シリーズ第一章 総序
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山永平寺
(第三節)無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親(目+匿)従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。
(訳)この世の一切は変化し続けていくのであるから確固たるものはない。露のように儚いこの命も、いずこの道端の草の上に消えていくかわからない。私の命と思っているこの身も、もとから私の思うとおりにはならないものなのだ。命は時の流れに乗って少しの間も止まっていることはない。少年の日のあの元気な姿はいったいどこに行ってしまったのだろうか。探そうとしてももはや跡形もない。つくづく考えてみるに、過ぎ去ったことは再びかえってはこないことばかりだ。死がたちまちに訪れたなら、国王であろうが、大臣であろうが、親しい友も従ってきた者でも妻子であろうが、財宝であろうが、何の助けにもならない。ただ一人で冥途に行くばかりだ。自分につきまとうは、自分が行った善業悪業だけなのである。
(第四節)今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
豪釐も?わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
(訳)この世の中で、因果の理を知らず、また善業悪業の応報があることをさとらず、過去現在未来の三世のあることを知らず、善悪の判断ができない邪見の者たちの仲間になってはならない。因果の道理は、明らかに全く人間の勝手にはならない。悪を為す者は暗闇に堕ちるし、善を行う者は明るく生きられる、これは毛筋ほども違えることはない。もしも因果の理は関係なく、なにをしてもどうでもよいのならば、多くの仏祖がこの世に出現することはなかったし、達磨大師も中国に禅を伝える必要はなかったであろう。
(解説)
この世の一切は無常であり、この命の儚さは誰しも知っていることです。この世の名声も富も死んで持って行けるものではないことは、言われなくても誰でも知っています。それこそ仏教で説かれなくても誰でも知っていることと言えましょう。
実際、お釈迦様が説かれたこと(仏の教え)は、川の水は上流から下流に流れていくような自然の法則なのです。あらためて説かれなくても、もともとこの地球上の一切の有り様であり、真理なのです。でもあらためてお釈迦様が、お釈迦様の智慧の角度から説いてくださったことによって、人間が真理をあらためて認識できたといえましょう。
その教えのなかでも、「因果の理」は、根本となる教えです。「蒔かぬ種は生えぬ」ということは誰でも分かっています。そして実を結んだり、花が咲いたりの「果」を得るまでに、太陽の熱や光や雨や人やらの助けを受けます。これが「縁」になります。因と縁無くして、今までなにもなかった庭に、突然花が出現することは普通はありえません。
大本山總持寺
この世の全ては、何かが、何かによって、何かになっている、あなたも私も木も空行く雲でさえそんな存在です。全く単独に自力のみで、ポッと此処に存在している事も物も人もありません。このこともよく分かってはいますが、時々、自分の力だけで生きているような錯覚を、起こしてしまう人も時にはいるでしょう。
さて、善因を蒔いて、この世でよいことがあるかと言えば、そうばかりでもなさそうです。あんなに良い人が、なんであんな悪い目に遭うのだろうね、ということもよくあります。 一方、あんなにひどい人が、どうしてあんなよい目にあっているのだろうね、ということもあります。悪因が必ずしも悪い結果を招いていないようです。それではお釈迦様の因果応報の教えは間違っているのでしょうか。
経済的や物質的に恵まれたり、世間的に出世したりするようなことを「よい目」といい、その反対を「悪い目」というのは、世俗的な見方に過ぎません。
ところが、お釈迦様はそのようなことをおっしゃっていません。お釈迦様は、やがては王になる生活を捨てて、出家なさった方です。名声や財宝を手に入れることの空しいことを知って、空しくないことは何かを探し求めて、それを教えて下さったのです。
その教えこそは、この「身心」に関する教えなのだといえるのではないでしょうか。よく「心の教え」という表現がありますが、心はこの身を離れてありませんから、「身心の教え」という表現をとりたいと思います。
この世の評価、価値判断に関わらない、ただこの身心に関する教え、この身心がいかに「清々と生きるか」、いかに「晴れ晴れと生きるか」、そのための教えと言ってもよいでしょう。人間の欲望を叶える教えとは違うのです。
お金には恵まれなくとも、またどんなに孤独でも、一方、億万長者であろうが、また名声を博している人であろうが、どんな境遇にあっても、どうしたら清々と生きられるかという教えなのです。いかに身心が豊かに生きられるか、いかに身心を自由に生かせるか、そのためには、どんな種を蒔いたらよいのか、という教えといえましょう。その点において、本来、一切差別のない教えなのです。
それでは具体的に仏教では何を善というのでしょうか。それは、「むさぼり」や「いかり」を起こさず、「まことの智慧」を得ることです。自分の欲望に振り回されないことです。その逆が不善(悪)です。業とは、そのような心の働きによる行為のことをいいます。善業悪業という言葉は、難しいですが、まさに身心についての教えだということをとらえておきたいと思います。
さて、「三世」を知らないことを邪見であると、この節では説かれていますが、過去現在未来という時の変遷があることは、誰でも知っています。それなのに「知らない」と表現しているのは、「今さえよければよい」という刹那的な生き方をし、自分の欲望のままに生きている生き方を、「三世」を知らない生き方として、それらを邪見と戒めているといえましょう。
一方「今の苦しみに耐えられない」として、人生をあきらめてしまうことも三世を知らない生き方といえましょう。どんなに苦しいことがあっても、永遠に続くことはありません。楽しいこともそうですが、苦しいことも、一切が蜃気楼のようなものです。特に苦しいときほど、自分にそう言い聞かせればよいのではないでしょうか。
自分をとりまく一切は蜃気楼のようなものなのだと、いつも念頭におき、実はこの身心さえも蜃気楼のようなものなのですが、身心の自由をめざして、コツコツと生き続けていく。どんなに苦しい状況にあっても、身心に清風を吹かせるのは、自分です。お互い、最後まで人生を諦めず、自分を生きていきましょう。
大本山永平寺法堂の額「法王法」