お正月特集
お釈迦さまの教えと私たちの生活
──釈迦仏教と科学的思考──
お話 花園大学教授・宗教学者 佐々木 閑
聞き手 まさとみ☆ようこ
宗教離れが進んでいるといわれている現代日本。その中で今、注目されているのが釈迦の仏教である。そこで今回は、花園大学教授・佐々木閑先生に、釈尊の解かれた仏教について分かりやすくお話頂いた。瞑想について、集中について、お釈迦さまの教えを科学的に捉えた思考について。また、佐々木先生が朝日新聞で連載中の『日々是修行』について、現代の教育についてなど、仏教をキーワードに多岐にわたって伺った。
佐々木 閑
1956年、福井県生まれ。
京大工学部および文学部卒業。京大大学院文学研究科博士課程満期退学後、カリフォルニア大学バークレー校に留学。
花園大学専任講師、助教授を経て、現在教授。文学博士。
日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。
著書『出家とはなにか』『インド仏教変移論』『犀の角たち』(いずれも大蔵出版)
翻訳、鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波書店)
その他、論文約60本
現在、朝日新聞にコラム『日々是修行』を連載中
まさとみ☆ 佐々木先生は朝日新聞のコラム『日々是修行』を連載なさっていますが、ご自身に変化はありましたか?
佐々木 連載がスタートして1年半、70本ちょっとになりました。自分の立場を表明するコラムだから、自分の立場と違うものに対しては、つい筆が滑って、批判的に書くことがある。それを、担当記者からいつも止められます。これは煩悩ですね。人を非難して自分のほうが正しいと主張するのは一種の煩悩です。とにかく人をけなさない。人を陥れるのではなく、こちらの主張の正しさだけを語る。言ってみたら、去年1年間コラムを書くことで修行していたみたいです。最近は、自分で書いていて「批判的になっているなぁ」と、自分で消しています。きっと、去年より僕は良い人になっていると思いますよ(笑)。これは自分にとっても大変よい経験になっています。
まさとみ☆ 読者からのお手紙は届きますか?
佐々木 来ます。ファイルいっぱいにたまっています。大方、褒めてくださるものが多いのですが、もちろん批判の文章もあります。仏教と違う立場の人たちとか。
普段の一般社会の常識とはちょっとずれるような視線で、いつも書くようにしています。普段思っていることが、言われてみると違っていた。そんな内容を意識的に取り上げています。普段思っているような常識を絶対に正しいと思っているような人がたくさんいる。そんな人から見ると、僕の言っていることは非常に異端的で変に思うのです。そういう人たちから素直に批判の手紙がきます。
一番反響の手紙が多かったのは、「自殺は悪ではない」というコラムです。自殺を助長することになるのではないかという意見。それから、自殺で家族を亡くされた方からの御礼状。これは山のようにきました。その中の何通かは匿名でした。やはり、自殺で身内を亡くされた人たちというのは、その後の罪悪感が非常に強くて、名前を表に出せないほど自殺を隠している人がたくさんいるのです。
まさとみ☆ 何で自殺は悪ではないと書かれたのですか?
佐々木 自殺した人が周りにいるとか、あるいは自分が自殺したいと思ったとか。そういうことは、実は誰しもあるのです。私にもあった。その時の自分はすごい極悪人かというと、とんでもない話で、一番辛かった時ですからね。
自殺した人も、残された家族の人たちも、みんな苦しんでいる。邪悪な気持ちをもっている人は誰もいないはずなのに、それが悪だって言うのなら、一体その悪というのは何か? 普通にまじめにまっとうに暮らして苦しんでいる人がみんな悪だったら、人間は全員悪人ということになってしまう。そんなことを前々から考えていました。
六根六境六識
まさとみ☆ 仏教では、『六根・六境・六識』という言葉があると聞きました。普通は五感といい、五とあらわしますが、なぜ六なのですか?
佐々木 五感というのは、外に見える認識器官。仏教にとって一番大事なのは人の心です。常に探求の方向性は内側なのです。重力がどうしたとか、惑星の運動がどうかとか、仏教とは何の関係もない。自分はどういう存在なのか。そういうことを考える上で、一番大事なのは心。目や耳や鼻と同じように心もあって、この中で一番大事なのはどれかといったら、これはもう言うまでもなく六番目の心。だから、仏教の場合、どうしても六でなければならないのです。
例えば、所有に関して。これは私の家だと思っていますが、家のほうは、私はあんたの家だとは思っていない。誰が住んだって構わない。色々な思い込みで私のものだと思っているけれど、本当は全く無関係に存在している。自分のものだと思っていた家が火事になって燃えちゃったとする。すごく悲しいわけです。でも、全く無関係なものだと思っていると、気持ちは変わってくる。まぁ、惜しいなぁとは思いますが。
まさとみ☆ なるほど。もしかして、何も思わずただ「あ、燃えちゃった」と客観視できるのが、無我ですか?
佐々木 究極的にはそうなります。そういう思いに一番近づくためには、常に俺のものだ、私のものだという思いを持たないような生活をしていれば良いのです。だから出家しなさいとなるわけです。出家するときには、自分の所有という考えは捨ててしまいますから。どんなに家や財産があろうがなかろうが、自分は鉢一個とボロボロの衣で仏門に入るわけだから、それに対する執着は最初から消えてしまう。
人工的にその執着の錯覚の状態を消して暮らす。それでもたぶん、いくら出家しても、やっぱり命は惜しいとか、格好良くやりたいとか、色々な思いがあるでしょう。それはもう、修行でその後消していくのです。最終的なものをね。貯金通帳を見ながら坐っていても、全然執着は消えません。貯金通帳は捨てなさい、ということになるわけです。
まさとみ☆ 日常生活で、やっぱりお金はなくてはならないものです。忘れろというのは難しいですね。
佐々木 これほど難しいことはないです。私だって、全然忘れてないです。
まさとみ☆ 全員が全員修行しなさいというのも、それもまた難しいですね。
佐々木 非常に難しいと思います。ただ、釈迦の時代に比べてちょっと良いところがあって、釈迦の時代には生産性が非常に低かった。生きていきたかったら仕事をする。仕事をやめたら死ぬしかない。修行者は、その仕事をやめるわけだから、死ぬと同じくらいのつらい生活になるのです。でも、ごはんは食べていかなくちゃいけない。そこで、托鉢しながら修行をすることになる。
それに比べると今の時代は、はるかに生きやすい。仕事をしなくたって生きる道はある。昔に比べ、我々は時間を有効に使い、仕事をしなくても良い時間が増えているのです。そういう意味では、昔のお坊さんが必死で出家したようなことを、出家しないで一般の生活をしながら疑似体験することは可能です。もちろん一般の生活の中には、色々と煩悩を起こすような執着の事態がある。仕事をしている以上、そういうこともある。できるだけ受け流して、そういうものに捉われないようにしていけば、出家しなくてもそこそこの修行のような生活はできます。
まさとみ☆ 具体的に言うと、どういったことを念頭に毎日暮らしていけばよいのですか?
佐々木 怒りは抑えようと思えば抑えられる。それから執着。こういうものを、意図的にグッと抑えることができれば、普通にサラリーマンをしていても、修行できます。ただ、どこまでできるかは、人それぞれでしょう。
まさとみ☆ ストレス社会では非常に難しい修行ですね。
佐々木 それを抑えられるかということです。むしろ、きれいで静かなお寺の中で修行者が怒りを抑えるよりも、ストレス社会の中で怒りを抑えられたほうが、よっぽど偉い。
まさとみ☆ 満員電車ひとつとっても、すごくストレスになりますもの。
佐々木 それが感じられないように、満員電車の中だって修行はできますね。
まさとみ☆ 無になれば良いのですか?
佐々木 無になると、それは忘れちゃうことで、イヤホンをつけて音楽を聞いているのと一緒。外からの刺激を遮断しているだけで、誰でもできる。腹が立つようなことがあっても、それをじっと正視して、それを理解しながら腹が立たないようにしていく。
まさとみ☆ そうか。怒っては駄目で、この人がきっとこうだからこうなのだと、自分で理屈を考える。確かにそれは修行ですね。
佐々木 実は今、欧米などでは、瞑想を中心とした、釈迦本来の修行の姿を今でもよく残した宗教がどんどん広がっている。特徴的なのは、宗派に捉われていないこと。非常に独立した形でそれぞれの地域に根付いていて、独立運営でやっているところが多い。地元のアメリカ人やヨーロッパ人が興味を持って入ってくる。話を聞いているうちに、面白いからやろうかなと思う。よほど決心の強い人は、もうその場で生活を捨てて、衣を着て青い目のお坊さんになって修行者になる。
大抵の人はそんなことはできません。話はいいけれど、家庭もある。そうすると、お寺で修行の方法だけ習うのです。それを習って帰って、自分の家でやる。
まさとみ☆ それはお経を読むとか、坐禅の組み方を教えてもらうのですか?
佐々木 お経も読みますが、主はやっぱり坐禅の瞑想です。仕事が終わったら遊びもせず飲みに行かず、自分の家へ帰って、部屋の中を暗くして、一種のお寺のような状態をつくる。その中で、何時間か瞑想する。そんなライフスタイルの人が、爆発的に増えているのです。現代の普通の生活をしながら、釈迦の仏教をもう一度再現しようという働きが、非常に強くなっています。日本のように、従来の既成教団が網の目のように張っている檀家制度で縛られていない分だけ、自由にそういう人が増えていくのです。
まさとみ☆ 確かに、非常に門が開かれていますね。
佐々木 ゼロから選んでいくのだから、自分の一番好きなところ、合うところを選ぶわけです。
死とお釈迦さまの教え
まさとみ☆ お釈迦様が、どうやって死の恐怖を乗り越え、心穏やかに死を迎えるかを考えて生み出したのが釈迦仏教なのですよね?
佐々木 だけど、そんなことできるかというと普通は出来ません。ただやらないよりはやったほうが死の恐怖は薄らぐ。ただおびえて、ビクビクして、死ぬのは嫌だといっている人が、釈迦の教えで自分の心をしっかりとつかまえて、合理的に物事を理解するようにしていけば、多少の余裕は出てくる。多少の余裕がある人は、もっと余裕が出てくるという具合にね。
まさとみ☆ 老後に不安を抱えていたり、死が怖いという人はすごく多いと思います。そういった方に対して、お釈迦様の教えをどうやって自分の中に汲み取っていったらよいですか?
佐々木 それは、人それぞれで難しいと思います。ひとつ例を挙げますと、この間亡くなった物理学者の戸塚洋二さん。8年前からガンになった。最初は気楽に何とかなるだろうと思っていたのが、だんだん転移が進み、最後には、あと19ヶ月で死にますと宣告された。そこから色々な思いが始まり、いわゆるコンピューターのブログと呼ばれる日記に、日一日のその人の命が縮んでいく様子が、全部書いてある。
この戸塚さんが、途中で仏教というものにすごく興味を持つのです。もちろん物理学者で完璧な唯物論者だから、神なんか信じていない。そういう考えがあると同時に、死んでいく自分が、どうやってまっとうな精神を保ちながら最期まで生きていけるかという問題で、すごく悩むのです。
そんなときに、私が連載している朝日新聞のコラムを読んで下さった。それで、会いたいから来て下さいというので、私は東京へ行ってきたのです。
釈迦の考え方は超越的な何かが救ってくれるという思想ではない。この世の中に我々を救ってくれるありがたい絶対者などはないのです。日本の仏教は救いのことを言いますが、釈迦の本質的な考え方は、この世はすべて法則性で動いているので、「どうぞお願いします。どこかへ私たちを助けて、引っ張っていってください」とお願いしても、そういうところへ引っ張ってくれる存在を認めません。それが釈迦の本質的な考えで、すごくドライなのです。その中で、平安に心を保ちながら死んでいくには、どうしたらよいのかということが釈迦の考えです。これは戸塚洋二さんの心境に、非常に合った。とは言うものの、じゃあ何をしなさいなんていうことも言えないので、僕はただ説明をして帰ってきただけです。
その後、戸塚さんは自分で色々考えたり、本を読んだりして、毎日暮らしている様子がブログに書いてあるのですが、結局、死の恐怖から逃れることなど出来ず、いつも怯えるわけです。怖いのです。あるいは無念だ、死にたくないという思いはある。
しかし、そういう自分を一生懸命見つめて、死の恐怖を少しでも避けようとする。その非常な努力の跡がブログに書かれています。そして、戸塚さんは、自分がやっているこのことが修行だと言うのです。それは壮絶なものだと思います。最期、7月2日かな。ブログが途切れて「入院します」と書いてあり、7月10日に亡くなるのですが。それまでの間のことがブログにずっと出ています。
もちろん仏教は健康にもいい。ストレス解消にもいいし、いろんな実用的な効用があります。けれど、最後の最後は、やっぱり死んでいく我々がその死と向き合うときに役に立たなければ、仏教は意味がない。そういう時は、自分をみつめるというあまりにも漠然とした言葉だけれど、釈迦の「瞑想して、その集中した精神を使って、自分の本質を見つめなさい」というやり方しか、もう残されていません。
例えば、キリスト教やイスラム教のように、最初から一神教で神という存在を認めて、その神との契約を守ることで、将来必ず天国に生まれて、その後は永遠の幸せになるという一神教は、私はとても良いと思います。死ぬことが全然怖くなくなるし、むしろ死ぬことが楽しくなることさえある。
しかし、残念ながら今の私たち日本人は、そういう刷り込みの世界には生きていない。いくら言われても、それに対しては疑問が起こる。それは人によって強弱はあります。その疑問を持っている人にとっては、いくら救われると保証されたとしても、自分で納得できない限りは、いつも死ぬことは苦しみなのです。だから、同じ死というものを「楽」と受け取られる人もいれば、「苦」と受け取る人もいる。
釈迦は、私たちはどんなに繰り返し輪廻をして生き続けたとしても、それを救ってくれる絶対的な神はいないのだから、いくら生き続けても救われないという。生きること自体は、病気になって死ぬことの繰り返し。結局、それは苦だということになる。だから、仏教では一切皆苦というのです。
まさとみ☆ 一切皆苦ですか?
佐々木 すべてのものが、皆苦しみである。
まさとみ☆ なんだかこの言葉だけを聞くと、なんとなく救われない宗教なのかと思ってしまいますが……。
佐々木 まずそこから出発しないことには、しょうがないのです。神様に救われることが分かっている人生は、一生皆楽です。死んだら幸せが待っていると思ったら、場合によっては早く死にたいと思うこともあるかもしれない。ただ、キリスト教やイスラム教では、神は自殺をした人間は救わないと書いてあるので、そこで信者は自殺することを思いとどまるのです。
まさとみ☆ 誰も助けてくれないから、やっぱり頼りになるのは自分自身。だから頑張れということですよね。
佐々木 自分しかないということになります。ただ、掛け声で「頑張れ」というのは誰にもできるけれど、何をどうしたらよいのか教えてもらえなければ、頑張りようもない。その何をどうするかを教えてくれたのが、釈迦の仏教です。
まさとみ☆ それでは、実際に何をどうすればよいのですか?
佐々木 自分を見つめるということ。それによる工夫です。釈迦の時代の文献を読むと、格好いい話ばっかり出てくるのだけど、実際は死を前にして苦しい思いをして、悩む人もたくさんいたと思います。そういう人に対して大変強いアドバイスになる。それが本来の釈迦がやったことです。
まさとみ☆ 病気もそうですし、日々刻々と死が迫っている場合には、自分を見つめろと。
佐々木 それしかもう、しようがないもの。ただ、何か神秘的なものにすがってはいけないのかというと、絶対そんなことはない。死がだんだん近づいてきて、あと3日で死ぬと言われたら、本気で阿弥陀さんとか絶対的なものに救いを求めるかもしれない。絶対者がいないと釈迦は言うし、僕らもそう感じているのだけれど、だれも証明はしていない。絶対者がいるといわれて、それも怪しいと思っているのだから、いるかいないかどっちか分からず我々は暮らしている。要するに、真実はどうであるかは誰も知らないのです。
真実が大事なのではなく、自分が生きている拠り所となる考え方が何かということなのです。絶対者がいるかどうかは分かりません。死ぬ間際になって、やっぱり信じますといって念仏を唱えて亡くなるというのも、正しい死に方です。色々な生き方があるのです。誰も救ってくれないという一番絶望的な生き方があったとしても、釈迦の仏教は、最後にちゃんと支えてくれるというところが良いのです。何も支えてくれません、何も守ってくれません、救ってくれません。それでも大丈夫、修行をして、自分で苦しみを和らげるという最後の道がある。こう釈迦は言うわけですから。
まさとみ☆ そうか、続きがあったのですね!
佐々木 全体としての支えがある上で、私はこういうものを信じますといって、それぞれの信仰世界を持って生きる分には、それはいいことだと思います。場合によっては修行なんか要らない、とにかく救いを求めればそれでいいのだという人がいるのかもしれない。それはそれで良いのであって、ちっとも構わないのです。だって、その人はそれがとても良いことだと信じていられるわけでしょう。
科学者が言うように、これは真実で正しく、これは物理的に間違っているから駄目という○×ではないのです。宗教がA・B・C・Dとあって、それぞれ言うことが違って、どれかひとつを選びなさいという場合には、ほかのものは全部信じられない、駄目だと言って捨てて、ひとつを選ぶことになります。しかし釈迦の仏教と他の宗教の違いは、ちょっと違う。釈迦の仏教というのは、絶対者がいようがいまいが、とにかくここまでは最低保証しますというもの。
その上に、キリスト教だのイスラム教などがポコポコ乗っている。だから、その世界に入っている人は、その土台にある釈迦の仏教は要らない。見えなくでも良いのです。それぞれの世界で生きていればよい。
しかし、どの世界にも入れない、信じれない、やっぱり世の中には絶対者はいないじゃないかと思っている人は、どんな宗教にも入れない。それでも、その土台にある釈迦の仏教は、そこを支えている。そこに釈迦の仏教の独自性と、それから非常な有効性。我々にとって、ありがたい教えだというのは、そこなのです。
まさとみ☆ お釈迦様の仏教は、どの宗教とも喧嘩しないのですね。
佐々木 喧嘩しません。ほかの宗教が見えている人にとっては、釈迦の宗教は必要ないから、目に入らない。釈迦の宗教が必要になった人にだけ、目に入るようになってくる。そんなものだと思います。
法則性で物を見ていく仏教
まさとみ☆ 一般の方がお釈迦様の教えに親しみを持つ環境というのは、どういうものですか?
佐々木 絶対的な神がいない法則の世界で、物を合理的に考える。仏教の場合には、数学は使いませんし、対象はいつも自分の心のほうを向いていますから、外の物理世界の宇宙がどうしたとか、あんまりそんなのは興味を持たない。しかし、物事をどういう風に見て、どんな風に理解していくのかというやり方は一緒です。ということは、科学と同じ土台に立てる宗教は、釈迦の仏教しかない。法則性で物を見ていく宗教は、他にないのです。
精神を集中させる仏教
まさとみ☆ 私たちでも瞑想はできますか?
佐々木 できます。絵に描いたような瞑想でなくでも良いのです。精神をグッと集中したとき、集中しなかったときにはできない仕事ができるようになる。これは瞑想です。その一番良い例は、数学を解くことです。数学を解く時は、精神を集中している。友達とおしゃべりしながら、解けたなんてことはないのです。どんな数学者でも無理です。数学者というのは、その精神集中の名人なのです。精神集中しなくても解けるのではないのです。数学者は精神を集中するのです。僕ら以上によく集中できるから、僕ら以上のことが分かる。
人間というのは不思議な動物で、精神を集中している状態と集中していない状態の2つが分かれている。集中していなければできないような仕事は、集中していないときは絶対できない。この精神を集中するという仕事は、これは人間にとって与えられた非常に特殊な能力なのです。
まさとみ☆ これは修行ですね。
佐々木 その精神の集中の度合いが高まれば高まるほど、分かる度合いも高まるはずです。
まさとみ☆ できないのは集中力がないということですか?
佐々木 その通り。集中力を養いなさい、というのが修行。毎日精神を集中させるのだから、だんだん慣れてきて集中度が高まってくるのは当然です。瞑想とか精神集中というと、普通はお坊さんが坐っている様子ばかり浮かぶのだけど、机に向かって数学を解いていたって、音楽家が一生懸命作曲している時だって、これはみんな精神集中。その時には素晴らしい仕事ができるのです。
釈迦は、その精神集中を使って、自分の心の分析をせよと言ったのです。自分の心がどうなっているのかをしっかりと見つめて、そして自分の心をより良いものに改良せよといったのです。すごく難しい仕事だけど、難しいからこそ集中した精神じゃないとできないのです。
まさとみ☆ 確かに、一番自分のことを考えるときに邪念が浮かびますよね。
佐々木 それをいちいち分析して消していくというのだから、すごい集中力が要ります。これが精神集中の本質です。
まさとみ☆ 仕事に夢中になることでも良いのでしょうか?
佐々木 例えば、仕事の中のある一点を徹底的に考えていく時間を持つとかね。一種の慣れですから。
まさとみ☆ 色々ではなく、的を絞るのですね。最近、集中力がない子が非常に多く、学級崩壊が起こっていると聞きます。それも関係ありますか?
佐々木 その子たちが悪いのではないと思います。色々な脳の働きもあるでしょうし。だけど、そういう子たちに、できるだけ集中力をつけることは大事だと思います。普通の子供たちだって、集中する時間が少なくなってきている。僕もテレビゲームが大好きです。でも、テレビゲームの良くない点は、集中する時間を奪ってしまうこと。
まさとみ☆ ゲームの集中は、集中ではないのですね。
佐々木 あれは与えられている情報を、目とか耳から情報処理をしているので、集中する場合には外部からの情報はシャットアウトしなくてはいけない。お祭り騒ぎの中で数学は解けません。テレビゲームというのは外から強烈な刺激を常に与え、いつもお祭りを見せているようなものだから、これは集中とは全く逆の話になります。
まさとみ☆ 逆に、画面に釘付けになっているから、集中しているのかと思ってしまいますが。
佐々木 それは、外部からの刺激に振り回されているから、そうなって見えるのです。本当の集中力をつくるためには、やはり外界からの刺激をシャットアウトすることが、大事なひとつの条件になります。お坊さんが禅堂で精神集中する様子は、まさにそうですね。集中すると、できない仕事ができるようになることを、もっとアピールすべきだと思います。学校教育は、とにかく集中する時間をつくるべきです。
まさとみ☆ ちなみに、佐々木先生は、これをやったら絶対楽しくなる集中の勉強法って、何だと思いますか?
佐々木 それは難しいなぁ。子供によって全然違う。型にはめるのではなく、その子は一体何が好きで、何に集中するかを見極めるほうがよっぽど大事です。だから、先生のほうにゆとりがないと駄目なのです。学生にゆとりがあっても駄目。今の学校の先生は時間的に厳しい。もう何もかもやらされて、父兄のお守りまでさせられて、かわいそうに。あれをなくすのが一番です。子供ひとりひとりの個性を見極めて、集中する対象をそれぞれバラエティーに富んだものを与えてやったら、それは伸びますよ。あまり教育論を言うとおかしいけれど。精神集中というひとつの仏教のキーワードからでも、色々といいたいことはあります。
まさとみ☆ 本当に好きなことを、何かひとつでも夢中になって、がむしゃらに楽しめる。そういうものがあることは、すごく良いことですね。それは、お稽古でも良いのですか?
佐々木 お稽古だって良いですよ。子供の時から集中することを一生懸命やっている子供が、非行とか暴力的になるとかはあまりないと思いますよ。自分といつも対話する能力があれば、それを外に突然向けることはないのです。
まさとみ☆ それが修行なら楽しいですね。
佐々木 それが全体として人間形成に繋がるのだから、どこから入っても良いのです。