私の人生を変えた転機

丸山劫外
昭和21年、群馬県水上町(現みなかみ町)に生まれる。
中学1年で上京。早稲田大学教育学部卒業。
駒沢大学大学院博士課程(仏教学)単位取得満期退学。
曹洞宗総合研究センター宗学研究部門研究員。
僧歴――昭和57年出家得度。
『宗教の風光―余語翠巖老師遺稿集』(中山書房仏書林、平成12年)編集。『君註 曹洞宗禅語録全書<中世編>第八巻』(四季社、平成18年)共著。


「私の人生を変えた転機」という題を頂戴しましたが、私の場合、これが私の転機と、過去の一幕だけをとりだせない感じがします。まあ、あまり劇的な人生を歩んではこなかったということがいえましょう。それでも頭を剃って出家したというからには、なにか劇的なことがあったのではないかと思う方もいらっしゃるようです。それで自分がなぜ出家するにいたったかということを振り返ってみました。


人生の苦しみ 人間の切なさ

 たしかにいくつかの転機といえる出来事が、私なりにはありました。第一の転機は中学生のときから故郷を離れて東京に出てきたことです。それには家庭の状況があまり平和ではなかったからです。いろいろとありますが、亡くなった家族のことを悪く書くことが私にはできません。なんでも赤裸々に書けばよいというものでもないでしょう。誰にも言いづらい事は人生にあるのではないでしょうか。書いてよいとすれば貧乏であったということでしょう。貧乏だったり、家庭の大変な状況があったりしたことが、私の幸運であったと、今、思っています。子どもの頃から人生の苦しみや、人間の切なさを味わってきたということなくして私の出家はなかったといえましょう。 
 それでなぜ東京に出てきたことが転機かと言えば、中学生から人に頼らずに頑張るという生き方を自然に身につけられたことや、東京の中学や高校に入って勉強する機会を得たということでしょう。私の入学した高校ではほとんどの人が大学に進学しましたが、故郷にいましたら大学まで進学する人は家庭的に恵まれた人がほとんどでしたから、私の家のような状況ではおそらく大学まで行くことはできなかったかもしれません。

母の教育

 自分でも働いてお金を貯めましたが、母が教育に熱心であった御陰で、無理をしても大学に入れて貰ったことはまた次の転機かもしれません。早大に入りまして映画研究会というサークルに入りました。このような研究会に入ったということが、また出家に向かっている選択だったかもしれません。映研の友人たちはそれぞれ個性のある人たちで、少々無頼な生き方を教えて貰ったり、のめり込んだり致しました。大学にも通いましたが、夜の新宿に通うほうが多かったかもしれません。しかし、のめり込みきれなかったのは、あるプロの脚本家の弟子になっていて、いつも作品を書かねばならなかったことと、いつもアルバイトをいくつも抱えていましたので、残念ながら無頼にはなりきれませんでした。またベトナム戦争があったり、学生運動の盛んな時代でしたから、多少はそんな洗礼も受けたりしました。一方馬術部にも籍をおいたこともあったり、活発な青春時代を送りました。
 多くの尼僧さんは、小さい頃からきちんと育てられているので、私のように少しはずれた生き方をした者が、いろいろと書きますと、他の尼僧さんにご迷惑がかかるのではないかと心配いたします。私の知っている尼僧さんたちは、清らかなイメージの通りですから。

失敗と後悔

 とにかく青春時代は、いつも人生とはなんなのか、生きるとはなんなのだろうか、自分は一体なんなのだろう、というような疑問で一杯でした。あれこれと動き回りながらも、かつて「万有の真相は不可解」といって華厳の滝に飛び込んだ青年がいましたが、そんな心境でした。そして挫折という表現は格好良すぎますので、挫折ならぬ失敗と後悔の連続の青春でした。しかし、この失敗と後悔こそが、私を出家に導いてくれた勝縁と思います。ですからこれが転機という一つの出来事ではなく、積み重ねであろうと思います。
 そんなある日「旅の重さ」という映画を観ました。自分探しの旅に、悩める若い女性が、お四国参りに出かける物語です。その映画に触発されて、私もお四国参りに出かけたのです。実はその時、結婚を申し込んでくれていた方がいたのですが。

 悩みながらの青春の日に、私はお四国参りに出かけました。結婚の申し込みを受けながら、やはり結婚に踏み切れなかったのです。
 その旅の途中で一人のお坊さんに出会ったのは、大きな転機といえましょうか。なぜならば「出家しないか」と言われたからです。その後、そのお坊さんの紹介で、奈良の三松寺というお寺にお世話になりました。結婚を申し込んでくれた方には謝りの手紙を出しました。
 奈良のお寺で坐禅させて頂いたり、住職の法話をお聞きしたりしていましたが、それでも出家するほどの気持ちには、なかなかなれませんでした。そんなあるとき典座寮の一室で、内山興正老師の『泣き笑いの托鉢』という小冊子を手にしました。私は、その中の次の一節に強烈な印象を受けました。「仏道をならふとは自己をならふ也。自己をならふとは自己をわするるなり」。道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」巻の一節です。不遜ですが、そういうことならば出家しようかと、その時、ふと思ったといってよいでしょうか。
 この後も書き続ければ、恥じ入ることばかり書かねばなりません。
 差し障りのないことを書きますなら、出家したいと思い、愛知専門尼僧堂の青山俊董老師の塩尻のお寺にお世話になったこともあります。先生にはいつも「担板漢では駄目だ」と叱られていました。どうしても自分は正しいという思い上がった考えがあり、それを指摘されているのですが、それが全く見えていない状態ですからいつも反抗していました。
 そして京都にあった安泰寺に内山興正老師を訪ねていったのです。そこで弟子入りを頼みまして、やっと十二月には得度式をしていただくことになっていたのです。
 ところが家庭のトラブルのために東京に呼び戻されてしまいました。それから五年間、夢中で家族の借金返しのために働きました。これも転機の一つでしょう。御陰でお金を稼ぐことがいかに大変かということをつくづく経験しました。
 借金返しが終わって気が緩んだこともありますが、思いがけない結婚をしてしまいました。しかし丸く収まる形で離婚していただけたことは有り難かったと今でも思っています。もし、結婚という経験がなかったら、私の場合は、やはり結婚をしたほうがよいのではという迷いが、出家後に起きたかもしれません。
 なんといっても出家の強い後押しになったのは父の死でした。その後海外にあちこちと行く生活をしていたある日、久々に会った母から、「あのね、お父ちゃんが死んだそうだよ」と言われました。一年前に死んだということでした。子どもの頃、私をとても可愛がってくれた父でした。母と別れてから、私はこれほどに涙があるのかと思うほど泣き続けました。それこそ涙の川が心のなかにあるのではと思うほどでした。そして東松山にある浄空院の浅田大泉老師のもとで剃髮していただいたのです。
 出家後、「あんたの先祖さんが、あんたの出家を願ってたんやで」と、或る法力のある方に言われました。その意味はその時は分かりませんでしたが、数年後、新潟にある本家のお墓参りに行きまして、そこにある一つの墓石に目がいきました。それは先祖の人で、お坊さんになった人のお墓だということでした。なんとその墓石に刻まれた僧名は、お四国参りに行ったとき、夢にも思っていなかった出家を、初めて勧めてくれたお坊さんと同じ名前だったのです。
 ここになにもかにもを書いたわけではありませんが、とにかく失敗と後悔の数々が私を出家という勝縁に導いてくれ、世俗的にはマイナスに思えることの数々が私の出家を支えてくれていると思います。自分、自分と思っていた自分を、「宇宙の命」と思えるようになった幸せがあります。よくぞ出家させていただいたと、今、思っている日々です。