「生活仏教」から臓器移植法案を考える
―脳死は本当に人の死か?―

宗教学者 正木晃


 終盤国会のどさくさに乗じて「臓器移植法改正案」が衆参両院を通過した。両院で可決されたA案は、「脳死は人の死である」としている。人の「いのち」を決する重大判断であり、賛否両論の声が挙がっている。
 折しも宗教学者の正木晃氏が「生活仏教から臓器移植法案を考える」―脳死は本当に人の死か―の一文を本誌に寄せられた。示唆に富む内容である。同氏は本誌「99号(平成19年お正月号)」にも登場し、「21世紀型『修行』は“行動”である」のテーマで斬新な見解を述べておられる。


 つい先日(七月一三日)、国会で臓器移植法案改正案が可決成立した。この「改正案」は、一九九七年一〇月一六日に施行された「臓器の移植に関する法律」の「改正」をめざしている。その骨子は、従来の法案が、@臓器移植の実施を考える場合に限り、脳死は人の死とみなしているのを、「一律に脳死を人の死」とみなすこと。A家族の同意があれば、子供への臓器移植ができるように「改正」することにある。今回、改正案が提出された背景には、従来の法案では、脳死による臓器移植がほとんど進まず、また子供への臓器移植が実質的に不可能であった事態を、変えたいという意図があった。
 最初にお断りしておくが、改正案が可決成立したからといって、この件を論じる意味がなくなったわけではない。日本人の死生観に甚大な影響をあたえる可能性を秘めているからには、これまで以上に幅広く深く論じていく必要、というより責務が、仏教界にはある。
 論じるにあたり、まず最初に、確認しておきたいことがある。それは、臓器移植が進まなかった理由は、一部の臓器移植賛成論者やマスコミが主張しているように、日本が脳死に関して後進国だからではない事実である。榊原洋一・東京大学小児科小児神経学講師が指摘するとおり、むしろきちんと対応してきたからこそ、脳死による臓器移植が進まなかったと考えたほうが正しい。海外における脳死判定は、日本ほど厳密ではない。さらに、米国では医療費が高く、医療保険に加入していない低所得者は負担が大きいので、「植物状態」の患者を、本人の意思がわからないのに「不毛の人生」と見なす風潮もあって、「数日以内に死ぬ、意識のない不毛の人生ならば、使える臓器は使おう」という社会的理由から「脳死」判定、臓器移植が盛んに行われてきた。日本のように倫理的問題の論争は、活発ではなかったという(「脳死」・臓器移植を問う市民れんぞく講座)。

そもそも、脳死とは何か?

 脳の中で、呼吸や循環など、生命に直結する機能の中枢をになう脳幹という部分の機能が失われると、生命維持に欠かせない呼吸が止まり、もはや生きていけない状態に陥る。ところが、数十年前、人工呼吸器(レスピレータ)の発明により、この事態が一変した。脳幹の機能が失われた結果、呼吸中枢機能の停止によって自発呼吸が停止した人であっても、人工的に呼吸させることが可能になったからだ。心臓は、脳からの命令ではなく、その自動性によって動くため、人工呼吸器で呼吸を維持すれば、脳幹の機能が失われていても、呼吸と循環はある程度まで維持できる事態が生まれた。これが脳死である。脳幹が機能していて、回復の余地がまだある植物状態とは全く異なる。要するに、脳死とは、医学の進歩によって生じた新たな現象であって、自然状態では考えられなかった事態なのだ。
 私自身は、脳死を人の死とみなすことに、医学の領域と宗教の領域の両方から、深い疑問を感じている。まず医学の領域から、こういう事実が報告されている。脳死と判定されても、一カ月以上も心停止に至らない「長期脳死」の子どもが日本全国に少なくとも六〇人いて、最長は一〇年五カ月もその状態が続いている。米国やカナダ滞在中に脳血管の病気で意識不明になった日本人で、現地の医師から「脳死」と説明されたにもかかわらず、日本へ帰国後、意識を回復した人が三人いる(毎日新聞 二〇〇六年七月二六日)。
 臓器移植となると、もっと衝撃的な事実もある。臓器を摘出するためにメスを入れると、反応しないはずの身体が、激しい反応を示すことが多々ある。汗や涙を流すこともある。妊婦であれば出産することもある。臓器を摘出しようと、メスを入れた瞬間、脈拍と血圧が急上昇し、患者がのたうちまわることも珍しくない。これらの反応に対しては、脳はすでに壊死しているので、まだ生きている脊髄が反応している自動運動にすぎず、痛みなどは感じていないはずだと考える医師も多い。しかし、本当にそうなのか、疑問が残る。

では、日本仏教は脳死とどう向き合うべきなのか?

 臓器移植については、究極の布施行として、称賛すべきという意見も聞かないではない。しかし、その前提となる脳死については、絶対に認めてはならないのではないか。
 理由は、厳密な仏教学の成果にもとづく教義仏教の領域から、仏教の死生観にそむくからという論法で、いくらでも指摘できる。もっとも、その論法は、おおむね専門用語の羅列や難解な理屈が多く、一般の方々からすると、あまりにも迂遠である。
 ここは、生活実感を重視する生活仏教の領域から考えたほうが、理解が得られやすい。なかでも、あらゆる宗教の原点となってきた死の受容という観点から考えたほうがいい。すなわち、死の受容には時間が必要である。決して急いではならない。ところが、脳死による臓器移植はそれを許さない。だから、認めてはならないという単純明快な道理である。
 まして子どもの死ともなれば、周囲は悲嘆の極みにあるだろう。親ならば、パニック状態になったとしても、おかしくない。しかも、脳死は長い闘病生活をへて生じるものではない。今の今まで、元気に走りまわっていた子どもに、まさに青天の霹靂のごとく、襲いかかってくるタイプの死にほかならない。そして、脳死による子どもへの臓器移植は、元気な子どもが、突然死か突然死にごく近いかたちで死ななければ、実現しないのである。
 そこには、死を受容する時間が、決定的に欠けている。だから、反対せざるを得ない。仏教者たる者、生命を重んじることは、いまさら指摘するまでもない。ただし、そのあまりに、死を軽んじてはならない。ブッダが「生老病死」をみつめることから出発したことを思えば、当然の帰結である。