人生の糧になる仏教のことば


一行に遇うて一行を修す

正法眼蔵現成公案


  長野県
  常輪寺住職 中野天心


 私の父親である師匠は、家族に対して非常に厳しい人でした。大きな声で怒鳴られると、震え上がるほどでした。私が二十六歳の時に亡くなりましたが、いくつになっても師匠を怖いという気持ちはついてまわりました。
 ところが驚くことに、師匠はどんなに大きな声で叱ろうと、三十秒後、一分後には、何事もなかったかのようにケロリとしてるのです。自分自身が子どもをもってみて子育てをするようになり、叱らざるを得ず叱ってみたとき、中々そうは行かない自分に器の小ささを感じ、強く反省させられます。およそ叱るというのではなく、腹を立ててしまって、その気持ちをいつまでも引きずっている自分があるのです。慚愧(ざんき)の想いです。
 今考えてみますと、師匠は何事においても、一瞬一瞬、今、ここにま心を尽くすという生き方を一生にわたって貰き通しました。これこそが、道元禅師様の示された「一行に遇うて一行を修す」という生き方なのだと思います。良いことであれ悪いことであれ、私などは、過ぎてしまったことをいつまでも記憶に留め、思い起こしては慢心を抱いたり腹を立てたり、逆にまだ訪れていない将来の事にやたら妄想を抱いたりして、今ここの一歩がおろそかになりがちです。
 禅の指導者は、我々の理想的な生き方を一枚のよく磨かれた鏡に譬(たと)えて示してきました。よく磨かれた鏡は、自分の正面に来たものをどんな小さなものであれ、ありのままに写し出します。ところが次の瞬間その向きが変ると、前に写していたものを完全に消し去って、次に正面に来たものをありのままに写します。前のものを引きずらず、一瞬一瞬に今ここでなすべき事を行い尽くす。我々の生き方においても非常に大切な生き方です。


無明と解脱


  福井県
  御誕生時住職 板橋興宗


 私は昭和二年五月二十日、宮城県で生まれたといいます。しかし、これは戸籍上の記録をいっているに過ぎません。
 この世に、自分から生まれようとして生まれた人はおりません。「私が」生まれたというのは、自分なりの思い込みです。
 事実でないことを、あたかも事実のごとく思い込むのは「錯覚(さっかく)」です。「私は」息をしています、これも錯覚です。「私」とは関係なく息づいているのです。「私は」花を見た、というのも思い違いです。私が見ようとする前に「見えて」いたのです。「私が」笑ったというのも、あとからの説明です。笑うつもりで笑ったのではありません。おもしろいから思わず笑ったのです。
 私たちは、自分の意志とは関係なく、宇宙はじまって以来のさまざまな因縁が重なり合って、この世に生かされ、息づいているのです。それを「私」中心に生きようとすることに無理があります。
 もともと宇宙大の息づかいをしながら忌まされ、生きているのに、「私」という「思い」を中心に生きようとするから、悩み多い娑婆(しゃば)世界にしてしまうのです。これを仏教では、無明(むみょう)というのです。
 「生きている」というのは、息している、花が見えている、悲しんでいる、一刻一刻、からだがジカにわかっていることです。今という時があると思うのも錯覚です。息づいている体感を「今」というのです。
 「私」という思いをはずして、泣いたり笑ったり、大宇宙とひとつの「いのち」を実感することを「解脱(げだつ)」というのです。