人々を慰め優しい心で包み込まれた得忍先生

松橋秀之(児童養護施設 横浜市水上学園園長)  


九十一歳まで「アーサマ總持寺」(母子寮)で施設長を務められた

 鈴木得忍先生(96歳)


 大本山總持寺境内の北側に社会福祉法人「諸岳会」が運営する「アーサマ總持寺」という母子生活支援施設があります。以前は「母子寮」と呼ばれ、夫と死別したり、家を無くした母子が安心して生活できる施設として役割を担っていました。現在は、夫の暴力から逃げてくる母子が多く入所し、職員に護られ、支えられながら生活しています。
 その「アーサマ總持寺」で六〇年近く住み込んで施設長をされた尼僧さまがおられます。お名前は、鈴木得忍先生とおっしゃいます。先生におうかがいすると「アーサマ」とは、サンスクリットで「心の安らぎの場」という意味があるそうです。子どもが母親を呼ぶ「おかぁーさま」と重なり、とてもあたたかくて良い名称だと思います。
 得忍先生は、大正四年七月生まれの九六歳で、九一歳まで「アーサマ總持寺」の施設長をされていました。現在は、新潟県魚沼市にあります「龍谷院」というお寺の境内に小さなお家を建てられて静かに暮らされています。二〇歳で出家されました。主婦の友という雑誌に書かれていた尼寺や尼僧さんの記事を読み出家を決意されました。そして、尼僧さんを育てる「尼僧学林」がある「龍谷院」に行きましたが、「何人も受け入れたがうまくいかない。東京の娘さんと尼僧さんたちが一緒にやるのは難しい。」と門前払いされたそうです。しかし、先生の意志は強く、雪の日に再度「龍谷院」を訪ね、「もう家には帰れない」と住職さんを説き伏せ強引に入門されました。尼僧学林で四年間修行をし、駒沢大学で学んだ後、当時の満州、大連に六年間尼僧さんとして活動されました。その後、尼僧学林の先生をし、三四歳頃に当時の「總持寺母子寮」に赴任されました。 
 私は今から二四年前に、横浜市の母子生活支援施設の担当として得忍先生と出会うことができました。入所を希望する母子を得忍先生にお願いする仕事でした。母子生活支援施設を利用する方の中には、うそをつく、物をこわす、職員に暴力を振るう、トラブルを起こす人がおりました。そんな時、先生はいつも「ご縁ですから…」とおっしゃいました。職員や他の利用者の方々が大変な思いをされているのですが、先生は「仏様が出会わせてくださった人たち」と困りながらも受け入れてくださっていました。そして先生は、「相手の話をその身になって聞くことの大切さ、親身になること、やっぱり心だと思う。」とおっしゃいます。そして「慈悲」という言葉も先生から教えていただきました。説教のように「なになにすべき」と言葉で教えられるのでなく、先生のお母さん、子どもへの関わりの中から「慈悲」のあり方を教えていただきました。
 職員の方々のお話しでは、こんなエピソードがあります。暴力を振るう夫が「妻や子どもを返せ」と「アーサマ總持寺」に怒鳴り込んで来た時、得忍先生はその男性とお話しされました。しばらくするとその男性が「誰も俺の話を聴いてくれなかったのに…」とさめざめと泣きながら帰って行かれたそうです。またある時は、借金を繰り返すお母さんを訪ねてサラ金の方が、「テメェ…」と土足で入って来られた時にも、お抹茶とお菓子でおもてなしをされ、ゆっくりとお話しを聴かれたそうです。その方もおとなしく帰られたそうです。職員が夜遅くまで仕事をしていると、先生が「おにぎり」を握ってくださり、その握り加減がどうしようもなくおいしかったようです。ふわぁーと人を包み込む優しさを感じさせながら、先生は仕事をされていたようです。

 新潟県・龍谷院中村良円住職(右)と得忍先生

 私自身も、いつも側に先生がいてくださり、やさしく人と関わり、慰めと癒しを与えておられるお姿に感動することが何度もありました。私自身、仕事に行き詰まった時、悩んでる時に先生を訪ね、何時間もお話しを聞いてもらうことが何度もありました。私は愚痴を言い、不満や悪口を言うのですが、「いけない」とおっしゃるのでなく、「そうよ、そうよ。やってられないよね。」と一緒になって怒ってくださいました。私は話を聴いてもらい、一緒に怒ってもらったことで「どうでもいいや」と心が落ち着いたものです。今思い出すと目頭が熱くなります。
 得忍先生には「カサ・デ・サンタマリア」という母子生活支援施設の施設長のシスター宮下というとても仲の良いお友だちがおられます。もう何年も前のことですが、兵庫県の有馬で全国大会があった時、お二人が坂道を上って行かれるのを後ろから見ました。先生が黒、シスターが白の服で身を包み仲良く話されている光景が奇妙で楽しく、今でも脳裏に焼き付いています。お二人は現在も仲良しで、先生はシスターが運営されている、暴力から逃げてくる女性たちのシェルターのために多額の寄付をされました。
 施設長を辞任され、新潟に行かれてからも数年間は毎月一回、横浜までお花を習いに行かれていました。相当の力量をもたれていたと思いますが、それでも学び続けられる姿勢に感動しました。先生は「かきつばた」がお好きで、その活けられた花は、いつも凜として清楚でとても好きです。先生の生き様を感じさせられます。
また神奈川県の母子生活支援施設の施設長会の会長を何年もなさいましたが、いつも謙虚でご自分を低く、低くされていました。私たち職員を信頼し、母子生活支援施設の運営手引きの作成や研修会を立ち上げることができました。母子生活支援施設や市の福祉事務所、児童相談所の多くの職員から尊敬され、感謝されていました。今でも新潟に先生をお訪ねしたいという人が何人もいます。
 横浜市役所の先輩で石川さんという方がおられました。彼女は人生の大変な時に「總持寺母子寮」の利用者として得忍先生にお世話になりました。年に二回ほど石川さんと先生をお礼のために訪ねましたが、いつもお話しやおもてなしを受け、生きる力をいただいていました。石川さんは先生が退職されたら先生を家に迎えて一緒に暮らしたいとよくおっしゃっていました。しかしその石川さんの方がご病気で亡くなられてしまいました。残念だったと思います。
 私は市役所にいるときに福祉施設の方々の表彰の担当もしていました。先生には何度も表彰を受けていただくようにお願いいたしました。しかし全て断られました。実績を考えると叙勲も受けられてもおかしくないのですが、先生には関係ないことでした。先生にとっては、仏様やお母さん、子どもたち、そして職員の方々にどう思われているかが大切なんだと思わされました。
 先生と出会った多くのお母さんたち、子どもたちは、それぞれの人生の中で一番大変な時を先生がいらっしゃる施設で共に生活しました。多くの母子や職員が先生に影響を受け、そして感謝しています。聖人のようでなく、ひとりの人として私たちを「アーサマ」してくださっていました。
 老いられて、体の不自由、孤独、死のことなど、今かかえられていることは大変だと思います。そんな中、「毎日を感謝して生きないとね」とおっしゃっていました。