討論
脳死は人の死か?
―「脳死‐臓器移植」問題を考える―


出席者
佐々木宏幹(宗教文化人類学者)
正木晃(宗教学者)
中野東禅(京都市竜宝寺住職)
藤木隆宣(仏教企画代表)

 去る平成二十一年七月十三日、総選挙前のどさくさのなか「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(通称A案)」が国会を通過した。この改正案については、さまざまな視点、立場から賛否両論の議論が噴出している。とりわけ、日本人の生死観に密接にかかわる問題として、仏教界からは鋭い疑問や反対意見が出されている。
 今回は宗教人類学の佐々木宏幹氏、宗教学者の正木晃氏、生命倫理に詳しい中野東禅師にお集まりいただき、わたしたち仏教者は「脳死‐臓器移植」問題についてどう考えたらよいのか討論を行った。

正木 晃
1953年、神奈川県生まれ。
筑波大学大学院博士課程修了。
国際日本文化センター客員助教授等をへて、現在、慶応義塾大学非常勤講師。
専門は宗教学。

中野 東禅
1939年静岡県生まれ。
駒沢大学大学院修士課程修了。
大本山永平寺安居。
曹洞宗総合研究センター教化研修部講師/武蔵野大学講師/京都・竜宝寺住職。

佐々木宏乾
1930年、宮城県生まれ。
東京都立大学大学院博士課程修了。
駒沢大学教授等を経て、現在駒沢大学名誉教授、曹洞宗総合研究センター客員研究員。


なぜ国会議員たちは採決を急いだのか?

佐々木 一九九七年に臓器移植法ができてから十年、これまでに国内で脳死による臓器移植が行われたのはわずかに八十一例です。これは欧米などに比べると極端に少ない。今回の改正案は臓器移植を促進するために審議、可決されたものですが、従来の臓器移植法では、ドナー登録した十五歳以上の人で、親族が承諾した人に限って臓器を取り出すことができたのに対し、今回の改正案では、本人が生前に拒否を表明していない限り、親族の承諾だけで臓器摘出ができる。それも、年齢制限がなくなり、幼児からでも臓器を取り出せる。
 さらに、これまでは臓器移植を前提とした場合のみ脳死は人の死とされていたのに対し、改正案では脳死は一律に人の死だとしている。とくにこの点についてさまざまな議論が巻き起こっているわけですね。日本は死をめぐる儀礼的な文化を広範囲かつ深く発達させてきた国ですから、脳死を一律に人の死とすることに違和感を感じる人が多いと思います。

正木 ある雑誌で柳田邦男さんが論じておられるのですが、じつは七月十三日に、臓器移植法改正A案だけではなく水俣病被害者救済特別措置法というのも可決されたんです。いつ衆議院の解散があるかというどたばたの中、極めて重要な案件が短時間のうちに強引に可決されたということで、柳田さんは、日本の国会議員というのは生や死を一体どう考えているんだと非常に怒っておられる。実際、A案に賛成したのは、自民党の議員がほぼ全員、民主党のほうは反対者が多かった。選挙後にもう一度これが上程されると否決される可能性が高いということで、この時期に通してしまったというのが実情のようです。
 ことに柳田さんが憤慨しておられるのは、A案を通すためにかなり強引な行為が議会内で行われたということです。ビラがまかれたのですが、このビラの内容が非常に問題で、一言で言ってしまえば、とにかく臓器が欲しい、移植を受けたいという側(レシピエント)の意見のみが一方的に出されていて、臓器の提供者(ドナー)側の立場が一言も論じられていない。柳田さんがよくお書きになっているのですが、ドナーの家族が臓器を提供した後でいかに悩んでいるか、場合によっては心を病む人まで出ている。その点に関する配慮がまったくないものであったということが問題だと思います。

脳死とはどういう状態なのか

中野 脳死というと、それだけで相当に反発する方がいらっしゃるのですが、 脳死とは何なんだということをここで確認しておいたほうがいいと思います。これまで日本人は「三徴候死」によって明治以来「死」を確認してきました。「三徴候死」というのは、脈を見て心臓の停止を、それから、鼻の所にティッシュペーパーを当てて自発呼吸の停止を確認する。次に、まぶたを開いて懐中電灯を近づける。このとき瞳孔が収縮しないと脳幹も死んだということで、医者はご臨終ですと言うわけです。つまり、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大(脳幹の機能の停止)、この三つを以って人の死としてきたわけです。
 ところが、脳死というのは、たとえば交通事故で頭部を損傷した場合とか脳出血とか脳梗塞などで心肺停止に陥ったとき、医者は救命のために心肺蘇生をしますね。電気ショックとかAED(自動体外式除細動機)を使って止まった心臓を蘇生する。肺のほうにはレシピレーター(人工呼吸器)をつける。ところがそうした救命処置をしている間にも、脳は酸欠を起こして脳細胞が死に始める。十五分くらい経つともうかなり死んで、四十分くらいたって脳幹が死ぬと呼吸ができなくなり、自分で生命を維持できなくなる。そんなふうに脳は「蘇生限界点」を超えてもはや死んでいるにもかかわらず、レシピレーターを動かし続ければ何日間は呼吸が維持され、心臓も動き続ける。それが脳死という状態なんです。

藤木 どうして脳死が意味をもつかというと、心臓が動いて血流があるため、肝臓や腎臓といった臓器も鮮度を保っているから、この状態で臓器を取り出してほかの人に移植したとき、成功する確立が高くなるからなんですね。今回の改正で脳死体は一律に死体とされるわけですが、臓器を取り出す時点では生体移植と同じになる。しかし、こうした臓器移植に適した脳死状態はさまざまな条件が重ならないと起きない。

中野 そうです。日本では年間で百十万人くらいの方が亡くなりますが、そのうち脳死になる人は三千人くらいといわれています。

正木 おっしゃるように脳死というのはレシピレーターという器械が生まれたことで生まれた新しいタイプの死ですよね。ところがこれが意外と理解されていない。大阪府立大学の森岡正博さんが、大本教が行った調査について報告をしているんですが、ドナーカード(臓器提供の意思を示すカード)を持っている人であっても、脳死と植物状態の差すら認識していない人が六〇パーセントいたという。そうなると、一般の国民が脳死をどの程度把握しているか非常に心細い。

藤木 脳死と植物状態とどう違うのか、私もあやふやなんですが、植物状態というのは、脳の働きはないが脳幹は生きているので自力呼吸でき、栄養補給をすれば長い年月生存できるし、まれに回復することもある。ところが、脳死の場合は不可逆的に脳幹も死んでいるので放っておけば通常二、三日で死ぬ。それをレシピレーターで呼吸させ心臓の働きも維持したのが脳死状態ですね。

正木
 大雑把に言えばそういうことです。ところが脳死には大きな問題があるんです。脳死といわれていながら、十年ぐらいその状態が続いている人がいる。そこに脳死の判定の問題があるわけです。脳死の判定基準というのは各国違いますし、日本はかなりきちっとしているんですが、欧米ではかなりずさんだといわれます。アメリカとカナダで脳死とされた日本人が三人いるんですが、家族がこのまま死なせるわけにはいかないというので日本へ運んだ。そうしたら、三人とも回復したという事例があるそうですし、ほかにもその種の事例が報告がされています。
 とくに子どもの場合は大変生命力があるので、脳死といわれた状態でも十年以上生きるケースがある。手を握ると握り返したり何らかの反応を示す。脳波を調べれば平坦なんですが、しかしそうした反応を示す身体に対して、これは死んでいると言えるのであろうかという問題があると思います。

中野
 それは、ヨーロッパで今までたくさんある事例ですが、日本では脳死の判定は非常に厳密に行っています。

脳死という概念に対する疑問

佐々木 それにしても医者が見間違うとか、判定基準そのものがあいまいだということもあるのではないでしょうか。あなたの息子さんは脳死ですから死んでいますと医者に言われても、レシピレーターをつけていれば呼吸も脈もある、顔色もそれほど変わっていない。そうなると、なかなか死んでいるとは承知できないですよね。その段階で、脳死ですから臓器を欲しい人にあげましょうというふうにことが進むのは、非常に短絡で危険ではないですか?
 日本宗教学会会長の島薗進さんは当初医学を志していたのが一転宗教学者になったという方ですが、『朝日新聞』にこう書いていらっしゃる。脳死という概念は、そもそも移植用の臓器を取り出すためにつくられた概念であって、人間の死生観や死別の経験に即して構成されたものではない。最初に臓器が欲しいという事情があって、それから脳死という概念がつくられた。だから慎重であるべきだと。

中野 一九七〇年代ころに、アメリカで交通事故で死ぬ人が五万人くらいいたといわれていますが、ちょうどそのころに、レシピレーターが開発されるし、移植の技術や免疫の拒絶反応を抑える薬も発達してきたわけです。そうした交通事故の死者の増加と移植医療の発達が結合してできてきたのが脳死という概念なんです。

正木 アメリカなどで、脳死状態の人にメスを入れると非常に激しい反応を示すことがあるという報告があります。あるいは突然両手を持ち上げてまるで祈るような動作をするとか、あれは、どうなんでしょうね?

中野 それは、脊髄自動反射(ラザロ徴候)ですね。脳は死んでいても、脊髄はまだ生きていますから。脳はもうすでに蘇生限界点を越えていますから、放っておけば腐っていくしかないのに、レスピレーターで無理に生かしているわけですから、臓器移植医療というのは生と死の境目の医療であることは確かです。

佐々木
 島薗進さんはだから生命倫理の前提が必要だとおっしゃっていて、脳死を一律に人の死とするのは人類が長い時間かかって培ってきた死の文化に対して、無理やり異質な基準を持ち込むことを意味すると心配されている。

中野 それじゃあ、レシピレーターを付けなきゃ良かったんです。そうすれば脳死と心臓死はほとんど同時に起こる。それならみんな納得するわけですね。しかし救命のためにはレシピレーターをつける必要がある。それによって多くの患者が救われている。その中で一部、治療の甲斐なく脳死になる人が出るわけです。
正木 現実としてレシピレーターを使わなければいいという選択肢は、救命の段階では言えませんね。

中野
 そこなんです。それをまずはっきりすべきです。それから、レシピレーターはじつは足りないんです。そんな無限にあるものではない。一人の人が独占してしまうと、次の人が使えない。そうすると、移植をしない場合、レシピレーターをいつ止めるかという問題が出てくる。脳死になって脳が腐ると大変臭いんです。亡くなった人の尊厳にも関わる事態になる。多臓器不全になって自然に心臓が止まるのを待っていたら、それこそ一カ月ぐらいかかってしまいます。そんな無駄な医療で、患者を苦しめることはできない。
 ですから程良い時に、多くの医者は、そろそろ止めてあげましょうよと家族に言うわけです。これはほとんどの救急病院でやっている。臓器移植をしない場合でも、脳死は人の死であるという規定は必要なんです。でなければ、レシピレーターを止めた医師は殺人罪に問われることになってしまいます。如実知見といいますが、生命倫理は観念ではないし、単純ではない。矛盾した思いの中で、死ぬべきものは死ぬんだということを納得して忍耐するしかない。そこに少欲知足というようなものを学ぶ。そうした心の事例を私はもっと集めていくべきではないかと思います。

臓器移植に熱心なタイの仏教徒

佐々木 私は日本で臓器移植が普及しない理由のひとつは、脳死に対する疑問と同事に、それに続いて起こる臓器移植に対する嫌悪感があるからではないかと思います。
 では、それはどこからくるかというと、これは日本人の伝統的な生死観に深く根ざした感性からくるように思います。実際、東大病院で起こったことですが、ある患者が脳死状態になった。そこで医者が臓器移植を待っている人がいるから移植させていただけませんかといったら、患者の奥さんがこう言ったそうです。「今までだって散々、あっちを切ったりこっちを切ったりして治療してきたんです。それなのに臓器を人様にあげてしまったりしたら、あの世へ行って主人はどうやって生きていくんでしょうか」と。今度は死者とは何ぞやという、死人の人格にかかわる問題が出てくるわけです。
 日本の場合には、死にまつわるいろんな文化伝統があって、今でもまだそのしがらみの中にいる人が大部分だということがある。それを無視して臓器移植を進めることには、大変問題がある。日本社会全体の合意を得るためには、もっと議論を深めていかなくてならないと思います。しかし、世界には脳死‐臓器移植にそれほど抵抗を感じない人たちもいます。ことに日本と同じ仏教国でありながら、タイなどでは臓器移植が盛んですね。

正木 エイズの救済活動をしている有名な女医さんとミニシンポジウムみたいのを開いたことがあるんですが、タイの方というのは臓器移植に極めて積極的なんです。基本的に、仏教文化の布施の精神が徹底していることは事実だろうと思います。ただ、タイの一般の人たちが医学的なレベルで脳死や臓器移植を理解しているかというと非常に怪しい話ですね。単純明快に「布施」するんだということになっている。とにかくテーラ仏教の伝統の中で、お布施は重要だとずっと言われていますから、社会全体が臓器提供も布施だと考える傾向があることは事実だろうと思います。
 ところが日本では教育水準が非常に高いのに、臓器移植に対しては抵抗が強い。日本の場合は恐らく、「身体髪膚これを毀損せざれば孝の始めなり」といった儒教の影響などがあって、自分の体を傷付けたりすることに抵抗感が強いのかなという気がします。
 
ドナー行為は人類共通の布施の精神

中野 臓器を差し上げるほうの話になると、世界に共通しているのはやはり「布施」の精神なんですね。英語のドナーという言葉は、サンクリット語のダーナ(布施)と同じ語源ですからね。

佐々木 逆に臓器をもらう側の立場はどうなんだろうと思うんですが、例えば、僕にかわいい孫がいて、それが臓器移植しか治療法のない心臓病だとします。とにかく誰かから心臓をいただきたいという気持ちがつのりますよね。それは、かわいい孫と同じような年頃のよその子どもが交通事故にでも会って、脳死状態になってくれないかなと、つまるところ、他者の死を期待するということになりませんか?

中野
 それは、いただく側も負い目は持ってますね。臓器移植は匿名が原則だったのですが、臓器をくれた人の家族に会ってお礼を言いたいというふうにアメリカなどではなってきていますし、日本でも今議論の最中です。
 献血などは完全に匿名ですから非常にうまくいったわけですね。ところが臓器の場合はもっと直接的ですから、いつまでも匿名性ではうまくいかない。移植を受けた方に精神的なストレスが出てくるケースも多いそうです。
 これは臓器移植に対して社会全体がなじんでいかないと簡単には解決しないと思いますが、そこはみんながお互いに背負っていくしかない。脳死‐臓器移植はそもそも矛盾した医療ですから。

死者を悼む行為の大切さ

正木 柳田邦男さんが書いていらっしゃるんですが、アメリカでは子どもの臓器移植が進んでいるように見えるけれども、じつはアメリカの病院の多くに「泣き部屋」というのが用意されているそうです。つまり、子どもが死んだときに、親が納得するまで何時間でも子どもを抱いて泣くことができるようなプライベートな空間が用意されている。
 私はいろんな意味で、脳死による臓器移植全体に対して異論があって、とくに十五歳以下の子どもの脳死判定による臓器移植は、現状ではすべきではないと思っているんです。それは、死を悼む時間が与えられないであろうということです。とくに子どもさんの場合、脳死になるのは突然死に近いですよね。その悲嘆に暮れた親御さんとご家族の状況の中で、臓器提供をする場合は非常に短い時間の中で判断をしなければいけない。そんなことが根本的に許されるものなのか、かなり大きな問題がある。
 人間の行為の一番の原点にある死者を悼むということ、その悼むための時間が十分に与えられないような行為というのは、いかがなものかと思っているんです。

佐々木 その辺は今後の社会的な議論と検討で、だんだん落ち着くところに落ち着くのかもしれませんが、しかし、人の死というものは、理性的というか知的な解釈だけではおさまりませんからね。脳死‐臓器移植の問題は、社会的合意とか社会的納得性が醸成されるまで、なおじっくり時間をかけて議論されるべきものだと思います。