人生の糧になる仏教のことば
仏道(ぶつどう)は人々(にんにん)の脚跟下(きゃくこんか)なり
愛媛県
瑞応寺住職 楢崎道元
道元禅師さまの学道用心集にお示しのお言葉です。「仏道は私達の一人一人の足もとにある」といわれます。別に足元にころがっているわけではありませんから、落とし物を探すようにキョロキョロ見て回っても何も見当たりません。仏の道が特別仕立てでできているのでもありません。仏教とか仏法という時は、学ぶ法に重心がかかっていますが、仏道という時は、道を歩くことに力点を置いてあります。
もっとも、仏教の教えは、お釈迦さまが八十年のご生涯の生老病死を艱難辛苦して、仏道の本筋道「中道(ちゅうどう)」のお手本を見せて下さいました。私達も見習って精進せねばもったいない、宝の山に入って偽物を探しているのでは、人生を無為に過ごしてしまいます。
近頃、四国八十八ヶ所を歩き遍路で巡拝する人が多いそうです。途中で禅の道場へ、ぜひ立ち寄って修行させてもらうと良い、と口伝えに聞いて来られ、色々お話ししてくれます。
何回も巡っていると、一木一草、石ころまで覚えているんです。アスファルトの舗装道路にないありがたさが受けられます。人間が便利さで仕組んだものでは、心に響かないのです。犬や猫が啼くのは甘えがあります。声なき声とでもいうのでしょうか、自然から聞ける音声を受け取ることができます、と。
昨年春、私は四十年ぶりにインドの仏跡巡拝をさせてもらいました。昔と違って、道路も宿も立派になって、日本の旅行者向けの食事も見られました。余りにも出来過ぎているのに、かえって残念に思いました。勝手なものですね。
先頃、風水害、大地震で、日本国中はもちろん、世界中が災害を受けました。人間は弱い動物です。みんなが助け合って生きているから、大きな力が出るのです。好き勝手にやっていたら、何も出来ません。まず「却下を照顧する」、土台をちゃんと据え付ける、坐禅の形を基本にして、頭でっかちにならぬ用心を怠らず工夫をして、日々精進をしたいものであります。
あるべきようわ・なすべきことは
前神奈川県立金沢文庫長・書家 高橋秀榮
鎌倉時代の初めに、仏教信仰の再興を願って、布教活動に情熱を燃やした求法の高僧の一人に明恵上人という人がいます。その人となりは、弟子の喜海が編んだ『明恵上人伝記』に詳しく描かれています。その高潔清純さは、当時はもとより、その後においても、多くの人々に敬慕されています。明恵上人は、澄み切った大空を照らす満月を眺めながら、「あかあかや、あかあかや」の歌を詠んだ人、また「あるべきようわ」「なすべきことは」という聖句を残した高僧としても知られています。
「あるべきようわ」という言葉は、明恵の弟子の高信が編集した『栂尾明恵上人遺訓』という書物に、「人は阿留辺幾夜宇和と云七字を持つべきなり。」と記されていますし、「なすべきことは」という言葉は、金沢文庫保管の『教誡儀抄』という戒律書に、「須恒七文字ヲモへ云々。其七字者ナスヘキコトハ云々。良是忠言也。」と記されています。
ともに七字の短句ですが、明恵上人は、この言葉を心に懸けながら、仏道修行のありよう、すなわち、あるべき姿を真摯に問い続けた仏道修行者であったようです。後者の言葉の底には、人は生命ある限り、「いったい何をすべきか」「何をしなければならないか」と、自らの心に積極的に問いかける意味合いがこめられているように思われます。
私たちは、さまざまな悩みや苦しみを抱えながら今を生きていますが、どんな困難にもめげることなく、心を励ましつつ、意欲的に生きていきたいものです。この二つの言葉は、人生をより良く生きていこうとする際に、心の励みとなるものではないでしょうか。この言葉に感銘を覚え、座右の銘にしている仏門の人は少なくないようです。折々にこの二つの聖句を思い出し、明日を生きる上での一つの指針にあてられてはいかがでしょう。
(イラスト 有本 恵)