シリーズ第三章 受戒入位
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山永平寺
第十三節
其の帰依三宝とは正に浄信を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其の後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。
◆訳◆
(三宝に帰依することを前に述べたが、)帰依三宝ということは、正に浄きよらかな信心をもって、如来がこの世に在るときも、如来がお亡くなりになった後でも、ひたすらに合掌し低頭して唱えることをいうのである。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は偉大なる師なので帰依いたします。法はすぐれた薬なので帰依いたします。僧はすぐれた友なので帰依いたします」と。このように仏弟子になるには必ず三帰依による。国や宗派によっても戒には違いがあるが、いずれも先ずは三帰戒(三宝に帰依しますという戒)を受けて、それから諸々の戒を受けるのである。そうであるからつまり三帰依したことにより、仏弟子としての他の戒を受けられるのである。
第十四節
此の帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已に証明しまします、衆生当に信受すべし。
◆訳◆
このように仏法僧に帰依する功く 徳どくは、仏心と心が通じ合うとき必ず現れるのである。たとえ天上・人間・地獄・畜生界などの、どこにあっても、深く仏心と出会えば、帰依することができるのである。そうして心から帰依したからには、いつであってもどこにあっても、帰依した心が育ち、必ず功徳が積み重なり、覚さとりを成し遂げるのである。心から知るべきことだが、三帰依の功徳は、最も尊くこの上ないまことに不可思議なものであるということを、釈尊はすでに証明しているのである。皆、疑いなくこの功徳を信じて受けなさいよ。
[解説]
頭で考えているだけでなく身の行為を伴って心は育つ
仏法僧の三宝に帰依することが、なによりも大事といいますが、心に思うだけでは駄目なのです。私たちの行為は、悪い行いだけではなく、善い行いも全て身口意の三業から生じています。この三帰依も合掌低頭することは身業、唱えることは口業、浄信は意業の三業によって表すことによって、はじめて「三帰依をした」といえるのです。他を大切にしましょう、と心に思っただけでは十分ではないように、その心を表さなくては十分な帰依とはいえないのです。
この仏教徒としてのはじめの一歩であり、仏弟子としての証が、意外になされていないのではないでしょうか。きちんと合掌し、頭をさげて、声に出して唱えてみましょう。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と。それからまたこの解説をお読み下さい。
「南無」とは、仏・菩薩に向かって、信じます、したがいます、という帰依の心を表す言葉なのですから、目で読んだだけでは心底にはわからないのです。「南無」の声は自らの口から出ますが、その言霊は自らの耳から入って、全身全霊を満たしてくれるほどのものです。意味は違いますが、キリスト教の「アーメン」のようなものです(アーメンの意味は仏教の薩婆訶〈成就しますように〉に近いでしょう)。 しかし、なにゆえに「仏に帰依したてまつる、法に帰依したてまつる、僧に帰依したてまつる」のか、ここがわからなければ、心からのお唱えはできないですが、「仏は大師なるがゆえ」に帰依するのです。お釈迦様の教えによって、お釈迦様がこの世にあるときも、またその後も、多くの苦しむ人たちが救われているという事実があります。また「法は良薬なるがゆえ」に帰依するのです。その教えは、良薬のように多くの人の心の苦しみを救ってきました。「僧は勝友なるがゆえ」に帰依するのです。競馬に誘ったり、パチンコに誘ったりする友ではありません。僧侶こそ、自分を見つめることを教えてくれる友だから帰依するのです。
仏心に感応道交できるほどの浄心をもって唱える
『増一阿含経』というお経の中には、過去世のときに出家したにもかかわらず、いろいろの悪業をおかしたので飢えた龍になってしまったという二十六億もの龍が、お釈迦様に救いを求めてやってきた、という話が書かれています。この上もない苦しみを受けているので、お救いくださいと龍たちは訴えました。それに対してお釈迦様は、「みな三帰依を受けて、一心に善につとめなさい」とおっしゃいました。そうして救われたという話があることを、道元禅師も、「世尊已に証明しまします」とおっしゃっています。
しかし、こう勧めている私自身も、心底から三帰依をお唱えしているか、と言いますと、反省いたします。日々日々新たに日々新しく、自らの信仰心を呼び起こさなくてはと思います。一度帰依したからそれでよいというのではありませんね。常に、いつも、思い出しては三帰依をお唱えし、自らの信仰を育てたいと思います。頭で考えているだけでは心は育ちません。身の行為を伴って心は育つといえましょう。
しかし、少々懐疑的な私にとって、「浄らか」とか「いい人」とか言われると、それって偽善じゃない、などと疑ってしまうわけです。この解説を書くにあたって「浄信」について、あらためて考えてみました。 なにか自分にとってよいことがあると、「仏菩薩のお陰」と思いますが、それではひどい目にあったときには、仏菩薩から見放されているのでしょうか。三帰依を唱えていた人には功徳が必ずあると説かれているのに、津波に遭って流されてしまった人たちには功徳がないのでしょうか。自分に都合がよいことにだけ「仏菩薩の守り」があるということは言えないでしょう。
この度の震災の話ですが、自分の孫が無事に逃げられそうとわかった祖母は、「バンザイ、バンザイ、生きるんだよ」と、叫びつつ自らは津波に呑まれていってしまったそうです。また、南三陸町の防災無線で「津波が襲来しています。早く高台に逃げてください」と、叫び続け殉職した女性の話は忘れられません。また、一人でも多くの人を避難させたいと、必死で叫び続けて、自らは流されていってしまった消防団の方々もいます。
この方々の叫びこそ、浄信からの叫びといえるのではないかと思います。この方々のことを思い浮かべたとき、浄信を教えられたように思いました。他を救いたいと必死で願うとき、自他が一つの法界が現出し、自他が一つと信じる、これを私は浄らかな信心と受けとります。津波によって命を失ってしまった方々も、現世においては報われなかったかもしれませんが、必ずや来世にこの功徳はあると思います。
願わくは、私たちの唱える三帰依の功徳が、津波に流されてしまった方々のご供養に回向されますことを。仏心に感応道交できるほどの浄信をもって唱えたいと、自らに願うのであります。南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧 薩婆訶。