人生の糧になる仏教のことば
華の香は 風にさからっては行かず
されど善き人の香りは 風にさからいつつも行く
善き人の徳は すべての方に薫る
―法句経 五十四―
佐賀県
長得寺住職 長井福雄
徳不徳は、備わっているのではなく、育んで得られたもの
世の中には徳のある人もいれば、明らかに不徳の人もいます。旅行などに人を誘う時、誰さんも行かれますよというと、あの人と一緒なら是非行きたいといわれる人もいるし、またあの人となら行きたくないといわれる人もいます。
徳のある人には自然に人が集まるが、ない人のところからは、人は去って行く。一体そうした徳不徳は、家柄や、生まれながらにその人に本来備わっているものでしょうか。
十四年前の阪神淡路大震災の時、義援金募金のために街頭に立ちました。テレビは、一日中現地の悲惨な状況を流し続けていました。寒風吹きすさぶ中を立っていると、ある人は「私も何かしないではいられないから」と三千円や五千円をくださる方もあり、また中学生や高校生も百円、二百円と寄付して行きました。
しかし、夕方の行き交う人々の大半は、見向きもせずに通り過ぎてゆきました。「あっしには関わりのないことでござんす」という木枯紋次郎のセリフが思い出されました。
本来、人は、全てのものとの関わりの中で生かされているというのが、仏教の縁起の教えです。その関わりの人生をどう生きるかで、その人の人間性が問われるのです。
悲惨な境遇に泣く人を前に「関わりのないこと」として生きて来たか、「何かしないではいられない」という思いで生きて来たか、どちらの人生を生きて来たかが、その人の徳不徳となるのだと思います。徳不徳は、備わっているのではなく、その人が育んで得られたものです。
お金や地位のある人の元には、人は集まって来ますが、それは華の香りが風下にのみ流れて行くのに似ています。しかし徳のある人のもとへは、徳が自然に人々を安らかにして集まって来るようになるのです。
色即是空 空即是色
般若心経
東京都
天徳院住職 大藪正哉
「空」とは網の目のように関係しあって存在している姿
「色」というのは、赤いという色のことではありません。「いろいろなもの」のことで、「いろいろなもの」の一つに「私」がいます。
「私」は両親から生まれ、呼吸をし、水を飲み、食事をして生きている。今日の私は昨日の私ではなく、明日の私でもない。このように「色」には不変の実体はありません。
「空」というのは、空っぽということではありません。ここに柿の木があるとします。秋には実がなります。実がなるためには、柿の木が大地に根を張っていて、水や養分を取り入れ、太陽の光、空気、受粉のための虫も必要です。このように柿の実は、そのものだけで存在するのではなくて、回りにあるすべてのものの一つの表現ということになります。このことは、すべてのものも同じことで、すべてのものが網の目のようにお互いに関係しあって存在しているのであって、単独に存在しているものはない。すべてのものは根本的には一つである、ということです。一つ、二つ、の一つではなく、全体を一つと見ることで、これを「空」と表現しています。「宇宙は一つである」という考え方です。
宇宙はおよそ百四十億年ほど前、大爆発によって生じたといわれています。本当のことはよく分かりませんが、爆発した宇宙が拡散してゆく過程で、太陽も地球もできて、ついには人間のような生命をも生み出しました。もとを正せば、宇宙に存在するすべてのものは、宇宙のエネルギーのさまざまな表現形態です。この宇宙のエネルギーが「空」であり、この「空」から生まれた「いろいろなもの」が「色」であるということで、これを「色即是空」と表現しています。
しかし、現実には桜の花とバラの花は違うし、人も一人一人違っています。そこで、「空即是色」というのは、「空」は必ず「色」というそれぞれ個別の様相をして、この世に表れている。もとは同じだけれども、現実に現れたものは区別がある。これを「空即是色」と表現しています。