シリーズ第二章 懺悔滅罪

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

  大本山永平寺

第九節

其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

(訳)
 (前の節で述べたように)懺悔のその大事な趣旨は、私が過去に為した悪業が、たとえ積み重なっていて、仏道を学ぶのに妨げとなるような因縁があっても、仏道に因って悟られた諸仏諸祖師よ、私を愍んで業の累から解放させてくださり、仏道修行に妨げがないように、仏祖の功徳の法門が全世界にあまねく充ち満ちているように、その慈悲を私にもお分けください。仏祖もかつては私たちと同じであったように、私たちも、将来は仏祖となることでしょう。

第十節

我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。

(訳)
 私が昔より造るところの諸もろの悪業は、皆な無始の貪瞋痴に由って、身と口と意より生じたものです、私は今一切すべてを懺悔いたします。このように懺悔すれば、目には見えないが、仏祖の助けが必ずある。心に念じ、身を整え、全てを隠さず仏に申し上げなさい、全てを隠さない力が、罪の根を溶かし、罪を消滅させてくれるのである。

(解説)
 人間は守りたいもののために、悪業(悪い行い)を犯してしまうのではないでしょうか。守りたもの、それは、家族であったり、友であったり、時に国であったりします。そして守りたい一番は何かと言えば、他ならない「自分自身」「自分に関する事物」ではないでしょうか。
 自分を守りたいために、人を踏みにじったり、足を引っぱったり、嘘をついてしまったりなどなどの悪業を、人は意識的にも、無意識的にも、行ってしまうことがあります。
 時には、自分の命を守らねばならないために、他を傷つけてしまうようなことさえあります。
 また「自分に関する事物」としては、守りたい物は、お金であったり、財産であったりします。多く財産を欲しがって、骨肉相争う事になり、娘夫婦に財産の分与を迫られて自殺してしまった知人さえいますが、この娘夫婦のように、欲に目が眩んだ諸行は悪業です。 それほどのことでないにしても、名誉であったり、地位であったり、恋愛の相手であったり、我が物にしようとして、夢中になりますし、我が物となれば、それを守ろうとして必死になります。
 そうして守ろうとして悪業を犯してしまい、心安らかには過ごせないというはめに陥ってしまうことはないでしょうか。この世に唯一、自分に与えられたこの自分を、たしかに守る責任もあり、自分を守る喜びもあります。ただ大事なことは、欲まみれに自分を守ることは、自分自身を守っているようで、実はその逆だということです。
 果たして、どこから、誰から、なにから、この自分の命は与えられたか分かりません。 道元禅師は、「仏祖もかつては私たちと同じであったように、私たちも、将来は仏祖となることでしょう」と、いうほどの君たちなのだと、仰有ってくださっています。
 「将来仏祖になる自分」として自分を見た時に、自分を守ろうとして、執着心を起こしたり、時にお金に目が眩んだりすることは、「将来仏祖になる自分」のすることではないと、わかるでしょう。また一方、「仏祖になろうという自分」を守るためには、時に現世的には損なことでもしなくてはならない時もあるでしょう。
 それにしましても、意識しているだけではなく、自分自身覚えてもいなくても、数々の悪業を、生きている限りし続けてしまうのが、いまだ仏祖になっていない人間といえましょうか。哀しきかな。
 ですから「懺悔の偈」を心から唱えましょう、と、『修証義』では教えてくれているのです。
 「仏祖の法門の功徳は、全世界にあまねく満ちている」と、道元禅師は仰有っています。道元禅師は「功徳」という言葉を、その著『正法眼蔵』のなかでも、二百回以上お使いです。功徳という言葉は、「善業(善い行い)によって、神仏から与えられる恵み」、また「よい果報を頂ける善業」というような意味があります。功徳にはご利益という訳もありますので、現世的な利益と受けとられそうですが、物質的な利益というよりは精神的な喜びと言ってよいでしょう。心への頂き物、心へのご褒美といってもよいでしょうか。
 「将来仏祖になる私自身」と、自分を見た時に、為すべき事と為すべきでないことは自ずと分かるはずです。そうして懺悔すべき事を、心から懺悔すれば、救われるという功徳が必ずある、と説いてくださっているのです。
 自分なんて、私なんて、と自分を卑下するようなことを言う人がいますが、それこそ懺悔しなくてはならないことです。この任された自分の命を、大事に、それもやがては「仏祖になる自分自身」なのである、という思いをもって、大事に、しっかりと守って生きていくことではないでしょうか。 
 本当に大事に守るべき事は、物でもなく、名誉でもなく、地位でもなく、やがては仏祖になるこの身心であると気づいた時、はじめて真の懺悔ができるといえましょう。真の懺悔には、「仏祖の冥助(見えない助け)」が必ずあると道元禅師も仰有っています。そう信じて生きていけば、仏祖が慈悲をもって開いてくださっている広大な慈門に入れてもらえて、心豊かな人生を送ることが、必ずできるのです。
 皆さん、「やがて仏祖になるこの身」そして「仏祖の冥助」、この言葉を本当に信じていらっしゃいますか。信じましょう。1+1=2だけを信じるような、原子力発電所を造っても、その処理の方法を本当には知らない科学を信じるような、目に見える三次元の世界だけを信じるような、そんな狭い見方に縛られるのはやめましょう。
 近代的な合理主義だけで説明できることが、絶対であるような、そんな頭だけの理解は宗教の世界ではありません。「やがて仏祖になるこの身」そして真の懺悔をするならば必ず「仏祖の冥助」があることを信じること、これが宗教です。
 人間は人間としての真を尽くし、「やがて仏祖になるこの身」を信じ、自分を生きていきましょう。この一年も、どうぞ、心豊かな年でありますように。