文学博士。
著書『イスラム――思想と歴史』(東京大学出版会、1977)、『ガザーリーの祈祷論』(大明堂、1982)、『イスラームと近代』現代の宗教13(岩波書店、1977)、『イスラム教入門』(岩波新書、1998)、『イスラムの宗教思想――ガザーリーとその周辺』(岩波書店、2002)、『スーフィズムイスラムの心』(岩波書店、2007)
佐々木宏幹
1930年、宮城県生まれ。
66年、東京都立大学大学院修了。文学博士。専攻は宗教人類学。
現在、駒澤大学名誉教授。
イスラム教の真実の姿とは
まさとみ☆ メディアでイスラム教徒の過激な報道が目立ちますが、実際にイスラムというのはどういったものなのでしょうか?
中村 「イスラム」(より正確には、イスラーム)という言葉は「アスラマ」という動詞から出た名詞形です。「アスラマ」というのは、「帰依する」とか「絶対的に服従する」という意味の動詞です。仏教式にいえば「南無」になるのでしょうか。帰依の対象になるのは、唯一なる神(アッラー)。これがイスラム教の基本です。「神にすべてを委ねる」とは、人間が何もしないというわけではありません。むしろ逆に、すべての生き方を積極的に神の意思にあわせるようにすること。つまり、神の意思のままに生活すること。それがイスラムなのです。
帰依する人のことを「ムスリム」と言い、動詞「アスラマ」の現在分詞形で、アスラマしている人という意味になります。ですから、「ムスリム」とは帰依者という意味なのです。それが後に、「イスラム教徒」という普通の名詞になりました。
イスラム教の場合、神に帰依するとか服従するといっても、そこには常に積極的な意味があります。イスラム教徒になったからといって、何か特別に、世間から離れて出家するということではありません。日常の生活を、神の意思にかなうようにして生活する。それが正しい生活だということです。そういう意味では、イスラム教というのはまさに在家の宗教なのです。
まさとみ☆ イスラム教は仏教でいうお坊さんはいないのですか?
中村 そうですね。カトリックや他の宗教に見られるように、儀礼をとり行うことで神と人間の間をとりなし、その人の救済に関わるという意味の聖職者はいません。イスラムには「ウラマー」と呼ばれる学者たちがいます。神によって与えられたイスラムの規範についての専門的な知識を持っている人、聖法学者という意味です。
イスラム教徒にとって一番大切なのは、日常生活をどのように行っていけば神の意思にかなった生き方ができるのかということ。普通のムスリム(イスラム教徒)は、細かい法的なことについてはあまり知りません。いろいろな問題に直面した時、学者に相談すると、学者はアドバイスを与える。そういう意味での専門的な法的な知識を持っている人がウラマーです。
佐々木 仏教のように在家と出家を分けるとか、あの人は出家者でこちらは在家者だという区別はないと見ていいのですね。
中村 正統的なイスラムの場合、区別はありません。
まさとみ☆ ウラマーと一般の方との線引きは、知識があるかないかですか?
中村 そうです。専門的な知識を持っている人は、ひとつの階級のようなものを形成しています。専門的知識を持っている人たちが、大体ひとつのグループをつくっているのです。
まさとみ☆ 日本では、お坊さんは実家が寺院であったり、仏教専門の大学へ行きますが、ウラマーは何処か専門の学校があるのですか?
中村 もちろん、親が学者だから子供もそういう家庭で教育されて学者の道を歩むケースが多いです。そうでなくても、一般の人でも、マドラサという宗教学校へ行き勉強することができる。こういう学校では無料で勉強できるのです。ひとつの慈善的機関として、色々な所にあります。そして、能力があればどんどん先に進んでいくのです。
まさとみ☆ それで極めると、どうなるのですか?
中村 マドラサで教えて、たくさんの弟子を育てるとか。名声が高まってきますと、世界中から弟子が集まってくる。イランの場合を例にすると、シーア派のウラマーはカリスマ性を持っていてヒエラルキーができており、その中で学者はランク付けされます。ホメイニーさんは、アーヤトッラーといいう最高ランクの人でした。
それでは、誰が階級を決めるのか。別にカトリックのように一定の機関があって、そこで選考するわけではありません。学識が一般の人に知られ、だんだん人望が出て自然に権威が出てくる。そうすると、あの人は次のフッジャトル・イスラームなりアーヤトッラーなりに当然なるべきだというような意見が出てくる。ですから、弟子がたくさんいることも作用していると思います。まさに、民主的といえば民主的ですよね。
佐々木 本当に民主的ですね。
中村 それに対して、スンニー派はもともと政権との距離が近く、それほど組織立っていません。ウラマーが独自の全国的な組織を作ることは困難だったのでしょう。他方、シーア派の場合は独自のヒエラルキーを作ってきます。シーア派ではリーダーをイマームと呼びます。要するに教主・法王といった存在ともいえます。
スンニー派ではカリフといいます。スンニー派の場合、カリフが強い政治的性格を持っており、世俗的な性格が強い。それに対してシーア派の場合、永い間、少数(異端)として政治から遠ざかっていた関係で、イマームは非常に精神的な要素、つまりカリスマ性が強調されてきます。このシーア派の第十二代目イマームが9世紀末に突如この世から姿を消したのですが、今でも生きていると言われているのですよ。これを「ガイバ」(お隠れ)と呼んでいます。
まさとみ☆ ええ?
中村 やがて彼はマフディー(救世主)としてこの世に現れて世直しをすると信じられています。どこかで聞いたことのある話でしょう? メシアが再臨する、キリストが再臨するというのと同じ発想です。
佐々木 サドルのように一派の権威者がいて、その人たちに命をささげるような人々が爆弾を持ってきて政府機関を襲ったりするのは?
中村 サドル師はいろんなランクの中の聖職者のひとりです。政府であれ、誰であれ、イスラムの大義を犯す者がいれば、それを阻止することがムスリムの至上の義務である、というような彼の主張を正しいと思う人が彼をサポートするわけですが、穏健な人はそうではない。すべてのシーア派の人たちからサポートされているわけではないのです。一般の信徒にどれだけ人気があるのかです。
まさとみ☆ それでは、人気があったらどんなに過激であっても人はついてくるので
すか?
佐々木 その主張が正しくて説得力があると判断すれば、その人についていくでしょう。もちろん、いろんなテクニックがあるのかもしれませんが。特に自爆だとかテロなどになると、メンバーをリクルートして、トレーニングし、自爆をさせる。そういう一定のプロセスがあるのです。
まさとみ☆ テロを起こす人たちはほんの一部なのですね。メディアを見ると、イス
ラムすべてが過激のように思えてしまいますが。
中村 メディアは事件性がないと報道しませんからね。
佐々木 そうそう、おっしゃるとおりです。
中村 平和に暮らしている人なんてニュースにならないでしょう。
戦闘的か友好的かイスラムの本質
中村 かりにイスラムの本質は戦闘的であるとするなら、イスラム世界で残虐な事件が起こっても、それがイスラムだからということで簡単に説明がついてしまう。でも、実際はそうではないのです。普通のムスリムは、付き合ってなかなか感じの良い普通の人間なのです。
佐々木 私は以前、パキスタンのフンザという世界で一番寿命が長い桃源郷と言われているところへ行きました。すると、人びとはニッコリ笑って「アッサラーム」と挨拶してくれるのです。
また、レストハウスで泊まった時、私が日本人とみて、子供が下痢をして困っているので薬がないかと訪ねてきたのです。ちょうど下痢止めを持っていたので渡してあげた。すると、次の日、子供の下痢が止まったお礼だと、新鮮な果物をザルの上に山のようにもってきてくれたのです。
彼らは朝になると必ず『コーラン』を唱えます。本当に平和な所でした。そんな彼らを見ていると、なぜ爆弾を抱えて自爆をしたりする行動を起こすのか非常に不思議に思ったことがあります。
中村 パレスチナ問題でも、今でこそイスラエルとパレスチナ・アラブの関係は緊張していますが。イスラエルという国ができるまでは、隣村にはユダヤ教徒の人たちが住んでいて、本当に隣人として仲良く何不自由なく暮らしていたのです。それが、いったん政治・国家という断層が入ると、今まで隣人だったのが、とたんに「自分たちはイスラム教徒だ、あいつらはユダヤ教徒だ」って。
旧ユーゴの場合でも同じです。今までは共産主義というイデオロギーがあったので民族性はあまり問題にならなかった。ところが、それがなくなると、今度は民族性、つまり宗教に結びついた民族性が対立するようになる。すると、血で血を洗うような争いが続く。カトリック、イスラム教、ギリシャ正教が民族性と絡み合って、三つ巴の争いになってしまうのです。
佐々木 政治イデオロギーが介入するとそうなりますね。
中村 宗教の極端な方向が出てくるのです。
まさとみ☆ 極端とはいえ、政治と宗教が結びつくと、どの宗派でもどの国でも争いは起こりうることだと解釈できますね。
イスラムの規範『コーラン』
中村 イスラムには、人間が日常生活していくその規範は神によって与えられ、それが人間の正しい生き方なのだという考え方が基本にあります。では、一体何がその規範なのかというと、神の言葉だとされる『コーラン』です。預言者モハンマドが610年頃から、彼が亡くなる632年の間、約22年間の間ずっと続けて神から与えられた啓示です。その啓示を、彼が死んだ後に記録したのが『コーラン』です。一般の人が『コーラン』を読んで、そこから人間の生活全般にわたって指針を引き出すのは、非常に難しい。解釈の点でいろいろ問題がありますから。専門の人たちが解釈して、そしてもちろん『コーラン』で足りない時はどうするのかなど、1、2世紀かけていろんな学者が様々な議論をしながら体系化していったものをイスラム法(シャリーア)といいます。
イスラム教の開祖ムハンマドについて
中村 日本でいえば聖徳太子の時代。570年頃にムハンマドが誕生します。彼はメッカで商人の子供として生まれます。幼くして両親をなくし、孤児になります。祖父からおじに引き取られ、養育されるという境遇です。
25歳の時、お金持ちの未亡人と結婚します。ようやく生活の安定を得たムハンマドは、その頃から近くの山の洞窟の中で、1年の何日かを瞑想して過ごすようになるのです。40歳頃になり、ある時突然啓示体験を受けるのです。
まさとみ☆ 啓示体験とは何ですか?
中村 神の声を聞くのです。その時、ムハンマドは自分が当時アラビア半島で広く見られた物憑きにでもなったのだろうかと悩みました。しかし、やがて自分は神に召しだされた預言者であるという自覚を持ち、啓示の教えをメッカの人々に説き始めたのです。
まさとみ☆ なるほど。それがイスラムの起源なのですね。
中村 メッカの人たちは、すんなり「はい、そうですか」といって彼の教えを受け入れてはくれない。当時の部族社会は多神教ですし、それこそ精霊崇拝の社会ですから。
まさとみ☆ イスラム教は一神教ですよね? どうやって浸透していったのですか?
中村 対立もあったし、様々な迫害も受けるのです。そんな中、10年余り経った622年、メッカの約300キロ北側にあるメディナという町から救いの光が見てくるのです。
当時、メディナには大きな部族が2つあって、常に争っていました。そういう争いが長年続き、なかなか収まらない。そこで、たまたまメッカに巡礼に来ていた人たちの中に、預言者ムハンマドの説教を聞いて、「この人なら信用できる」という確信を持ったのでしょう。彼を調停者としてメディナに呼ぶことになるのです。ムハンマドも自分がちゃんと安全に活動できるよう様々な手筈を整え、622年にメディナへ移りました。これを「ヒジュラ」(移住)といいます。これがイスラム暦の元年、キリスト教でいう西暦に相当するものです。
イスラムの預言者がメッカからメディアに移って、メディナに独立の教団を作った。その教団のことを「ウンマ」と呼びます。これこそが、イスラム共同体のスタートだという意味です。
それまでのアラブ社会は、国家など存在しない、血のつながりに基づく部族社会でした。血を共有する人たちが集って部族を作る。そして、お互いに助け合う。このような部族社会のつながりを、血のつながりから信仰のつながりに変えようとした。ウンマというのは、信仰を絆にする共同体で、そこではどこの部族の人間なのか、どの民族の人間なのかは一切問われない。そういう意味で、非常に普遍性を持っているのです。
まさとみ☆ つまり、622年にメディナへ独立教団(ウンマ)が誕生したことが、血のつながりから信仰によるつながりへと変わったターニングポイントなのですね。
中村 ヒジュラ後、メディナのイスラム側とメッカの多神教徒側の対立は続き、何度か戦闘がなされますが、結局、ムハンマドはメッカの無血征服に成功します。それは、信仰という普遍的原理に立つ集団と、血族と金銭によって結合した集団の力の差ということでしょうか。いずれにしても、彼が生きている間に、アラビア半島のほぼ全域にイスラムは拡大します。そして彼の死後、イスラムはアラビア半島を出て東西に広がっていく。その中で、教団は巨大な国家に変身していく。以上、イスラム教の起源の話をしましたが、実は、イスラム教では最初の預言者はアダムであって、イスラムそのものは人類と共に始まったとされているのです。
佐々木 そこまでもっていきますか!
中村 アダムが神の言葉を最初に受け、楽園を追放されて地上の歴史が始まるわけでしょう。まさに、ユダヤ・キリスト教的伝統を踏まえているのです。
佐々木 ユダヤ教におけるモーゼの役割ですが、あの人も部族国家で色々あったものを統合しましたから。アラビア半島も7世紀以前は多神教で、すべてのものに霊魂が宿っているとするアニミズムだったのかもしれませんね。
中村 そうです。今のカーバ神殿に、三百何十体という石像で刻まれた神々を崇拝していたのです。そこにはいろんな部族のご神体が祭ってあり、一定の期間は戦闘を休止して巡礼へやってきていた。それを、いわばイスラムが取り込んだのです。つまり、イスラムをアラブ化したといえる。
シャーマンとスーフィー
佐々木 日本には、かつて各地にキツネが憑いたタヌキが憑いたといったことを払うようなシャーマンがあちらこちらにいました。ところが、明治維新から近代にかけ、知的なランクが高くなってくると、仏教の教義を踏まえたり、神道の教義を踏まえたりした宗教が出てきて、今まであった在来の村々のシャーマンたちを統合していく、あるいは改宗させていく。その過程と非常に似ていると思いました。規模は全く違いますが。
中村 確かに、イスラム以前のアラビア半島には、「カーヒン」と呼ばれるシャーマン的存在がいました。しかも、ムハンマドの啓示の際の言動や「天上飛行」(ミゥラージュ)などについての彼の言行から、彼のシャーマン的特徴を幾つか指摘することは可能です。
それと、民衆宗教としての側面としては、イスラムにも似たようなものがあるのです。その担い手はスーフィーですが。「スーフィー」とは、アラビア語でいう「神秘家」のこと。ワリー(友達)ともいいます。
まさとみ☆ 誰の友達なのですか?
中村 ワリー・アッラー。つまり、神の友。スーフィーたちは何を求めるかというと、個我を否定して無我になることです。自分が無になれば、そこに出てくるのは神ということになる。そういう形で神と一体になる。それこそがスーフィーが求める究極の境地です。そうすると、スーフィーは通常の人間ができないことができるのです。つまり、「神の友」(聖者)として特別な恩恵が神から与えられる、とされるのです。そこから民衆は聖者にさまざまな奇蹟を期待するようになるわけです。
イスラム教と仏教との類似点
佐々木 形の上から見ると、仏教にどこか似ているところがありますね。吾我。名利だとか自我というものを払い去れば、そこに仏と同じような境地が実現すると。非常に微妙な違いは、神と一体化するというところです。
真言宗などでは、仏と一体化するということを言いますが、禅は神に似たようなものを立てない宗教です。わかりやすくいえば、心のはたらきが吾我や名利です。そういうものを払い去って執着がなくなり、まっさらな気持ちになる。そこに本来持っている仏のはたらきが出てくる。
中村 スーフィーが修行して、究極的な目的に達成するひとつの段階として、シャリーアをきちんと守らなければならないということを言うのですが、それを形式的に守るだけでは不十分なのです。心がこもっていなければならない。スーフィーはこの内面を重視します。そのためにはまず、心を磨かなければならない。つまり、人間の心は自我意識によって縛られている。そのような自我を神に思念を集中することによって否定していく。つまり、神以外のものから心を解放するということです。自分の生きている目的、あらゆる日常的な関心が神そのものにならなければならない。だから、スーフィーの修行は本格的にやりだすと大変です。
まさとみ☆ 話を聞いているだけでも大変です。
中村 最後には、ジクルという念仏のような神をたたえる言葉を、何千回何万回と繰り返し唱えるのです。そうするうちに、だんだんに心が集中して無我の境地に入っていくのです。神の中に己が消滅した状態を「ファナー」(消滅)といいます。一種の神秘体験ですね。
もちろん、そういう状態は長くは続きません。また、日常生活に戻っていきます。このファナー体験の中でスーフィーは日常とはまったく別の世界を見るのです。私たちは言葉によって区別された文節世界に生きているわけです。言語によって区別・識別することによって日常生活を滞りなくすごしている。ところが、ファナーというのは、そういう言葉による縛りを全部取っ払ったものといわれています。それはどういう境地なのか言葉では表現できない。
佐々木 仏教では分別といいます。それに対して無分別と区別します。修行や学習によって分別智から無分別智へと高まっていくことと、今の説明は非常に似ていますね。
中村 私も非常に似ていると思います。日常生活に帰ることを「バカー」という。ファナーからバカー。分別の世界に帰るのですが、これは元の分別と同じではない。言語によって区切られた世界に帰るのですが、以前はその区別というものが絶対的なものだというふうに考えられていた。だから、みんなギシギシし、争いや対立が起こる。ところが、そのバカーの段階になると、言語によって区切られた世界は日常的なひとつの約束・仮のものにすぎないとみられるようになる。スーフィーは、そういう意味で日常世界に帰るのだけど、現実の世界というものが絶対的なものだとは見ないのです。
佐々木 分節化された社会でないと、経済や政治がうまくいかない。しかし、その中から苦も出てくれば、矛盾も出てくるし悲惨な目にもあう。そこでいったんそれを否定するというか、超えることによって分節化された社会を超えちゃう。超えたきりになったのでは困るので、もう一度分節化されたところに出てくる。分別から無分別へ行って、無分別を踏まえてもう一度分別に来る。
中村 イスラムは一神教ですから、具体的にどうなるかというと、すべてに神を見るのですね。
佐々木 仏教では、すべてに法を見る。そういうことですね。
中村 はい。これが哲学的にもっと高度になると、究極のあらゆる存在の根源というものは、普通は神と思っていくのですが、神ではない。神を突き抜けたその上のもうひとつ奥にあるものを考える。エックハルト的にいえば、神の奥にある神性というのでしょうか。
佐々木 神そのものではなく、神なるものですかね。
中村 ある哲学者は、これを存在(ウジュード)といっています。
イスラム法・シャリアについて
まさとみ☆ 1日に5回。飛行機の中であっても必ずメッカに向かって礼拝をしたり、イスラム教の規律は非常に厳格だと思います。なぜ、あれほど習慣化されているのでしょうか?
中村 それは、そのようにして神への奉仕を身体に記憶させていくという感じですね。ここでイスラム法(シャリーア)についてお話しましょう。イスラム法は大きく2つに分かれます。ひとつは儀礼的な規範、いわゆる宗教的な行為。二つ目は倫理的、法的な規範。そして、この儀礼的な規範は大きく5つの要素に分かれます。これを五行、あるいは五柱といいます。
第一が信仰告白。「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒である」の言葉をお祈りの時も、いつでも常に告白することです。もちろん、イスラム教徒になる時も、この言葉を告白するのです。それを言えば、誰でもイスラム教徒になれるのです。これを信仰告白といいます。第二が礼拝(サラート)。1日5回、メッカに向かっての礼拝です。三番目がザカート。施しや喜捨ことです。
佐々木 喜んで捨てる、お布施のことですよね。
中村 これは、一定の財産を持っている人はその一定量を差し出すという、いわゆる宗教税・救貧税ですね。四番目がラマダン月の断食。これはイスラム暦第九月の断食です。日中は一切飲食を絶ち、禁欲の生活を送る。ただし、日没後はいくら食べても飲んでも良い。五番目がメッカ巡礼。これは能力がある人、つまり経済的に、そして体力的に能力のある人は一生に一度はメッカ巡礼をしなさいということ。以上を五行あるいは五柱といいます。イスラム教徒として行わなければならない儀礼的な規範・義務行為です。
それから、法的な規範というのは、結婚や離婚、刑罰など日常生活の全般にかかわるような規律です。これは、伝統的な聖法学者が解釈して、体系化したものです。これが両方合わさったのがシャリーアというものです。
近代になって、国家が世俗化していくと、シャリーアの中の法的な規範が徐々に脱落していきます。世俗法に代えられてしまう。そこで色々問題が出てくるわけです。そのような「近代的」国家の政治・経済がうまくいかなくなると、シャリーアを再導入してイスラム国家を作れ、という原理主義イスラムが出てくる。
イスラム教的死後の世界・仏教的死後の世界
まさとみ☆ 仏教では、死後の世界。つまりあの世に関して悟りの境地を得るべく修行しますが。イスラム教はどうなのでしょうか?
中村 イスラムは割合、そういう意味でははっきりしています。あの世で救われる。つまり、この世界というのは永遠には続かない。やがては終末を迎えるのです。 仏教では輪廻転生で無限に続き、そこから解脱することが悟りでしょう。イスラムの場合はそうではなく、キリスト教、ユダヤ教もそうですが、直線的な歴史観なのです。ある一点で歴史は始まる。それは神が天地を創造した時。それ以降、歴史はずっと続いてやがて終末を迎える。天変地異が起きて、この世が滅びる。その前に、死者は全部元の体に戻され復活するのです。そして、裁きを受ける。一人ひとり、生きている時に何を信じ、何をしたのか、何をいったのかが全部明らかにされ、裁かれる。
佐々木 つまり、最後の審判ですね。
中村 いくらお金を持っていても、いくら権力があっても、そんなのは一切関係ない。
まさとみ☆ それでは、イスラム教など一神教の場合、死んだら死んだで、また裁きを受けなければならないとなると、いつ救われるのでしょうか?
中村 そうですね。だから、生前にちゃんと正しい信仰と行為を行っていれば、裁きの時に「お前は合格だ。天国行きだ」と言われる。
まさとみ☆ なるほど。だから、日常生活で正しいことをしておきなさいってことですね。
中村 そうです。ちゃんと正しい行いをしていないと、後に響きますよということです。そこで、落第した人は地獄へ行くわけです。永遠の苦しみを味わわなければならない。どちらへ行くかは、非常に大切なのです。天国には、色々楽しいことがある。幸せがある。
佐々木 仏教にも六道というのがあります。六道輪廻という思想です。イスラム教などの直線的な見方に対して、仏教は循環的。ぐるぐる螺旋状に回って、この世へ行って、あの世へ行って、そうしながら最後は仏陀の悟りの境地へ行く。これがインドの仏教です。
日本の仏教は、あまりそれが入らなかった。教えとしては入ったけれど、民衆の生活では、お葬式によって先祖供養して、仏の庇護によって先祖・一門を守ってくれる。そのあたりは大きく違いがあるけれど、根本の思想でいえば、輪廻転生思想の仏教も、直線的思想のイスラム教もどちらも天国や浄土へ行く切符はちゃんと用意されているのです。
中村 自分は救われるのか、どっちに判定されるのかって。それは不安なのですよ。イスラム教の信仰を告白している人間は、どんなに悪いことをしても、やがては預言者ムハンマドが神にとりなしてくれると信じられています。地獄に落ちても、信仰さえあればそこで一定期間地獄の火で清められ、やがて天国へ。そうじゃなければ不安ですよね。
ムスリムが死ぬと、死んだ人の耳元で信仰告白の言葉を叫びます。「アッラーは唯一にして、ムハンマドは神の人だ」って。そうやって、死者に覚えさせるのです。死者が死んで墓に葬られるでしょう。葬られると、ムンカルとナキールという二体の天使がやってきて基本的な質問を出すのです。「イスラムの基本は何か?」と。それで答えられないと、復活の日まで責め苦を受ける。これは民間信仰の一つです。
イスラム教と仏教の共存
まさとみ☆ イスラム教徒・ムスリムと仏教徒との平和のための共存は、果たして可能なのでしょうか?
佐々木 ユダヤ教もイスラム教もキリスト教もそうだと思いますが、宇宙を越えて宇宙の外に立つような偉大なる神が宇宙を創造したというのです。仏教ですと、お釈迦さんが出た時には宇宙はすでにあった。そこから始まります。
中村 「なる」と「つくる」ですね。
佐々木 「つくる」という大きな哲学の上に成立した宗教と、自然に「なっていく」宗教。どちらも修行が必要です。お釈迦さんも人の子として生まれてきたものが、坐禅をしたり苦行をしたりして悟りを開いた。悟りの中身というのは、宇宙万象は因と縁と果によって成り立っている因果関係だということ。
だから、つくられたものは全部移ろいゆくものだとなる。種をまいたものが大きくなり、やがて枯れていくように、人生もそうなのです。ところが、人間だけが、そのつくられたものや移ろうことに反して、そこに執着して「時よ、止まれ」と欲を立てて、抑えるでしょう。死んでいくようなものにすがるから苦が生ずる。それじゃ、苦を取るにはどうしたらよいか。あらゆるものが無常無我なのだから、それに執着するなと。それが実現できたとき、人は悟りにいたる。仏になる。仏教はこう説くのですよ。ところが、イスラム教やキリスト教はそうではない。一番奥に創造の神があり、摂理という概念をイスラムが説くかどうか。その摂理の下に生まれたものが年を取り、死んでいって、あらゆるものは神の意思の下にある。こういう違いがあると思うのですが。
中村 そうですね。すべては神の摂理ということになれば、諦めもつきます。スーフィーたちはそれを「神への絶対的信頼」(タワックル)という言葉で表現しています。『コーラン』にはこのように神によってすべては予定されていると記されているところもありますが、他方では、善いことしなさい。善いことしなければ、救われない、という表現もくり返しコーランに出てきます。人間の積極的行動、自由意志を説いているところでもあるのですね。では、一体それらをどう調和させるか。これが神学の一つの問題になってきます。
イスラム教と仏教、提携の可能性
まさとみ☆ イスラム教と仏教。このふたつが連携することは、果たして可能なのでしょうか?
佐々木 両者の連携は、これからの時代非常に大事です。ですが、特質はずいぶん違います。私は、理念だとか神をどう解釈するかというところでは、妥協できないだろうと思います。仏法(ダルマ)を説くものと、絶対の神というのは、手を握るといっても、どっちかを取れとなった場合は非常に難しい問題が出てくる。
ただ、イスラム教もユダヤ教もキリスト教も、「殺すな、うそをつくな、盗むな」といった人間の倫理レベルでは非常に共通点がありますね?
中村 そうですね。基本的な点では、確かに共通していますね。したがって、両者の共通点を探っていくというのは、一つの方法としては面白いと思います。倫理は人間の具体的生活と関係しており、日常生活の面では人間には共通する部分が多いですかね。
佐々木 存在論だけでいくと、どうも争いになる。それを関係論ということに変えていったならば、案外手が握れるという議論があるのですが。
中村 確かにそうですね。神学・教義のレベルでは、議論がとかく堅苦しくなりますからね。そこで関係論ということでいいますと、私は仏教とイスラム教を比較する場合、そのままの形ではあまりに違いすぎて比較にならないと思います。だから、タイプに分けるべきではないか、と思うのですが。タイポロジーですね。例えば、一つは、預言者型の宗教。神の手足となって、神の言葉、意思を地上に実現することで神の国をつくることを目指す宗教。もう一つは神秘家型の宗教。自分の心を浄化し変えることにより、自分の心の中に神を見出そうとする宗教。イスラム教は預言者型の宗教として出発し、その中に神秘家型の信仰形態がでてきた。同じようなことがユダヤ教の中にもいえる。律法の宗教として形成された中で、カバラに代表されるような神秘主義的な信仰形態が出てきている。
比較するとすれば、まず神秘家型のイスラムと、神秘家型の宗教である仏教を比較する。そこを手掛かりとして、両者の違いも理解しやすくなるのではないでしょうか。
これからのイスラム教
まさとみ☆ これからのイスラム教は、どのようになっていくと思いますか?
中村 イスラムの伝統を重視しながらも、近代という時代に調和的な形でイスラムを再解釈するというかな。伝統的なイスラムを見直していくという動きが出てくると思います。
まさとみ☆ 具体的に例を挙げると、どのようなものなのですか?
中村 単に『コーラン』に書かれている内容そのままを現代に持ってくるのではなく、その精神というものを現代に生かす。そのためにはどういうふうにそれを解釈すればいいのか。そういう方向での解釈というものが色々でてくる可能性はありますね。それを誰がやるのかというと、ムスリムです。我々はただ外の人間として、こういう考え方もある。ああいう考え方もある、と認識した上で、この狭くなった地球村で平和的に共存して生活していくには、どの立場がより適合的であるかを考えることはできます。そして、そういう人たちと話し合いをして、それを支えていく。結び付きを深めていくことはできるかもしれません。
まさとみ☆ どこに共通点があるのか。それを見つけ対話することが可能になれば、それができたら、いろいろな宗教とも結び付きができますね。本日はどうもありがとうございました。