私の人生を変えた転機
インド体験で得た仏教の幸福
此経啓助(これつねけいすけ)
1942年、東京都生まれ。
日本大学芸術学部卒業後、同学部助手を経て、インド・ビハール州立マガダ大学講師。
帰国後、宗教考現学研究所を創設、仏教関係の書籍・雑誌等の編集に携わる。
還暦を機に、日本大学に教授として復帰、現在に至る。
道元禅師七百五十回大遠忌文化事業部委員。
著書に『アショカとの旅』『明治人のお葬式』(現代書館)『都会のお葬式』『仏教力テスト』(NHK生活人新書)等がある。
初めてのインド旅行
一九七三(昭和四十八)年の春、私は初めての海外旅行、しかも当時あまり観光旅行先に考えられていなかったインドに出かけました。「神秘の」「永遠の」といった形容詞がインドに似つかわしい時代でした。総勢一七名の団体旅行で、メンバーは日本大学芸術学部の学生、団長は大学の非常勤講師で、ジャーナリストの岡本博先生、コンダクターは大学の助手だった私が旅行代理店に代わって業務を引き受けました。まだ海外旅行は大金がかかり、ドルの海外持ち出しに制限がありました。もちろん航空運賃もべらぼうに高かったので、運賃が半額になる一五名以上を目標にツアー希望者を募り、さらに費用を安くするために、私が旅行業務を代理店から学んで、なんとか二週間のインド旅行に出かけることができました。
このインド旅行は参加した全員それぞれに大きな感動を与えたと思います。いちいち各人に確かめた訳ではありませんが、以降、岡本先生のゼミでは、インド旅行がゼミ生の半ば義務と化しました。私も大きな感動を受けた一人で、翌年の春、大学を辞めてインドに渡り、延べ七年近く滞在することになりました。私の三〇代の大半をインドで費やした勘定になります。しかも、インドの文明・文化に学ぼうといった大志を抱いていた訳でなく、ありていに言えば、釈尊の成道の聖地で知られる北インドのブダガヤ村で、果てしなく広がった地平線をぼーっと眺めて七年間過ごしました。なぜ人生の貴重な三〇代をそんな風にして送ることができたのか。インド体験は以後の私の人生を変えたのか。それらの疑問は現在、私にとっても大きな謎で、「私の人生を変えた転機」というちょっと難解なテーマを与えられた機会ですので、改めて考えてみたいと思います。
消費化社会の到来
一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけての時代は、現在から振り返って見れば、日本だけでなく世界にとっても、時代を大きく変えた転機にあったのではないでしょうか。高度経済成長による消費化社会が到来し、スチューデント・パワーが北半球の先進国を襲いました。消費化社会はアメリカ、ヨーロッパ、日本へと年代をずらして到来してきましたが、その未知の社会に不安を覚えた若者たちは六〇年代末、とりあえず大学という組織に日本を含めていっせいに異議を唱えました。その行動は国家権力に対する暴力を含めた実力闘争ということで、「ゲバルト」と呼ばれました。私の勤務した大学も学力でなく、実力闘争のパワーで、全国の学生たちから東大に並んで誉めそやされました。副手という身分で研究室に残っていた私は、本来は学生側に立つべきだったのかも知れませんが、大学組織の一員として学生たちに接していました。だから、学生闘争家の発声を直接浴びる機会が多かったのですが、学生たちの年齢に近かったせいか、二〇代後半の私から考えて、彼らの異議に同意できる点がありました。それは「物事をラディカルに(根本から)考えよう」ということで、大学組織のあり方もそうですが、自分という存在のありようも白紙から考え直してみようと思いました。
七〇年代に入って、時代は少し落ち着きを取り戻し、日本もまたアメリカ、ヨーロッパに続いて、高度経済成長に入りました。都会では自分の好みで選べるような多種多様な商品が増え、消費化社会の兆しがあちこちで見られるようになりました。しかし一方で、そうした社会の幸福が私たちの心を置いてけぼりにするのではないか、そんな疑念に取りつかれる人々も大勢いました。先行して消費化社会に見舞われた欧米の若者たちの中から、自分たちの社会をドロップアウト(脱出)して、インドなどの東洋の国々を目指すグループも現れました。私たちのインド旅行はそんな時代背景の中で実行されました。
此経氏と共に暮らした少年アショカ(16歳)
インド体験の僥倖
初めてのインドは、感動よりも衝撃が私に大きく襲いかかりました。最初に訪れたカルカッタ(現在のコルカタ)の街は、バングラデシュが二年前にパキスタンから分離独立を果たしたばかりで、新しいムスリムの国から逃れてきたヒンズー教徒の難民で騒然としていました。路上は寝起きする難民で溢れ、行き来も困難を極める有様でしたが、私には人々が平然と災難に起立しているように見えました。自分を何者かにしたいという欲望で前のめりに歩いていた三〇歳の私は、少々疲れ気味で、自分に自信を失いかけていたからかも知れません。だから、私の目には物乞いも、足を失った人も犬も、路上生活者も、自分の置かれた状況にめげないで、みな毅然としているように見えました。幼年時代、疎開先から戻った戦争直後の東京でも、私は同じように必死に立ち上がろうとしていた人々を目撃しました。そうした人々の活力で成人した、とも言えます。私は二度目の目撃で、「オレが、オレが…」と自分を追いかける生き方を止め、このインドの人々の持っている活力の中に、あるいは彼らの住む大地の上に、そっとありのままの自分を置いてみようと決心しました。インドで干からびることなく生き残ったら、日本に帰って黙って働こう。
そんな願いを抱いて、翌一九七四年の春、再びインドに渡りました。長期滞在するために、ブダガヤ村の郊外にあるマガダ大学に非常勤講師で雇ってもらい、日本語を教えることにしました。釈尊成道の聖地にいながら、仏教には無関心でした。日常も平凡なもので、寝床は巡礼者用の木賃宿、寺院のゲストハウス、チベット人のテントなどを季節ごとに転々とし、熱い太陽が昇ると同時に起き、木陰の茶店でミルクティーをすする。週に二日、炎天下、自転車に乗って四〇分、村外れの広大な敷地の大学に通う。午後、ひたすら昼寝、夕食にチャパティー(小麦パン)を自分で焼き、地酒を飲む。夜、停電しがちな裸電球の下で読書、いつか木のベッドで深い眠りに落ちる。文字通りのシンプル・ライフだったから、飽きもせずそんな生活ができたのでしょう。
あたたかい信仰の体温に触れる
一九八〇年、母親の病気見舞いで一時帰国した私は、インドに戻らないまま、結局、日本でライターや編集の仕事を続けることになりました。たまたま仏教書の編集で、著名な学僧に取材させていただいたとき、その方が私のブダガヤ滞在を聞き、滞在中、無信仰であっても、釈尊成道の聖地に暮らしたことは僥倖(思いがけない幸運)で、大変に喜ばしい、と言われました。その僥倖はそれから仏教書の編集を重ねるうちに、少しずつ自覚できるようになってきました。それは仏教を支える人々(僧侶、檀家、信者、仏教研究者、葬祭関係者など)との途切れることのない出会いで、彼らのあたたかい信仰の体温に触れることのできる幸福です。彼ら仏教者に感謝する日々です。
釈尊成道の地に建つブダガヤの大菩提寺大塔