スティーブ・ジョブズを支えた禅
――秋葉玄吾老師に聞く
     

スティーブ・ジョブズ T・U
ウォルター・アイザックソン/著
井口耕二/訳
(講談社)


秋葉 玄吾(あきば・げんご)

1943 年、東京都北区に生まれる。
半年後、父親の実家・福島県伊達市梁川町に疎開。小学生時代を過ごす。
叔父の勧めで、駒澤大学文学部に進学。卒業後、広告会社に7年勤め、その後、宮城県・峰仙寺・千葉省一師のもとで得度。
30歳の時、大本山永平寺に入り、首座などを勤め8年間修行。
永平寺東京別院・維那、保泉院住職を歴任後、1987年、本格的にカリフォルニア・オークランド市に渡る。
北アメリカ国際布教総監を13年務め、2010 年引退。
現在、好人庵禅堂住職、国際布教師として禅の普及に尽力し、アメリカ初の伝統的な修行道場「天平山プロジェクト」2014年開堂に向け、国内外を奔走している。


 米アップルの創業者で昨年十月五日に五十六歳の若さで亡くなったスティーブ・ジョブズ氏。「ハングリーであれ、愚か者であれStay hungry Stay foolish」は、二〇〇五年に米スタンフォード大学でおこなった講演でのメッセージ。氏の象徴的な金言として有名になり、禅の教えが氏の生き方に強い影響を与えたと、多くのマスコミは伝えた。
 ベストセラーとなった氏の自伝『スティーブ・ジョブズT・U』には、禅僧・乙川(知野)弘文老師のもとで、坐禅の指導を受け、禅堂、禅センターで坐禅をし、仏式の結婚式を行ったことや、師との写真も載せられている。また、京都の庭園を訪れたり、永平寺で修行したいと思っていたともいう。大ヒットしたiPhoneiPadの機能性やシンプルなデザインも、不要なものをギリギリにそぎ落とすミニマリスト的な美を追究したのも、厳しく絞り込んでいく集中力も「禅」の精神からくるものだと書かれている。
 知野師は一九三八年新潟県生まれ。駒澤大学を経て、京都大学の哲学科修士号を取得。その後、永平寺で三年間修行し、一九六七年、サンフランシスコ禅センターを開いた鈴木俊隆老師のもとに渡米。タサハラ禅マウンテンセンター、ロスアルト禅センター、ハイク禅堂、慈光寺住職などを歴任し二〇〇二年に遷化された。
 師の葬儀を行ったのは、カリフォルニア州オークランドに住み、十三年間、曹洞宗・北アメリカ国際布教総監を務めた秋葉玄吾師だ。この葬儀にジョブズ氏はローリーン夫人とともに参列していた。
 その後、ジョブズ氏ががんと診察されたときにローリーン夫人が、「あの時の禅のお坊さんに葬式をお願いしてもらえないかしら」と、知野師の奥さんステファニーさんに話し、秋葉師に電話をしてきたという。その後、ジョブズ氏は手術で快復したのだが、その当時の話が日本の一般週刊誌を賑わせた。 「私が彼の葬儀をしたと思われ、何人もの知人から聞かれました。どんどん話が一人歩きして驚きました」と秋葉師。

ハングリーであれ
愚か者であれ


 また、「ハングリーであれ、愚か者であれ」は、曹洞宗の洞山良介禅師が説いた『愚のごとく、魯のごとく、よく相続するを主中の主と名づく』から触発され、コツコツと一つのことを続ける人は強い。形あるものは必ず滅びる。だからこそ命ある間にたゆまず精進し、一瞬一瞬の生を最大限に発揮せよ、とジョブズ氏は解釈し、そのように表現したのだろうと話す。
 知野師については、「静かな穏やかな方でした。いつもニコニコして、人をふわっと包み込むようなところがおありでしたから、ストレートなジョブズ氏は癒されたのでしょう。米国では特に、自分も裸になり信者には最良の友人として接することが禅僧に求められます」。
 秋葉師はジョブズ氏とは個人的なつきあいはなかったが、知野師が住む家のガレージを改造した「ハイク禅堂」に何回か指導に行った経験がある。板敷きの単、半畳ほどの黒い大きな布団の上に坐蒲を置き、三十人の参加者が日曜坐禅会で坐っていた。信者のことはあまり話さない知野師だったが、ジョブズ氏が坐禅の合間におこなう経行について質問をしたことがあり、「彼は夢中になると一つのことを一所懸命になってやる質の人だ」と、話していたという。後年、知野師はジョブズ氏の別邸に住んでいたこともあるという。
 一九六〇〜七〇年代、米国では禅ブーム。
 「当時、米国は豊かであったがベトナム戦争もあり、共産世界と対峙していた。若い世代の人たちはそれに嫌気が差していたし、体制に反抗しドロップアウトしたヒッピーなどが居た頃だ。UCバークレーでアレン・ワッツ教授が東洋哲学を講義したことで、ゲーリー・シュナイダーといった詩人や文学者などに東洋思想に対する関心が広まった。ことに、西洋の考え方と違う禅の思考が非常に新鮮に映ったのだと思います。ワッツ教授はサンフランシスコに東洋哲学研究所を開いており、開教師でいらした鈴木俊隆師もそこで講義をし、若者たちは実際に坐禅をするようになったのです。坐禅をして何になるか、目的を持たずに直接生命と向きあい触れることが坐禅だ、そういうことが当時の若いインテリのドロップアウトした人たちに非常に受け入れられたと思います」と、秋葉師。

必要とされる宗教家の友人

 秋葉師は一九四三年、東京生まれ。駒澤大学文学部を卒業後、広告会社に七年勤め、宮城県峰仙寺・千葉省一師のもとで得度。三十歳から大本山永平寺で八年修行後、永平寺東京別院維那、保泉院住職を経て一九八七年渡米。北アメリカ国際布教総監を十三年務め、二〇一〇年に引退した。 米国には現在二百五十以上の禅センターがあり、四百人もの僧侶がいて半数は女性。その頂点に立ち指導した秋葉師だが、渡米して二、三年は、経典を自分の言葉に置き換え、時には人に協力を得ながら英訳。試行錯誤を重ね布教に取り組んだ。  僧侶になる人に禅の教えを説くように、一般の人に話をしても「和尚さんはなぜ頭をまるめてるの?」、「法衣の袖はなぜそんなに長いの」、「どうして紐をそこで締めるの」といったい素朴な質問に意表を突かれたことがしばしばだった。
 「たくさんの宗教があるこの国にあって神父さん、牧師さん、お坊さんは宗教家なのです。この競争社会に経済活動をしない非生産者です。わかりやすく言うと、お釈迦様は優れた指導者、人間の理想の人格者で一番良い教えを下さる方。僧は世の中の一番優れた友達ということです。そして信者はきちんとした宗教家の友達を持つことが生活の安定の一つで、宗教家は彼らに必要な人です。人と人が、裸になって付き合うことが重要なのです」。

2014年 伝統的な修行道場を建立
天平山禅堂プロジェクト


 IT企業の多いシリコンバレーでは禅を基にした瞑想法を指導する会社も多く、ホテルやマンションでも禅ルームが備わっているところもあるほどだ。ジョブズ氏と同じように心の安寧をもとめて坐禅する人の姿もあるのだろうか。
 秋葉師は今、サンフランシスコ郊外のレイクカウンティに奈良の唐招提寺をモデルにした禅寺を建てる「天平山禅堂プロジェクト」を進めている。総敷地面積十万坪。日本の檜材を使った本格的な伽藍で法堂、僧堂、東室、庫院、山門、など伝統的な寺院様式。曹洞宗の伝統的修行形態を遵守し、増え続ける僧侶育成のための曹洞宗認可の修行道場を、二〇一四年に開堂の予定だ。

秋葉師を支える好江夫人は多才な活動家

 その事業に奔走する秋葉師を支える好江夫人は、昨年十月に『みんなできるさ We cando it! 戦災孤児が叶えたアメリカンドリーム』(講談社)を日本で出版した。以前小誌でも紹介したが、オークランドにある全米一のジャズクラブ&ジャパニーズレストラン「ヨシズ」のオーナーで、舞踊、茶道、華道の師範と多才な活動を精力的にこなし、多忙な日々を送っている。
 戦争で父を失い、幼い頃母を亡くし、ひとりで生き抜いてきた好江夫人は米国に渡り、厳しい体験を重ねながらもUCバークレー在学中、アラン・ワッツ教授から、仏教思想を学んだ。「その仏教思想が人生の指針になった」と書いている。
 毎朝、読経して坐る屋根裏部屋をリフォームし、茶室と禅堂を作った際、鈴木俊隆老師夫人の縁で、秋葉師によって開単式が行われた。禅堂は「好人庵」と名付けられ、それが師との出会いだった。
 「十九で米国に渡って五十年、私ってボールに乗ったオットセイみたいよ。常に前に進まないと生きられない。苦しいときは『修行中』と思って、禅の心を現実の世界に織り込みながら生きてきました。これからも物事を正しく見る訓練、自分をクリアに、命が絶えるまで魂を磨きながら前に進みます」と言う好江さんの目の輝きは力強さを放っていた。

注目される日本の仏教

 疲れを知らない好江さんを優しく見守る秋葉師は、「異国の地で開拓された開教師の方々は並々ならぬ苦労をされてきました。米国は物質の豊かさを追求した文明国、それに対して日本は仏教に代表されるように、世界の人類の行く末を支える理念をきちんと持っている国です。環境や生態系の問題についても皆相互の関係で成り立っているという仏教の基本理念が鍵なのです。そこに欧米の人は注目しています。日本には豊かな価値のあるものがたくさんある。それに気づいてもっと大切にして欲しい。現実に基づいた本音で人と接することを恐れずに歩んで欲しい」と静かに話されていた。

 秋葉玄吾師と秋葉好江さん


(取材・文 石原恵子)