シリーズ第三章 受戒入位
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山總持寺
第十一節
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
(訳)
(前章で、懺悔について説いたが)次には、仏法僧の三宝を深く敬うべきであることを説こう。生生世世、三宝を大事にし、敬い、真を捧げることを願いなさいよ。インドから中国・日本に真の教えとして伝わってきたことは、仏法僧を心から敬うことなのである。
第十二節
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや、徒に所逼を怖て山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其の帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
(訳)
福が薄く徳の少ない人々は、三宝という言葉さえ聞くことができないのだ。ましてや帰依(全てをゆだねること)して仏弟子となることなどできようか。山神鬼神に脅かされることを怖れて、山神や鬼神にやたらに帰依したり、仏教以外の霊廟(制多cetiya)を拝んだりすることはしてはならない。そのようなものにすがっても、四苦八苦から逃れることはできないのだ。早く仏法僧の三宝に帰依して、四苦八苦から解放されるだけでなく、悟りを得なさいよ。
(解説)
真理は釈迦出現の以前にも説かれていた
三宝に帰依することが、仏道を歩むものにとって、大事な根本です。一体三宝、現前三宝、住持三宝という三種類の三宝の意味を説明しましょう。仏教はいろいろな仏教用語があって、それで仏教はなんだか難しい感じがしてしまいますが、言葉に振り回されないで、順に考えていけば分かりやすいです。
先ず一体三宝ですが、この宇宙の万物に宿る真実そのもの、またそれを説く三世の諸仏のことを仏、法は三世の諸仏が説かれる真理、また真理そのもの、僧は真理を行じる三世の諸仏諸菩薩聖人等の意味です。つまりお釈迦様が出現なさる前にも勿論真理はあり、それは説かれ行じられていたのです。そうして、いよいよお釈迦様が出現なさいまして、仏はお釈迦様のこと、法はその教え、僧はその教えを学び行じた仏弟子たちのこと、この仏法僧は現前三宝といいます。そしてお釈迦様がお亡くなりになった後は、お釈迦様のお姿を現した木仏画像などを仏として住持(たもち続けていくこと)し、釈尊の教えを表す経文を法として住持し、その教えを学び住持していく者を僧とするのを住持三宝といいます。
この三宝に、全身全霊で信じ随うことを帰依といいます。しかし、帰依は闇雲に従うこととは違います。お釈迦様を信じ、お釈迦様の説かれた法を学び、それに帰依していくのです。
仏に帰依するということは、わりあい分かり易いと思います。でも、法に帰依すること、教えを学ぶことは、日本仏教では足りないように思います。三宝に帰依するということは、ただ「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と、口で鸚鵡のようにお唱えするだけではありません。
帰依を一歩間違いますと、とんでもない教えに随ってしまい、殺人さえ犯してしまいますから、世間の人々は、宗教に対して安らぎよりも恐怖心を抱いてしまう事例が幾つもあります。我(が)を捨てて、理屈抜きにこれを信じなさい。信じられないのは我があるからだ、などといわれ、命ぜられるままに他を害するように洗脳されていくのは、まことの帰依ではないのですけれど、真面目で純粋な人ほど騙されやすいのです。自分が純粋で真面目だと思っている人は、お気をつけください。
仏教は、八万四千の法門などといわれるように、多数の煩悩を制するために、多数の教えがあって、とても難しいように思いますが、怖れることはありません。
衆苦とは、つまりお釈迦様は四苦八苦(生老病死の四苦、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五陰盛苦)に分析なさいましたが、これらの苦をいかに受けとめて生きていくか。それには「諸行無常(この世の一切は、永遠に存在するのではなく常に変わり続けている)」であることを知ることです。「諸法無我(この世の一切のものは、人間も含めて、永遠に残る実体は無い。縁によって生じ、縁によって滅していくのである)」であることを知ることです。そして、無常と無我を心底わかったなら、一切の執着から解放されて、「涅槃寂静(一切とらわれのない清らかな悟りの境地)」になることができますよ、という。これが根本です。
しかし、しかし、言葉で言うは易く、また、なんだそんな当たり前の事か、と思うかもしれませんね。しかし、しかし、心底、本当に無常と無我が分かるには、身心をもって修行しなければ、本当に分かることは難しいかもしれません。曹洞宗で坐禅を勧めるのは、このためです。頭で理解しても、身心に染みわたりません。でもなかなか坐禅はできないかもしれません。ですから五分でも十分でも静かな時を持って、諸行無常と諸法無我の教えを心に照らしてみて下さい。この度のような不慮の震災に遭った方々は、身をもって無常と無我を実感なさったのではないでしょうか。
ところで、現代も多くの邪教がありますが、人間の有史以来あるでしょう。道元禅師の時代にも山神鬼神に帰依してしまっている人がいたので、それは仏教ではない、と道元禅師は警告なさったのです。
だからといって、山神や鬼神の存在を否定することは、別の問題だと私は考えています。目には見えないけれども、山神や鬼神はいるでしょう。山神や鬼神のみならず、目には見えなくても、なんらかの「気」のようなものは、遍満しているとさえ思っています。霊といえば分かりやすいかもしれませんが、私は「気」と言っておきましょう。とにかく見えないものを証明することは難しいです。特に質量のない「気」は難しいでしょう。
知人の一人に、某宗教団体に入っている人がいまして、株をやっていましたが、そこの霊能者の方に今日中に全て売りなさい、と言われすぐに売ったそうです。翌日、株の大暴落があったということで、全財産を失わなくてすんだと言い、益々この宗教に夢中です。人知を超えた啓示を受けることのできる人、またそれを伝える「気」は、たしかにあると思います。
苦からの解放は学び行じることから
しかし、それはお釈迦様の教えとは違います。「気」というよりも霊といったほうが、やはり理解しやすいと思いますので、霊的という表現をちょっと使いますが、霊的なことと、お釈迦様の教えを混同しないことだと思います。混同してしまうので、一方に偏ってしまい、霊的なことを強調したり、一方は、合理的で、目に見えることしか受け入れられないということになってしまうのではないでしょうか。
明日が分からない不安や、今どうしてよいか分からない不安や、この「気の力」につい頼ってしまうこともありますが、それは間違いとはいえませんが、根本的な苦の解決にはならないのです。また諸天善神に祈願祈祷して、現世利益をお願いするのも間違いとは言えませんが、ただ、やはり根本的な苦の解決にはなりません。また、悪い霊がついている、除霊しましょう、といわれて、たとえ除霊ができたとしても、根本的な苦の解決にはなっていないということを明確にしておきたいと思います。
私には霊能者と言われる数人の友人がいますし、私にも経験がありますので、三次元世界だけでない「目にはさやかに見えない気」に、敬虔な気持ちを持っています。
ただ、それだけでは根本的な苦の解決の助けにはなりません。釈尊の教えを学び、修行するのは自分自身です。誰も自分自身の代わりに学び修行することはできません。たとえ、もし万能の「気の力」があったとしても、それはできません。
この自分が自分の人生を歩むように、お釈迦様の教えを学び行じることができるのは、自分自身です。生老病死の苦から、心底自身を解放しうるのは、自分自身の身心にあります。これを教えて下さったのはお釈迦様です。その教えは法です。それを伝え教えているのは仏弟子です。この三宝に帰依する以外、真の安らぎはありません(仏教からいえば我田引水のような表現になりますが、他の宗教には他の教えがあります)。
一切万物、大地も海も空も、そして人間の目には見えないけれど遍満している「気」、一切に囲まれて、このたった一人の自分が、今此処に生きているのだということを、胸に手を当ててしみじみと感じつつ、仏法僧に帰依して生きていければ有り難いのではなかろうかと思うのです。