◆ ご先祖のおかげ ◆
コシヒカリ米作りで最優秀賞
福井県・越前町 平澤正浄さん
日本が世界に誇る米のナンバー1ブランド「コシヒカリ」。新潟県の各地の名前とともに知られているが、もともと「コシヒカリ」は昭和三十一年、福井県の農業試験場で開発された品種。「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲 越光」と歌われ、開発担当者によってその名が付けられた。
福井県越前町に住む平澤正浄さん(六十歳)は昨年「コシヒカリのふるさと『福井米』レベルアップコンテスト」でみごと最優秀賞に選ばれた。コシヒカリ発祥の地・福井をPRするコンテストだが、栽培履歴、玄米の外観、同じ条件で精米、炊飯された米の色、つや、うま味、粘り、香りなどが審査のポイントで、百四十点の応募の中から選ばれた。
平澤さんはかつては会社員として大阪や金沢に勤務し、兼業農家をしていたが、平成八年ごろから本格的に米作りを始めた。親が亡くなるまでは、田植えや稲刈りを手伝うだけという意識だった平澤さんだが、五町歩もの田んぼを引き継ぎ、多くの人の協力を受けながら、地道に農業に取り組んだ。
今までで一番記憶に残ることは、初めてのコシヒカリの稲刈りのときだった。一町歩もある田んぼ一面に稲が倒れ、絶望的な思いで、すべてを手作業で刈りとった。コシヒカリの稲は丈が長くふわふわして扱いにくく、やっとの思いでハサ掛けを終えた。ある日、母がこの米を炊いてみようと釜にかけ、皆で口にした瞬間、「うまい! なんだこの味は」と、仰天した。かつてない極上の味に母も喜び、「コシヒカリ」のうまさに稲刈りの苦労は吹き飛んだ。同時に米作り農業の素晴らしさを初めて実感したときだった。
平澤さんの作る米は四種ある特別栽培米のひとつ。農薬を極力使わず、有機肥料で育てる。何回も行う広い田んぼの草取りはもちろん手作業。炎天下の田んぼで、毎日草との格闘。時間と労力がかかるだけでなく、収穫後の土の手入れも尋常ではいかない。また、害虫駆除や、キツネ、イノシシ、カモシカなどの動物からも守らなくてはいけない。
受賞した米の作り方の特徴を尋ねると、苗箱の籾の数を半数にしたこと、田んぼに植える時には苗を二、三本にして、かなり間隔をあけること。加えて田植えの時期を通常より遅くして五月の下旬にし、九月の下旬に稲を刈ったことだと言う。それにより、カメムシなどの発生する時期を避けられ、収穫前にほどよい秋雨の恵みがあったと熱心に説明された。
「昨年は暑かったですが、偶然にも良い自然条件が重なったんです。これも父母、ご先祖さまのおかげですよ」と平澤さん。当初は予想以上の米作りの難しさに迷うことばかりだったが、高地にある納屋で、ふと目にした走り書きのような文字。先代が書き遺したものに目を見張った。稲作の時期や、米作りの大切な要点を記した、まさに秘伝というべきデータが壁に書き残されていたという。
平澤家の広い仏間には、一間の大きな仏壇があり、過去に何人もの僧侶を輩出している。奥さんの二美さんは毎朝炊き立てのご飯を仏壇に供えるのが日課だ。 自宅近くの先祖の墓がある菩提寺・臥牛院に、平澤さんはよく訪れる。
「お寺に来ると昔のことが昨日のように思い出されます。寺にはよく集まりました。冬至にはカボチャや小豆を煮てみんなで食べたり、春には『おみみ(涅槃団子)作り』もしました。今は町の中心に移った保育園ですが、小さい頃はお寺の境内にあって、毎日わたしも通いました。ある日僕はここから勝手に外に出てしまったことがあります。脱走です。そのときはずいぶん心配をかけたようです。叱られると思いながら園に戻ったら、副園長先生が優しく抱きしめてくれました。うれしかったですね、今でも忘れません」と懐かしむ。冬は雪が多いこの地方、寺の行事がある日の朝は雪かきにも足を運ぶ。
昨年末、近くの老人施設にもちつき用のもち米を差し上げた。老人の喜ぶ顔に自分も元気をもらえたそうだ。祖父の遺した言葉に「人には施しをしなくてはいけない」という言葉が最近よく思い出され、この年になってやっと意味がわかったとつぶやく。
減反政策でも休耕田にするのは忍びなく、考えたすえ、サツマイモを植え、近所にある、たいら保育園の園児にイモ掘りをさせたり、蕎麦の畑も提供した。いっしょに種を撒き、いっしょに収穫し、のちに園の子どもたちが蕎麦打ちして食べるのを今年も楽しみにしている。
安全で安心なおいしいお米を作り、それを食べてくださった方々に感動を味わってほしいと、平沢さんは日々労を惜しまず真摯に働いている。「コシヒカリ」を初めて食べた時の母の笑顔を今でも忘れないからだ。
(文・高月 香)
最優秀賞のお米。つや、透明感があり美しい