春彼岸特集
とげを抜いてくれた 美しいお経
伊藤比呂美(いとう・ひろみ)
詩人。小説家。1955年東京生まれ。
青山学院大学文学部卒業。78年に現代詩手帖賞、99年「ラニャーニャ」で野間文芸新人賞、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』で、萩原朔太郎賞、紫式部文学賞を受賞。
『伊藤ふきげん製作所』、『女の絶望』、『読み解き「般若心経」』など著書多数。
97年からカリフォルニア在住。現在は介護のために熊本とカリフォルニアを往復する。
二〇〇七年に『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』、そして二〇一〇年「読み解き般若心経」』を執筆した詩人伊藤比呂美さん。エッセイ、小説、翻訳など、多彩なジャンルで筆を振るい、さまざまな賞を受賞されている。自由闊達、天真爛漫、奔放な人柄で、真実をストレートに追い求める姿は大胆で魅力的だ。詩の朗読会「般若心経を読み解く」では数種のお経を朗々と読む。歯に衣着せぬ口調にも、熱い気持ちが伝わるのか、若いファンをも魅了する。
現在カリフォルニアに住むが、月に一度は熊本の父の介護のために帰国するという過酷なスケジュールの中、本紙の取材に応じていただいた。
【石原】『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』、『読み解き般若心経』という本を拝見いたしました。リズミカルな文章の流れに、するすると読んでしまいました。わたしも同年代の親がいることもあって、共感しながら、寄せる苦労に切なくも涙あり、また、思わず爆笑するところもありました。お母様といっしょに東京巣鴨の高岩寺、通称とげぬきさんに行かれたのはいつごろからですか。
【伊藤】 それはもういつとも知れない昔です。ものごころついたときから連れて行かれましたから。子どもだから、宗派も何も知らず、とにかく「とげ抜き地蔵」でした。高岩寺という名前も大人になって知りました。曹洞宗のお寺さんだったのですね。当時、実家の板橋からおばあちゃんや母親について路面電車に乗り、巣鴨で降りて、ずっと歩いて行きました。その後しばらく行かなかったんですけど、また高校、大学の頃も、どうしてでしょうね、何やかかんやで行くんですよね。わたしの意識の中ではしょっちゅう行っていた場所ですね。
【石原】 たわしで、お地蔵様を磨きましたか。
【伊藤】 いやあ、あれはしません(笑)。行って、別に拝むでもなく何するでもなく…。何かちょっと困ったことがあるとそこに行って、手を合わせるみたいなことが、何だか体に染みついていたんでしょうね。
【石原】 今、カリフォルニアにお住まいで、熊本にはお父様がおられ、月一回帰国されると聞きました。往復は大変ですね。
【伊藤】 大変。もうボロボロ。カリフォルニアのサンディエゴの小さな空港からロサンゼルスまで行って、それから飛行機の中に十時間。成田に着いても東京経由でまた熊本じゃないですか。時差ぼけもつらいし。
【石原】 いつごろからカリフォルニアにお住まいなんですか。
【伊藤】 九七年に、子どもたち全員を連れて引っ越しましたが、その前から行ったり来たりしていました。最近は毎月のように帰国します。仕事もあるんですけど、やっぱり親はほっとけないですよね、本当に(笑)。サディエゴ市役所に言っても父のビザが取れないんです。だから、もう本当にどうしようもない状態ですね。ノービザで、イリーガル(不法)で連れていくしかないので。
【石原】 それはもっと大変ですね。
【伊藤】 本人は嫌がります。いいのか悪いのか分からないけれどもわたしは仕事が来れば受けるという体質になっているので、だからわたしが行ったり来たりするしかないと思いますよね。
【石原】 お母様の闘病のことを具体的に書かれていますね。前向きで、行動的に明るく綴ってありますが、肉体的にも精神的にもつらいだろうと思いました。
【伊藤】 わたしは情が深いんですかね(笑)。一人っ子で、きちんと日本社会で生活すれば良いのでしょうが、親が年取っているというのに国を出たりしたわけですから…。今になって反省しても生活を変えるわけにはいかないし。
【石原】 どこにいても毎日朝晩、お父様と電話をされるとか。なかなかできないことだと思います。ところで昨年一月に『読み解き般若心経』を書かれましたが、お母様を亡くされたことからお経に興味を持たれたのでしょうか。
【伊藤】 お経はずいぶん前です。一九九七年に出した『日本霊異記』を基にした作品集『日本ノ霊異ナ話』という本があるんですが、実はこれは仏教説話なんです。お話の原型というのを探していろいろ読んでいたときにそれに出会って感動しました。しみじみ読んだのは初めてで、それを自分なりに自分の言葉で書き直そうとして、もう無から始めました。アメリカですから資料が手に入りづらくインターネットで調べるんですよ。その中でも何か、人間の感情の原石みたいなものに触れることができた。セックスのこととか描写も生々しいし。
しかも、平安時代のごく初期ですから、漢文の男の文学というのがあった時代です。いわゆる中古文学のねったりした感じは嫌いでしたが、それとは全然違う。もう本当にど真ん中って感じではっきり書いてある。身も心も惚れ込んで、著者の景戒さんと二人連れ、みたいな感じで書き始めました。仏教説話ですから、いろいろな場面で、ここで登場人物に何かお経を言わせたい、と思うところがあって必死で探したのが「懺悔文」なんです。
本当に美しい、お経の斉唱
【石原】 『読み解き般若心経』の中では最初のお経ですね。
【伊藤】 そのだいぶ前、二十八歳くらいでしたか、前の結婚をしていたとき、嫌々岡山の山奥にある婚家の法事に行きました。山のてっぺんにお寺があるところでした。その婚家の方は、みんなお墓を守るということが人生の目的みたいな感じで生きている。すごい反発を感じながらお寺に行って、隅っこの薄暗がりの板敷きに座っていたら、お坊さんが般若心経を読み始めて、なんとおばさんたちも経本を持って斉唱するように読経するんですよ。知らなかったです。まあ、あんなきれいなものを聞いたことない、本当にきれいでした。
東京へ帰って急いで本屋に行って岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』という本を買って読んでみたら、お釈迦様が舎利子に話しかけていたり、『般若心経』にはお話があるんですよね。おばさんたちは音だけで覚えたにしても、声を合わせて、もう本当にきれいだったんです。お経を読み始めたのはそのころですかね。当時はお経の翻訳なんて考えてもいませんでした。
女の生き様を書く
【石原】 『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』は萩原朔太郎賞受賞ということで、エッセイや小説ではなく詩ということですね。
【伊藤】 詩です。最初の一字から最後の一字まで詩だと言ってほしい。その作品はものすごくわたしにとって大切です。その前ずっと、スランプのどん底というか、詩の書けない時期だったんです。小説にしようと思ってやり始めたところが、やはり文章が詩のほうに走るんです。で、ああ、詩ってやっぱり気持ちがいいなと思って、小説をやめて詩に戻ったんですよ。そのきっかけにもなっています。それと『日本霊異記』の前にはまっていたものがあって、それが実は「説経節」というものなんです。
【石原】 説教節ですか。
【伊藤】 中世に始まった語り物の文芸で、すごく荒削りな文楽みたいなもので、人が語って、戸口から戸口へ、村から村へ、辻から辻へと語って伝え歩いたのでしょうね。仏菩薩や神様がこの世の人を救うために仮に姿を現したり、もともと人間であったときにはこんな苦労をした、それで死んで、こういう仏様、神様になりましたとかそういう話です。そこに何があるかというと女の生き様なんです。やっぱり興味は人間の生き様なんですよね。
語っていたのが、非常に身分の低い、あるいは非常に底辺の女性じゃないかと思わせるところがだいぶあって、そういう意味では『曽我物語』などにとても近いんですが、なぜかというと、女が活躍するんですよ。
ギリシャ悲劇とか、グリム童話とか、そういうものにも物語の原型という意味で興味がありましたが、日本にもあると思ったのが『日本霊異記』であり、「説経節」でした。「小栗判官」、「苅萱(かりかや)」、「安寿と厨子王」などですね。そういうふうに、女が強くてね、底辺に落ちるんです。本当にありとあらゆる苦労をするんですよね。で、パートナーである男は本当にかっこよくて、強くて美男子なんですけど、みんな地に墜ちてどうしようもなくなるんですよね。それを女が引きずって助けていくという話なんです、
どれもこれも。語っている女がそういう苦労を相当していたのだろうと思いました。遊女屋に売られたり、殺されかけたり、海に流されたり。そんないろんな苦労をするんですけど、今の女性だったら、恐らく苦労というのは、まずお金? 男? 子ども? 親? の苦労に尽きるだろうと。
【石原】 そうですね。
【伊藤】 ね。大抵これですよね。考えたら私やってる、と思ってしまって(笑)。それまでは、私小説として読まれるのがすごく嫌でしたけど、これを始めたときに主人公は照手姫じゃなくて、伊藤比呂美だ、と思ったんです。それがやっている苦労を、説経節として書けると思いました。そして本地ものですから必ず神仏がかかわってくる、そういう宗教的な高揚感というものが必ずあるんですよね。
【石原】 高揚感ですか。
【伊藤】 高揚感といいますか、信心ですね。それが必要なんですよ。それを考えたときに、「とげ抜き」だったんです。わたしなりにいろいろ考えて、わたしが信じているものといったら、いや唯一、大丈夫、頼れると思ったのが、子どものときからのとげ抜き地蔵だったんです。
実際、義理があって、子どものときから散々連れていかれましたから、よその神仏に行っても絶対に拝まないことを自分に課していました。「とげ抜き」だけ、っていう感じで。
母や祖母たちの心をとらえた「地蔵和讃」
【石原】 純粋ですね。
【伊藤】 (笑)そうなんですよ。それで、駒はそろった。女の苦労、それから説経節というスタイル、とげ抜き地蔵、この三つの駒がそろって書き始めたんですよ。
どう考えても母や祖母が信じていたのは、何か土着的なものなんですね。それは何かと考え、地蔵関係の書物などを嫌になるくらい集めました。『地蔵本願経』や『今昔物語』の十八巻ですか、ずっと地蔵のことが出てきてすごくおもしろい。だいぶ調べた結果、わたしの中でも、これが母や祖母たちの心をつかまえたのだなと思ったのが、「地蔵和讃」なんです。
【石原】 「一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため」というお経ですね。朗読会でも一番好きなお経とおっしゃっていましたね。
【伊藤】 そうです。これを書いている間に、「信心って何だろう」と思ったんです。それで突き詰めたんですけど、「とげ抜き」ではまだ、信心というのが、本当に宗教的な高みにまで行かなくて、結論としてわたしがこの中で出したのは、アニミズムに近いものでした。でもそれでは納得できなくて、ちょっと踏み込んでみたいと思ったのが「お経」でした。詩人の業でしょうか、見ていると翻訳したくなって勉強し始めたんですよ。まじめに。
【石原】 どんなことから始められましたか。
【伊藤】 なんと、「一家に一冊、我が家の宗教」とかそういうシリーズもの(笑)。お経CD付きで宗派別にもう全部。それも双葉社と講談社のほか何種類も集めることから始めた。その中にもおもしろいお経があるんですよ。そのときに訳せないなと思ったのは、仏教の、何というか、ファンタジーみたいな部分で、本当に信心して、仏様にわたしは帰依しますみたいな言い方が苦手で(笑)、なるだけそうならないように哲学の方向でと思い、インド哲学系の本を散々読みましたが、哲学を理解する頭がなかったんですよ、わたしには。
【石原】 でも諦めずに進まれたのですね。
【伊藤】 とにかくもう、詩人としての持っている底力みたいな、それだけを駆使してお経を訳していったらいいんじゃないかと思ったんです。
お経って、もう目が覚めるようにきれいでしょう。漢字の字面で読んでいても。CD以外には耳から聞いたことがないから、かえって自分では自由に想像できて、それで訳し始めたんです。いずれ『般若心経』にと思って、いえ、まさかあんな大作をと思いましたから、最初、細かいのから始めて、懺悔文とか、四奉請とか。
【石原】 朗読会で最初に読まれた「香偈」もきれいでしたね。聞き惚れました。
【伊藤】 きれいでしょう? すごいきれいなんですよね。どの宗教にも当てはまるようなものだと思うんですよ。大っきなものの前に自分を投げ出したとき、非力さを感じて、目を閉じて自分を清めるとか、もう一度初めからやり直す。香偈とか四奉請、懺悔文とか、本当にきれいです。
【石原】 お書きになった般若心経の本ではお嬢さんがお経の内容を話されるようになっていますね。
【伊藤】 お経の話をしていたら、うちの娘が「おもしろい」って言うんですよ。十二歳から米国に居て、本当に幼稚園ぐらいの日本語しか使えないような子が、般若心経が分かると言っているから、「じゃあ、『幼稚園児でも分かる般若心経』という本が出せるかも」って笑いながら、書き留めました。もちろん創作の部分もありますけど、基本は彼女の言葉です。そのまんま使えると思って(笑)。最初はそれを基にして自分で書こうと思いましたが、これは娘の言葉をできるだけ出したほうがいいと思った。
【石原】 すごく分かりやすく、ケーキなどをたとえに出すところなど読者が女性とすれば身近で楽しいし、英単語も微妙なところでおしゃれなニュアンスで新しい感覚でした。
【伊藤】 時々分かりづらいところは英語になっていたりして(笑)。彼女の声で、「だからね、シャーリプトラが…、カンノンが…クウなのよ」というのが、何か、ほんとに小さい女の子が話してるみたいで、かわいかったのね。ただ、まあそれだけではだめですから、わたし自身いろいろと勉強してみてウラは取りましたけどね。
宮坂宥洪師が書いた『般若心経』はすっごくおもしろかったんです。それまで何十冊と読んだんですけど、本当に学者が頭で考えて、ぱーんと言ったみたいな感じがすごくおもしろくて。もちろん岩波文庫の本は、ぼろぼろになったので何回も買い換えました。娘がおもしろいと言った玄有宗久師の本も。
わたしは「般若心経」のカバーミュージシャン?
【石原】 朗読会ではたびたび、ご自分の詩の朗読の間に「般若心経」を読むという試みをされていて、女性や若い方が多いのにびっくりしました。皆さん楽しそうに聞いていましたね。
【伊藤】 詩が好きな人はコアな世界が好きですよ。何の問題もないですね。人生相談をしてますので、福岡界隈では「ライブ!万事OK」という講演会も定例です。人の悩みにその場で答えていくという、言ってみれば、寂聴法話みたいなものですが(笑)。わたしは宗教者じゃないから、宗教に関することは話さないですが、でも、やっぱり何か、救いや癒しを求めているんだと確実に感じます。
お年寄りが多くて、最後に、「般若心経、ご存じですか、般若波羅蜜多心経、ってやつですよ」と言うと、みんな首がちぎれんばかりに「うん、うん、うん」って。(笑)
【石原】 みなさん喜んでいるのですね。老若男女問わず。
【伊藤】 好評です。般若心経はみんな知っている。やっぱりこれは大きいですね。わたしの詩を読むと、それはわたしの詩だから、あまり知らないものを聞いているわけですよね。でも、わたしが般若心経を読むと、それこそビートルズをカバーしているのと同じような。つまり、聞き慣れたものを聞いているわけだから、頭の中に一人一人の持っているイメージがあって、それに乗っていける。今はわたし、わたしなりのやり方でカバーミュージシャンみたいな感じですね。
お経の何に興味を持ったかというと、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時…」という本文の横にある読み方、ルビですか、「かんじー」と伸ばす部分の「ー」。
【石原】 音引ですか。本によって読みが違うと聞きますが。
【伊藤】 よくマンガにそういう表現のセリフがありますね。たとえば「学校」を「学コー」って。「学コー行くの?」みたいな。
【石原】 何か最近の中学生のメールみたいな感じですね。
【伊藤】 でも「行」のところは「ぎょう」なんですよ。謡曲の楽譜みたいですけど、これがおもしろい。つまり、音に出して読むためにこのテキストがあるんですね。わたしは朗読しますからいつも考えています。プロじゃない人たちにどうやって読ませて、それを繰り返させるか、そのためにこういう形を考えているわけですよね。何代も、何百年も続いて伝わっているんですね。
とげ抜き地蔵のご加護
【石原】 『読み解き般若心経』の中に、お母様が倒れて初めて至近距離から死を見つめた、と書かれていますね。
【伊藤】 そうですね。人は生きたら死ぬわけですが、昔だったら二週間ぐらいで亡くなったのが、今の医療で初めから入院しましたから、そこで二年半寝たきりになりました。父はその間、もう気弱でした。それまでに、父は胃がん、母が脳梗塞も患いましたが、やっぱりまだその頃は遠かったんですよ。
たまたまそのときわたし、日本にいたので、全部その過程を見ていました。また物書きとして、しかもこれはテーマが苦労の『新巣鴨地蔵縁起』も並行して執筆中でしたから。その間どんどんどんどん苦労が出てくるんですよ。もちろんその場では悩み、心が千々に乱れましたけど、これを書くネタだと思ったら、見ちゃうんですよね。月々の締め切りに、毎月どうやって書くかというほうが先になってきて、ネタがあると、「よし」って覚悟しちゃうんです。
ということは、これはやっぱりとげ抜きのお地蔵様のご加護ではないかと。とげ抜きのことを書いているということでとげを抜いてもらっているような気がしましたね。不思議でしょう。
【石原】ご加護があったのですね。あとがきを「四弘請願」で結ばれましたが、宗教のるつぼといわれる米国で、あなたはブッディストかと聞かれませんか。
【伊藤】 あからさまに聞かれることはありませんが、女のネタでさんざん書いてるから、まあ「I'm
a feminist.」って言ってます。で、最近は、「I'm
a Buddhist.」とも言うんですけど、うちの娘に「また、また」なんて言われますけど(笑)。
でも、読むものもマンガとお経しか読まなくて、半僧半俗みたいな心境ですから、何でブッディストじゃないのって(笑)。わたしがあまり植物のことを書くものだから、最近、某大学の環境文学会で、わたしは「環境詩人」だと言われていて、そう言われるのはとても好きなんです。
【石原】 新しいジャンルですね、環境詩人。本の中でもたくさんの植物の名前が出てきますね。
【伊藤】 出てくるでしょう。植物と自分との関係、そこからいろんなものを受け取っているような気がしていて、今回、まさに向かい合ってしまいました。
日本人の心の中に染み込んでいるのが四季を愛でる気持ち、俳句、和歌、能もそうですね。自分なりに結論として出したのは、これらはみんな仏教だと思ったんです。すなわち、無常を認識する気持ち、「無常観」だと思うんですよね。ちょっと何かをすれば植物の状態はすぐ変わる。因果応報。つまり仏教の基本ですよね。
【石原】 将来どんな物をお書きになりたいですか。
【伊藤】 能とか説経節とかがやっていたような、何にも言わなくても、仏教という地があって、その中で自分の愛憎とか、生き様を表現していったら、それが仏教だったみたいな、自分なりの仏教文学を確立したいですね、自分なりに。
【石原】 楽しみにしています。本日はありがとうございました。