私の人生を変えた転機
教育の恐ろしさと大切さ

無着成恭
1927年、山形県南村山郡本沢村(現山形市本沢)清源寺に誕生。
禅宗の僧侶で日本の教育者。
生活綴り方の代表的な文集『山びこ学校』と『全国こども電話相談室』の回答者などを務める。
平成15年に大分県泉福寺に住職、今に至る。




 「私の人生を変えた転機」というテーマを原稿用紙に書いて、そこをじっと眺めているうち、「俺には、このことでコロッと変わったという転機がない!」というのが結論です。本を読んだり、先生から話を聞いたり、お師匠さんの一言でハッと気がついたり、つまり、目から鱗が落ちる現象と出合うごとに自分の生き方が見えてきた―というような、情けない人生だったなあ―というのが実感です。

 人生には決定的な転機があるんだ―と、私に教えてくれたのは堤恒雄氏の『失明をバネに生きる』(モノアート発行)という本です。『見えなくなって視えてきたもの』というサブタイトルのとおり、目明きの私が、「目をつむって見えるもの」「第三の目で見るのを観るというんだ」などといくらお説教しても、とても太刀打ちできない!と脱帽してしまったのです。

 堤氏は私と同じ昭和二年(一九二七)生まれ。誕生日も一週間と違わない。農林省のエリート官僚です。それが五十五歳の時、網膜色素変性症と宣告され、失明するのです。堤氏はトーマス・Jキャロル神父の著書『失明』を引用して「視力を喪失するということは、視覚を使っての人並みの生活が終焉したこと、すなわち普通の生活の《死》を意味する」と説明しています。
 五十代半ばで失明者となった盲人はどのような運命をたどるのか。目明きの私は考えたこともない世界がそこに出現します。堤氏は「それ以前の生き方とは異なる、もう一つの生き方となりました」と書いています。

 私はこの本で目が見えなくなるということはどういうことか、はじめて知りました。堤氏は〈失明者がいやでも失明者であることを思い知らされるのが、日常生活技術の喪失である〉と書いています。盲人の白い杖と、老人のただの杖はどこが違うのかも、この本ではじめて知りました。白い杖は盲人の目、つまりセンサーなのです。
 堤氏は書いています。〈点字教室の仲間と昼食をとるため外へ出るとき、肩に手をのせ手をつなぎ、みんなでムカデのように数珠繋ぎになって外食店へ入ります。お店では当然注文しなければなりません。誰かが「今日のランチはなんですか」と聞くわけです。A、B、Cと言われ、中身が全くわからないまま、誰かが「じゃ、Aランチにしよう」というわけです。すると誰も彼も「私も」「僕も」となってしまうのです。メニューを見て選べないのです。その悲哀!〉
 つまり、点字のメニューがないのです。この日本は盲人(障害者)には生きにくい国、障害者から基本的人権を奪っている国家であることが見えてくるのです。
 そしてそのことが堤氏の決定的な転機になります。私自身障害者や盲人の立場に立って(思いやって)(気をつかって)などと言い、そのように生きているつもりだったが、どうしてどうして、そんな甘っちょろいものではなかったと思い知らされた本でした。
 人生を変えるほどの転機というのは一度自殺しかけた人間が生き直すことを決意することなんのだと、教えられたのです。

 さて、私自身を振り返ってみて転機はあったか?と自問してみます。もし転機といわず、生き方を決定したことといえば、あの教えがあったから、ということなら箇条書きに書くことができます。
 第一は物心つくころから、お坊さんになってお寺を継ぐのだと、親はもちろん、まわりのものから言われ続けて育ったこと。
 第二は、食事の作法。口にものを入れて喋るな。出されたものは黙って食え。左手に食器。右手にお箸。食べ物の方が口に近づく。食べ物に口を持っていくな。食べ物に口が近づくのは犬や猫だ。食べ物はすべていのちだ。だから手を合わせるのだ。
 第三は、小学校一年生のとき、担任の先生が黒板の上の額を指さして、「ワタシタチハ テンノウヘイカノ セキシデス」というのを説明してくださった。セキシというのは赤子のことで、私たちは天皇陛下の子供だという。そのことを寺へ帰って、父親に言ったら「天皇陛下だって佛の子だ」と言った。それで一年生の私はすっかり悩んでしまった。お寺へ帰ると、天皇陛下と私は兄弟なのに、学校へ行くと親子になる。なぜだ!と。
 第四は、小学校五年生になる春休み。得度式をしたとき、仙道和尚(戒師)から、「本当に、お坊さんになると、自分で決心したのか」とただされて「そうだ」と言ったら、「お坊さんになるというのは天皇陛下から勲章はもらわないということを決心することだよ」と言われた。その言葉が今でも耳に聞こえていて、その意味を生涯考えるようになった。
 第五は、昭和十五年(紀元は二千六百年というとき)旧制中学に入学したのだが、そのとき、母方の伯父(住職・東洋史を勉強した人)から、「日本は南京占領したとか、除洲除洲と人馬は進むなんていってるけど支那は広いんだ。地図を見てごらん。日本軍が占領している部分なんかリンゴの皮の部分だ。こういうときは、こういう本でもじっくり読んでいろ」といってお祝いにくれたのは『西遊記』だった。それがあってか、必ず、玄奘三蔵が歩いた道を全部歩いてみたいと思うようになった。
 第六は、昭和十八年の学徒出陣だった。その法律で文科系に入れば徴兵延期がなくなる。そうすると駒澤大学に入れば二十歳で徴兵だ。卒業まで延期になるのは理科系と医学系と師範学校だけだ。延期になる学校に入っておけば二年は寿命がのびるわけだーよし、そうしよう。ここはそんないいかげんな根性で、師範学校を選んだのだった。
 そして昭和二十年四月、師範学校に入学し、その八月十五日、敗戦でおわったのだった。

 私の人生を変えた転機―というようなものが、もしあるとすれば、日本が戦争に敗けたということかも知れません。
 八月十五日の玉音放送を聞いて、「ああ、敗けたんだ」という意識よりは「ああ、終わったんだ」という感想の方が強かった。
 まだ、そのときは「日本て何なんだ」とか、「国家って何?」という意識はなかったように思います。
 そして九月、全国一斉に、今まで教えていた教科書に、教えていた教師たちが、教え子たちに向かって、墨を塗らせるという作業がはじまったのです。
 教師が、教え子たちに、ウソを教えていたのだ!それを臆面もなく、恥ずかしいとも思わずに墨を塗らせているのだ。一体、日本の教師って何なのだ。日本の教育って何だったのだ。
 私が、日本という国家をダメにするのも、国民をダメにするのも、教育なのだと実感するようになったのです。
 教育は恐ろしい。だから大切なのだ。子どもに本当のことを教えなければ、国家もその国家の中に住んでいる人間もだめになってしまう。教育は国家より大きいのだ。国家より大きい教育ができるのは坊さんなのではないか。そのいとなみを授戒とか、授業というのではないか―そんなことを考えるようになったのです。


平成20年泉福寺での研修会
中央:無着成恭師
左:大本山總持寺監院 横山敏明師
右:後堂 盛田正孝師