柳緑花紅

道元禅師の時代、平均寿命は24歳

正木 晃
1953年、神奈川県生まれ
筑波大学大学院博士課程修了
国際日本文化センター客員助教授などを経て、現在、慶應義塾大学非常勤講師
専門は宗教学


 答えは二四歳である。現在は、男性が七八・六歳、女性が八五・六歳だから、三分の一にも満たない。ややくわしく言うと、二四歳という数字は、鎌倉市内に居住していた人々の平均寿命だ。先年、鎌倉時代に墓地があった由比ヶ浜遺跡が発掘され、そこに埋葬されていた遺体のうち、歯や骨の分析が可能な二六〇体について、聖マリアンナ医科大学の平田和明教授が調査した。その結果がこの数字である。
全体の約三割以上が一五歳未満とみられ、子どもが育ちがたかったことがわかる。また五五歳以上はわずか五体しかなく、長生きするのもはなはだ難しかったこともわかる。文字どおり、「七歳までは神のうち」、「人生七十古来稀なり」を実感できる。
当時の鎌倉市内は、居住環境いたって劣悪だった。庶民は四畳半か六畳一間に暮らし、煮炊きは室内。武士は玄米を食べられたが、庶民はアワやヒエしか食べられず、栄養状態はひじょうに悪かった。衛生状態は最悪のうえに、超過密ゆえに疫病も蔓延しやすかった。しかも「武士の都」だから、なにかにつけてまことに荒っぽく、暴力が横行していた。これでは、寿命は短くなるに決まっている。
 地方は地方で、飢饉が頻発していた。中世は気候の関係で、冷たい雨がびしょびしょと降りつづくことが多く、主産業の農業生産はふるわなかった。少ないパイをめぐって、いたるところで争いが起こっていた。これまた、寿命が長いわけがない。
じつはずっとのちの江戸時代の前半期でも、地方では、男性が四〇歳弱、女性にいたっては三〇歳強くらいの平均寿命だった。この時期になると、世の中は安定して暴力はなくなり、生産力もそうとうに伸びていて、鎌倉時代とは比較にならない。それでも、この程度の数字にとどまる。
 こういう事実をかんがえれば、道元禅師の時代の平均寿命は、おおむね二五歳とみなしても、さしてあやまたない。ようするに、死はきわめて身近にあった。
 ちなみに近代以前は、女性のほうが男性よりも短命だった。妊娠や出産にともなう危険はもとより、低栄養の状態では、女性や子どもの病気にたいする抵抗力はすこぶる弱く、ちょっとしたことで簡単に死んでしまっていたからだ。また日本人男性の平均寿命が五〇歳を超えたのも、昭和二二年(一九四七)のことにすぎない。たかだか六〇年ほど前の話である。逆に言うと、この六〇年あまりの間に、日本人の平均寿命は三〇年も延びた。
 これでは、日本人の死生観が変わるのも無理はない。しかしいかに時代が変わろうとも、仏教の死生観の根本になんら変わりはない。すなわち生も死も、あるがままに、素直に受け入れる。とくに死にたいしては、感情を抑制しつつも、真情を吐露するという態度である。その実例はもちろん、ブッダにもとめられる。
 ブッダは最晩年、モッガラーナ(目?連)とサーリプッタ(舎利弗)の二大弟子をともに失うという悲劇に遭遇した。外道に襲われ撲り殺されたモッガラーナのあとを追うようにしてサーリプッタが入滅したとき、ブッダは弟子たちに向かって、こういう意味のことを説いたとつたえられる(増一阿含経)。
 「憂い悲しむなかれ。すべてのものは無常である。生まれたものは、必ず滅するのだ。一切の愛すべき者は、ことごとく離れ行く。私もまた久しからずして、この世を去る」と。
 そしてサーリプッタの遺骨をてのひらにのせて、「かれはすばらしい人生を送った」と語りつつ、同時に「いまや私は、大事な枝を失った大木のようだ」と述べて、サーリプッタの死を悼んだともつたえられる(雑阿含経)。
 この伝承には、とりわけ「遺骨をてのひらにのせて」というくだりには、愛する者の死にたいし、「憂い悲しむなかれ」と説きつつも、一個の人間としては悲しみを禁じえないブッダのひととなりがよくあらわれていて、読み返すたびに、私はいたく感動する。



(挿絵・長谷川葉月)