柳緑花紅

お盆と日本人

正木 晃
1953年、神奈川県生まれ
筑波大学大学院博士課程修了
国際日本文化センター客員助教授などを経て、現在、慶應義塾大学非常勤講師
専門は宗教学


 お盆ほど、日本人になじんできた仏事もないだろう。ところが、その起源となると、仏教ではなかったらしい。
 お盆は正式には「盂蘭盆会」という。かつては、古代インドの言葉だったサンスクリット(梵語)で「逆さ吊り」を意味するウランバナの漢字音写といわれていた。たしかに、『盂蘭盆経』というお経には、こう書かれている。
 お釈迦さまの二大弟子の一人だったモッガーラーナ(目連)が、得意の神通力で、自分の母親が死後、餓鬼道に堕ちて、逆さ吊りの苦しみにあえいでいることを知った。「これは困った」と、お釈迦さまに母親を救う方法をたずねたところ、供養の仕方を教えてくださった。そのとおりにすると、母親が逆さ吊りの苦しみから救われ、これがきっかけになって、盂蘭盆会がもよおされるようになったという。
 この「盂蘭盆=逆さ吊り」説は、お話としてはひじょうにおもしろい。しかし、残念ながら、この説はいまではおおむね否定されている。
 近年の学説では、盂蘭盆は、古代イラン系の言葉で「死者の霊魂」を意味したウルバンを、漢字の発音で写したと考えられている。つまり、イラン系の民族といわれるソグド人が、古代中国に死者の霊魂をまつるお祭りをもちこみ、そこでインドから輸入されていた仏教とむすびついて、いまに伝わる盂蘭盆会の原型が成立したという説が有力だ。
 日本では推古天皇の一四年(六〇六)に、初めて盂蘭盆会がもよおされている。聖徳太子が活躍していた時代のことである。さらに、平安時代になると、空海たち留学僧が中国からもたらした仏教の施餓鬼の供養と融合して、重要な年中行事の一つとして定着した。
 そもそも日本列島には、何千年も昔の縄文時代のころから、祖先の霊魂をていねいにまつる儀式があったことがわかっている。そのなかに、祖先の霊魂が特定の時期に子孫のもとを訪れるという考え方もあった。これが中国から入ってきた盂蘭盆会や施餓鬼とむすびつけられ、いまにつづくお盆がかたちづくられたようだ。要するに、お盆は祖先の霊魂を供養する行事と考えていい。
 お盆で迎えられる霊魂を「精霊」とよぶ。その精霊として迎えられる霊魂には、三つの種類がある。一つ目がはるか昔に亡くなったひとの霊魂で、祖霊(本仏)という。二つ目が前の年のお盆から今年のお盆までの期間に亡くなったひとの霊魂で、新仏という。三つ目が祀るひとがいなくなってしまったひとの霊魂で、無縁仏とか餓鬼仏という。
 これらの精霊を迎えるために、盆棚とか精霊棚とかよばれる祭壇がつくられる。そして、寺からお坊さんをよんできて、お経をあげてもらうのが一般的だ。
 お盆といえば、盆踊りがつきものである。盆踊りは、たんなる娯楽ではない。精霊を供養し、あわせて祖霊と生きている人間が、心楽しく交流する場といっていい。死者との交流というと、どうしても陰々滅々になりがちなことをおもえば、盆踊りの盛り上がりぶりは、とても貴重だ。その貴重さを、日本人は心の奥底でよくわかっているからこそ、現在でも、日本列島の至るところで、盆踊りがもよおされているに違いない。
 このように、お盆は、起源は仏教ではなかったにもかかわらず、日本人の心の中に、とても大切な位置を占めてきた。起源が仏教だったか否かなど、もはやどうでも良いことだ。古今東西の、ありとあらゆる宗教の原点ともいえる「死者と生者の深いかかわり」を、もののみごとに演出してきたという意味で、お盆はひじょうに意義深い行事なのである。
 最近は、効率性や合理性を金科玉条にして、あるいは無駄だとか面倒くさいといって、葬儀をはじめ、仏事をおろそかにする風潮が強まっている。しかし、そういう死を軽んじる風潮が、人々の心をむしばみ、生きる価値を見失わせているのではないか。最悪の結果として、自殺者の劇的な増加をまねいているのではないか。私には、そうおもえてならない。お盆を機会に、仏事のもつ根本的な意味を、あらためて考えてみたいものである。



(挿絵・長谷川葉月)