柳緑花紅

葬祭の心
〜直葬三題


奈良康明
(財)東方研究会常務理事
駒澤大学名誉教授


 直葬が話題になっている。遺体を直接火葬場に運んで焼骨し、遺骨は墓があれば納骨し、墓がなければ散骨してしまう。火葬場から遺骨を持ち帰らないケースもあるという。
 死者を弔らう気持ちもなく、遺骨もモノあつかい。不人情な話しだと非難する声は高い。
 たしかにその通りだが、実は直葬にもいろいろある。幾つかの事例から葬祭の意味を探ってみたい。
 長年、お寺に来たこともない檀家のひとりが、母親の遺骨を納骨したいと言ってきた。住所が遠方のこともあるが、お寺には何の連絡もない。遺体は施設から火葬場へ運び、典型的な直葬をして、遺骨は寺に「捨て」に来た。
 いろいろと話をしていて気がついたのだが、葬儀について普通は知っているであろう常識的なことを全く知らない。
 父親は幼時に亡くなり、母子家庭で育った。身内の葬儀を経験したこともない。寺とも無縁である。友人や知人の葬儀に弔問に行ったことはあるが自分の問題として考えたこともない。葬式などは自分がかかわるものではないと思っている。だから葬儀に関する社会的慣行も知らない。
 いや、死者にどう対応していいかもわからない。「死者をどう悼む」のかというその悼み方、「形」は国や民族によってみな異なる。つまり文化伝承の問題なのだし、それぞれの社会環境の中で次第に覚えていくものであろう。この人はそうしたことにあまりに無関心できてしまった。話してみると決して不人情な人とは思えない。しかし、死者へどう対応していいかわからないし、生活も貧しい。葬儀という「無駄なこと」に金を使いたくないし、そこで直葬になった。
 話しているうちに「ああ、そういうものなんですか」などという声も出てきた。無知の故に当たり前のことと思って直葬をやっている。別に不人情なわけではないのである。
 死者を悼む心の表現法、形は自然に出てくるものではない。やはり生活環境の中で覚えていくものであろう。妙な比較だが、私はこんなことを考えていた。昔は子供に親孝行せよと教えたが、親には子供を可愛がれとは教えなかった。しかし、今日では、子供は大事にし、殺してはいけないものなのだ、と親に教える必要(?)のある時代になった。子供を愛するという人間本来の心情をどう表現するのか、という社会的訓練がおろそかにされている。文化が崩壊しかかっているのである。死者を悼む心も同じではないだろうか。
 しかし、こういう直葬もある。私の檀家だが子供を抱えて慎ましく暮らしている女性がいる。彼女の義理の叔父が亡くなった。独身で、最近はほとんど付き合いがないが、僅かな縁をたどって、施設から言ってきた。やむなく後の始末を引き受けたが、生活に余裕はないし、仕方なく葬儀はしなかった、わずかに火葬場の読経のみで「直葬」した。
 焼骨したあとで、彼女は「考えてみると可哀想ですね、淋しかったでしょうね」と涙ぐんだ。死者に対する一掬の涙で、この死者は救われた、と私は思った。直葬というと死体をモノと見、遺骨をゴミ扱いする殺伐たる光景が思い浮かべられるのだが、死者を心から悼むこうした直葬もあるのである。
 反面にこういう葬儀もある。一応、普通に通夜、告別式、納骨はしたのだが、冷たい雰囲気の葬儀だった。費用をどう分担するのかで兄弟姉妹が争い、通夜の席で大きな声を出し合っていた。亡き父を悼む人情など、ひとかけらもみあたらなかった。
 表面的な形式だけで「直葬」と決めつけ、非難していいものなのかどうか。直葬に近い葬儀を出しながら、「お別れ会」を開いて死者を悼む傾向も出ている。
 葬儀に大切なのは形式ではない。死者を悼む私たちの心であろう。生者の側から死者を悼む心を向けることが葬儀の基本だし、それが「廻向」の原点だろう。


(挿画/長谷川 葉月)