春彼岸特集
心のなかの大仏様に礼拝する
奈良国立博物館学芸部長 西山 厚さんに聞く
聖武天皇は仏教の力で国を守りみんなを幸せにしようと考え、全国に国分寺・国分尼寺を建て、奈良の都には東大寺を建てて大仏を造った、と一般には言われる。
しかし、聖武天皇の真意は別にあった…。
西山 厚(にしやま・あつし)
奈良国立博物館学芸部長
昭和二十八年、徳島県鳴門市生まれの伊勢育ち。
京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
「女性と仏教」など数々の特別展を企画。
主な著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)、『官能仏教』(角川書店)など。
奈良と仏教をメインテーマとして、人物に焦点をあて、日本の歴史・思想・文学・美術を総合的に見つめ、思い、書き、生きた言葉で語る活動を続けている。
すべての日本人の心のふるさとと言ってもいい古都奈良。一三〇〇年の歴史を刻む社寺の建造物が市内各所に点在し、一九九八年には世界遺産(文化遺産)となっています。そうした建造物のなかでも東大寺の大仏殿は見るものを圧倒するものがあります。そしてそのなかにはもちろん、有名な奈良の大仏様が安置され、人々の尊崇を集めています。
今回は、奈良国立博物館学芸部長の西山厚さんをお訪ねしました。奈良時代にどうして大仏が造られたのかというお話に始まり、話題は『華厳経』と道元禅師の『正法眼蔵』にまで展開、その鋭利で清新な仏教に対する切り口は、仏教に対するあたらしい発見をもたらしてくれました。
(インタビュアー 石原恵子)
――東大寺の大仏は、聖武天皇によって造仏が発願されたということですが、そこには聖武天皇のどんな願いが込められていたのでしょうか。
西山 奈良に大仏がおられるということを知らない人はいないでしょうが、聖武天皇がどうして大仏をお造りになったのか、そのわけを正確に知っている人は意外に少ないのではないかと思っています。
たとえば学校の試験で、聖武天皇が大仏を造った理由を問われ、「聖武天皇は仏教の力で国を守りみんなを幸せにしようと考え、全国に国分寺・国分尼寺を建て、奈良の都には東大寺を建てて大仏を造った。仏教の力で国を守る、そのシンボルが大仏である」と書いたならば、先生は百点満点をくれると思います。でも聖武天皇ご本人が採点したならば、たぶんそれは少し違うとおっしゃると思います。大仏を造る理由、それは聖武天皇ご本人にお尋ねするのが一番いい。聖武天皇ははっきりおっしゃっておられるのです。『大仏造立の詔』がそれです。そこには「万代の副業を脩て、動植ことごとく栄えむとす」とあります。すべての動物、すべての植物が共に栄える世の中をつくりたい。これが大仏造立を決意した理由です。人間はすべての動物のなかに含まれていると思われますが、人間だけのためではない。ここが重要です。
――動物も植物もですか?
西山 聖武天皇ははっきりそう言っておられます。でも、大仏造立の話をする時に、それが語られることはほとんどない。すべての動植物が共に栄える世の中なんて、夢みたいな話だから、研究者はその部分をとばしてしまう。でもそれはおかしい。聖武天皇の思いにもっと近づくべきです。
すべての動植物はさておき、すべての人間が共に栄える世の中って本当にあるのでしょうか。私はないと思います。これから先も、未来永劫、そんな世の中は来るはずがないと私は思っています。人はみんな違う。人にはそれぞれ異なる欲望があり、何を幸せと思うかもそれぞれに異なっている。だからそれぞれの幸せを求めて殺し合ってきた。それが人類の歴史です。すべての人間が共に栄える世の中なんかあるはずがない。ましてやすべての動植物が栄える世の中なんてあるはずがない。でも聖武天皇は本気なんです。すべての生あるものがみんな満たされる世の中を、本気で作ろうとしている。できるはずないのに……。だからとても苦しむことになります。
大仏を造るのは未曾有の大事業でした。莫大な労力とお金がかかる。それなのに聖武天皇はおかしなことを言う。大きな力で造るな。たくさんの富で造るな。一本の草・一握りの土を持ってやって来て大仏造営を手伝いたいという人がいれば、その人に手伝ってもらいなさい。これはどういうことでしょうか。一本の草に何の意味があるのでしょうか。一本の草なんて何の役にも立たないのではないでしょうか。聖武天皇はいったい何を考えておられたのでしょうか。
聖武天皇の苦悩
――聖武天皇がそのような気持ちを抱くようになったのにはどんな理由があったのでしょうか。
西山 そこを考えるのが大事です。それなしに結論を急ぐのは、歴史上の出来事なんか、所詮は他人事だからでしょう。
聖武天皇のお父さんは二十五歳で亡くなった。お母さんは聖武天皇を産んだ後、心を病んで人前に出られなくなった。聖武天皇が初めてお母さんと会ったのは三十七歳の時です。ちなみに、お祖父さんは二十八歳で亡くなっている。そういう家系ですから、聖武天皇が二十代で亡くなっても不思議はない。私たちが思うような人生の長さを聖武天皇は想定していなかったでしょうね。
聖武天皇の時代は惨憺たる時代でもあった。いろんな災害が次々に起こります。まず、干ばつ、飢饉。雨が降らない。穀物が実らない。飢えに苦しみながら、たくさんの人が死んでいく。それが数年続いた。今だったら、雨が降らなくても人は簡単には死なない。でも昔は、雨が降らないだけで人は死んだんです。それから大きな地震が起きた。天然痘が大流行した。どうしようもないぐらいに人が死んでいく。
聖武天皇はそれは自分のせいだと受け止めた。私の政治が悪いから天が災いを与えるのだ。みんなの幸せを切に願う聖武天皇。しかし、現実はその逆、逆、逆へ向かう。しかも、それは自分の責任であるのですから、聖武天皇はひどく苦しむことになる。
聖武天皇は若いころから体が弱くて病気がちだった。しかし、心は強い。精神力で生きていたような方です。でもその心も苦しむことになる。苦しんで苦しんで苦しんだ末に、大仏を造ることを思いつく。そのとき、大きな力やたくさんの富は、むしろ有害無用なものになる。小さな力を無数に集めることにこそ価値がある。大仏を生み出したのは聖武天皇の苦悩です。聖武天皇の苦悩に近づかないと、大仏のことは理解できません。
――内面の苦しみが大仏に昇華されたのですね。
西山 大きな力で造るな、たくさんの富で造るなと聖武天皇は言った。極端に言えば、大仏は出来なくてもいいのかもしれない。同じような思いの人々が次々に現れてくれるのが聖武天皇の願っていたことだったのです。
大仏造りにかかわる人は心のなかに自分の大仏を造れ、と聖武天皇は言っておられます。そして一日に三度、大仏を礼拝せよとも言われます。大仏はまだできていないのにどうやって礼拝するのか。それは心のなかの大仏様を礼拝するのです。
自分の権力を誇示するため聖武天皇は大仏を造ったと言う人がたくさんいます。その人は本当に苦しんだことがないのではないでしょうか。みんなの幸せを本気で願ったことがないのではないでしょうか。だから苦悩する人の気持ちが分からない。でも苦悩することは不幸なことではありません。人は、深い悲しみ、深い苦しみがあってこそ、いつか深い喜びに出会うことができる、と私は思っています。小さな力を集めて大仏が完成した時、聖武天皇はどんなにうれしかったことでしょう。
話は違いますが、日本の歴史をたどると、高僧の方々で、幼い時に親を亡くした人が多いこと、若いころに内面の深い悩みを抱いて苦悩した人が多いことに気づかされます。
たとえば法然上人も道元禅師も比叡山でエリートコースにおられたわけです。ところが、それを許さない内面の苦悩があって、比叡山を下りた。苦悩するのは大事なことです。いい事です。苦悩した人にしか分からない世界があって、そういう人たちだけが、苦悩する人も苦悩していない人も共に幸せになる世界をつくり出す可能性をもてるのではないでしょうか。
大きな苦悩を支えた華厳思想
――昨年の東日本大震災の直後、先生は「世界を救えるのは、深く傷つき、苦しみ、その真っただ中を突き抜けた人だけだろう」と新聞にお書きになりましたね。その苦しみというのも、聖武天皇の苦悩と共通するものがあるのでしょうか?
西山 その時は「突き抜けた」と書きましたが、突き抜けなくてもいいのではないかと思うようになりました。苦しみの中をどこまでも歩み続ける人だけが世界を救えるのではないか。聖武天皇はまさにそういう方だったと思います。その聖武天皇を支えたのが仏教であり華厳思想であったわけです。華厳思想にもとづいてというよりも、普通の人では耐えられないような苦悩が聖武天皇にはあり、それを華厳思想が支えたというほうが正確だと思います。
人は、自分とまったく違う考え方には共感しません。自分のなかにあるのだけれど、まだ明確にはなってなくて、ぼんやりした気配のようでしかない時に、あるものに出会い、あっそれだ、みたいになることがありますよね。聖武天皇にとってそれが『華厳経』だったと思います。『華厳経』は尋常ならざる経典です。人間と塵が平等だという究極の平等思想を説いています。『華厳経』によれば、世界のあらゆるものの中には最高の価値が含まれており、すべての存在はその表現であって、すべてが何かを語ってくれているという。でも、わたしたちはなかなかそれに気付かない。気付けない。
七五二年四月九日、今から千二百六十年前の四月九日が、大仏完成のお祝いの日でした。聖武天皇はうれしかったでしょうね。その後、大仏は兵火で二回焼かれましたが、二回とも再建され、今も存在しているわけです。もしもタイムマシンで奈良時代に戻れたら、聖武天皇に「あれから千二百六十年も経ちましたが、今でもみんな大仏様のことが大好きですよ」と話したいですね。二回焼かれたことは絶対に内緒です。「いつの時代にもみんな大仏様のことをとても大事にしていますよ」と言ってあげたいです。
この世界のすべてはお経
――先生の著書の『仏教発見!』には、道元禅師の『正法眼蔵』に関する記述も多くあります。道元禅師の思想にも華厳の影響が見られるのでしょうか。
西山 道元禅師は『正法眼蔵』のなかで、「いはゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。勝義諦の文字を用ゐ、世俗諦の文字を用ゐ、あるいは天上の文字を用ゐ、あるいは人間の文字を用ゐ、あるいは畜生道の文字を用ゐ、あるいは修羅道の文字を用ゐ、あるいは百草の文字を用ゐ、あるいは万木の文字を用ゐる。このゆへに、尽十方界に森々として羅列 せる長短方円、青黄赤白、しかしながら経巻の文字なり。経巻の表面なり。これを大道の調度とし、仏家の経巻とせり」とおっしゃっている。
この世界のすべてはお経である。しかし、人間は 人間の言葉しか分からないから、人間の書いたお経しか理解できないけれど、実はすべての草も木も、草の言葉、木の言葉でお経を説いているというわけです。『華厳経』でもまた、あらゆるもの、塵のなかにさえ最高の書かれたものがあると言っていますから、同じ考え方ですよね。
『正法眼蔵』には「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして、脱落せしむるなり」。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」という文章もあります。本当に素敵な言葉だと思います。これもまた、華厳の事事無碍法界(じじむげほっかい)という考え方を髣髴とさせます。
ところで、自力とか他力とかよく言われますが、そんな分け方をするのは愚かだと思います。道元禅師の修行を重視する考え方から、道元禅師は自力の極みのように言われますが、禅師は「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」とおっしゃっている。自分から行くのは迷(まよい)だと。そして向こうから来てくれるのが悟りだと言っておられる。これは絶対他力ですよね。だから絶対自力と絶対他力に実は違いはないのです。
注意しておきたいのは、道元禅師のように、自力をとことんやった人だけが他力を知ることができるということです。道元禅師を自力と説明するのは間違い。とはいえ他力と言うのも正しくない。そういうどうでもいい用語でレッテル張りをしないで、道元禅師の文章を、この言葉どおり、注釈を付けず、そのまましっかり拝読すべきだと言いたいですね。
道元禅師の文章は普通の人にはとても書けない文章です。しかもなんて親切なんでしょう。誰にでも分かるようにと、繰り返し繰り返し、違う表現をたくさん使って、何かを伝えようとしてくれている。さまざまな言い方で、懇切丁寧に説明してくれている。にもかかわらず、私たちは残念ながら理解できない。悲しいことに、私たちのレベルが低すぎて、あんなにまで道元禅師が親切に教えてくださっているのに、私たちにはなかなか理解できない。本当に悲しいです。道元禅師はすごい方だと心底思っています。
仏像に焼香ができる奈良国立博物館
――仏像ブームといわれ、最近、博物館の特別展にはたくさんの人が押しかけるようになりました。本来、信仰の対象である仏像を展示するについてはどんなお考えをお持ちですか。
西山 おっしゃるとおり、仏像はあくまで信仰の対象です。奈良国立博物館では、定期的にお坊さんに来ていただいて、展示室で法要を営み、職員も焼香をします。入館者もいる開館中にあえておこないます。仏像がそういう存在であることを知っていただくためです。館内放送をして、入館者の方々もよろしければ焼香してくださいと声掛けもしています。もちろん参加自由ですが、希望される方は焼香して手を合わせてくださいます。
こんなことをしているのは日本中の博物館で奈良国立博物館だけではないかと思います。仏像は本来お寺にあるべきとか、こんな展示ケースに入れられて気の毒とかいった意見も以前はありましたが、近年はそういうクレームを聞いたことがありません。博物館の展示室で、仏像に対して手を合わせる人が結構おられるのはうれしいことです。
――でも、なかには仏像を単なる美術品として観て行く人もいますね。
西山 それはそれでよいと思います。仏像は信仰の対象であるとともに、すぐれた美術品でもあるからです。美しいものにひかれるのは自然なことで、悪いことではありません。
――いずれにしても、全国の寺院を個別に訪ねて仏像を礼拝するのは大変なことですから、博物館で多くを一堂に拝することができるということはありがたいですね。
西山 お寺の方には言いにくいのですが、気持ちとしては、「仏像をお寺にあるときよりも大事にします」というのが私の考え方です。仏像が帰りたくないと言ってくれることを目指しています。
「博物館に来るときにはちょっと心配したけれど、来てみたらすごく心地よくて、こっちのほうがいいような気がして、もう帰りたくない」と仏様が言ってくれたら、最高ですね。目指すところはそこでございます(笑)。
仏教童話全集が私の仏教との出会い
――うれしいお話です。ところで西山さんはテレビや新聞社のセミナー講演会、国内外の小学校、医療施設などでお話をされていますが、そういう活動を始められたきっかけは?
西山 父が歴史家で、小さいときからいつも歴史の話を聞いていました。とてもすてきなお話ばかりで、しかも父はとてもお話がじょうず。魅惑されました。父も母も病気がちでした。もしもいま私たちが死んだらこの子に何を残せるのだろうか。両親は考え抜いた末、私に仏教童話全集を買ってくれました。これが仏教との出会いです。病み上がりの母が、毎晩、観音様の前で『般若心経』と『観音経』を唱えるのを、いつもそばでくっついて聞いていました。それがなければ生きられないというような信仰のあり方をいつも考えています。大きくなってからは、私自身もいろいろ迷うところがあり、そんなときに、今お話ししたような思い出がよみがえってきました。
高校二年のとき、倫理社会の先生が、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』を授業で取り上げ、「遠い国に行く時に本を一冊だけ持っていくとしたらこれです」と話されました。大学に入って最初に買った本が『正法眼蔵随聞記』です。読んでみたら素晴らしくて、いっぱい線を引いた〈写真〉。今から四十年ほど前ですね(笑)。
――先生が一番お好きな言葉、「切に思ふことは必ずとぐるなり」には赤鉛筆で二重線が引いてありますね。
西山 切実に思っていることは必ず実現する。中国には「心想事成」という言葉があり、それを知った時に「切に思ふことは必ずとぐるなり」と同じだなと思いました。
歴史や文化の魅力を未来に伝える
――いろいろなところで講演をされた後、たくさんのお手紙もいただくそうで、講演を聞いた方々にとって、それぞれの仏教発見の喜びがあったのだと思います。西山さんにとって今、切に思うこと、成し遂げたいと思っていることはなんでしょうか?
西山 日本には素晴らしいものがあるということをすべての人々に伝えたい。それによって日本を変えていきたい。大きな話ですが、本当にそう思っています。それにはまず自分が住んでいる奈良から、そして子どもたちから始めようと思い、この十数年実践してきました。奈良には小学校が四十八あり、五年生は約三千三百人いる。その五年生が奈良国立博物館にやって来る仕組みを作りました。
そしてその子どもたちに、最初に申し上げたような大仏様の話をする。毎年ですから、十年やれば三万人、百年やれば三十万人の子どもたちに話ができる。実は、中学生にも、高校生にも、そして幼稚園の子どもたちにもそういう話をしているので、もっとペースは早いです。
日本には、それぞれの地域に本当に素晴らしい文化があるんです。それを知っているのと知らないのとでは世界が違って見えます。どのように考えるか、どのように行動するか、知っているのと知らないのとでは、選ぶ道が違ってきます。奈良、京都、福井、宮城、岩手、福島……。それぞれのところで自分たちが住む地域の自然や歴史や文化をよく知って、それを大事に思い、愛着をもつことが大切です。それぞれの地域の人がお国自慢をすることはとてもいいことなんです。そういうことは、大きな力やたくさんの富がなくてもちゃんとできます。
それぞれの地域でそれぞれの地域の魅力を地域の人々に伝えていくことができなければ、日本の未来はないと思っています。私はまず奈良から、そしてそれぞれの地域でも、それぞれの方が、そういう実践をやっていっていただきたいです。
――今日は、ありがとうございました。