柳緑花紅
寄り添う
(財)東方研究会常務理事 奈良康明
東京大学卒業。カルカッタ大学院留学。
駒沢大学名誉教授。文学博士。
『ブッダの世界』『禅の世界』『ブッダの詩』他。
昨年10月初旬に「仏教教化事例発表大会」という企画が開かれた。主催者の呼びかけに応じて東京のホテルに全国から二十七グループが集まったが、教化といっても説法の会ではない。具体的な社会活動を行っている仏教者が集まって、実践の事例を話しあい、交流したもので、互いに得るところが大きかったようである。日本の仏教者が協力して大きな運動へと展開して行く下地作りの意味もあり得るし、有意義な会だったと思う。
集まったのは殆どが若手から中堅の方たちだった。私にとって印象的だったのはいくつかのグループが、いわば上から下への「教化」ではなく、共に生きるという生活実践のなかで苦しみや悲しみを分かち合うことが「教化」だと意識してとらえていることだった。
あるグループは生活困窮者の方に「寄り添う」活動をしていると報告した。仏教者が一方的に教え諭すという「教化」は行っていない。被支援者を「救う」姿勢ではなく、わがこととしてかかわらせていただく姿勢をとる。それが自分の学びにも連なるので、「教化とは他者とのかかわりによる自己完成」と信じ、実践しているという。
相手に同じる、ことは仏教の慈悲行の基本の姿勢だろうと思う。釈尊は「他を自分の身に引きあてて」というし、「同事」という教えもある。四摂法の最後に置かれているが、相手と同じ立場に立つことが他者を利する際の基本だと言うことであろう。『観音経』にも、バラモンを化するには自分もバラモンとなり、王を化するには王となり、商人を化するには商人となる、などと説かれている。
他者につくすことは上から下へと及ぼす慈悲ではない。それは西欧的の意味での「博愛」である。仏教の慈悲とは相手に同じる姿勢が根底にある。これはそう説かれてはいるが、実践は難しい。曹洞宗では葬祭も教化活動の一つととらえているが、相手に「寄り添い」、慈悲心の発露としての葬祭になっているだろうか。若手仏教者たちのこうした活動は、小さな動きかも知れないが、新しい息吹を感じさせられる。
もう一つ感じたことは、慈悲行は身近なところから現実に始めなければならない、ということである。仏教教理は「悟りの智慧が出れば慈悲もおのづとはたらきだす。智慧と慈悲は両々相俟ってはたらく」などと教える。敢えて言わせてもらえば、これは「悟りの立場」での発言であって、正論ではあるが、現実的ではない。私たち凡夫は、今、意識して慈悲を行じ始めなければ、何時になったら慈悲を行じられるのだろう。
江戸中期の至道無難禅師が、慈悲は最初は意識して行じなければならない。しかし、物事には例えば字を習うことのように、熟するということがある。慈悲も同様である。慈悲の行為が次第に日常化し、意識しなくても慈悲を行っているようになった時が仏だという(「慈悲して慈悲知らぬとき仏というなり」)。
相手に「寄り添う」慈悲の心を持ち続けたい。
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(挿絵・長谷川葉月)